えりちゃん

 えりちゃんはキス魔だ。家に帰るとおかえりの声より先にキス。お台所で突然のキス。お風呂に入って来るからキス。振り返ってキス。キス。とにかくやたらにキスをする。掠めるだけの軽いものから、ちょっと動けなくなるくらいの激しいキスまでレパートリーは様々で、その度に口紅が落ちるものだから、元々付けていたお気に入りのリップから落ちにくいティントタイプのリップに変えたのだ。

「大好きだから、毎日したいの」

どうして、と聞くとえりちゃんは大抵そう答えた。柔らかい唇はいつも甘い。一昨日は桃の、昨日は練乳の香りがした。無性に甘いものが食べたくなってしまって、えりちゃんと暮らすようになってから実はかなり体重が増えてしまっている。


 そんなえりちゃんが、今日はキスをしないという。大事件だ。具合が悪いのか、感染る病気なら別に構わないけれど、看病出来なくなるのは困るかな、なんて言っていたらそうではないらしい。言葉には出さないけど、気付いてしまった。もしかして浮気ではないだろうか。少し考えただけでも泣きそうだ。なんて思っていたら見透かされていたようで、それも違う、とえりちゃんは首を振った。ならばどうして、というと答えられないと言う。

「あたしからしちゃ、ダメ?」

「ダメ。今日はとにかく、ダメ」

いつも少し面倒だなって思っていたのに、あたしは意外とわがままだったみたいだ。せめてほっぺに、と言ったらそれは許してくれたので、赤くなるまで存分に吸い付いてからその日は眠った。


 翌朝。土曜日の、朝というより昼の時間。目を覚ましてすぐに隣で眠るえりちゃんの方を見ると、口にバッテンに星柄の絆創膏を貼ったまま寝ている。そんなにしたくないのかな、とムッとしながら絆創膏の端に爪を引っ掛けた。思ったより簡単に剥がれそうだ。起こさないようにゆっくりと絆創膏を剥がし、ちょっと赤くなった肌を撫でる。半分くらい剥がれたところでえりちゃんがもにゅもにゅと口を動かしたので、起こしてしまう前に慌てて手を離した。


 にゅるり、と何か黒い……黒い、何かがえりちゃんの口から顔を出した。一つ目の、ヘビともナメクジともつかないような何かと目が合う。あっ、と声を上げると同時に黒い何かは手のようなものを出し、こちらへ飛び掛かろうとした、次の瞬間。ざくっ、と嫌な音がして、黒い何かから黒い液体が飛び散って、すぐに蒸発した。

「あぶな、ちょっとタレた」

黒い何かを事も無げに飲み込み、口から絆創膏を剥がして、えりちゃんが言った。


「びっくりしたでしょ。あれ、元々はきみのだよ。見せないほうがいいかなって」

聞くと、えりちゃんは悪いものを浄化する力があるらしい。とは言っても本家からずいぶんと遠縁のようで、とても限定的な浄化しか出来ないという。対してあたしは自分でも全く知らなかったけれど、危ないものを溜め込む体質のようだ。毎日のキスはあたしからお化けや、さっきみたいな何か(えりちゃん曰く、お人好しについていく小鬼らしい)を引っ張り出す、つまるところ、儀式の一つで、そうやって引っ張り出されたものはそのままえりちゃんの中に入り、ゆっくりと浄化される、らしい。昨日はそこそこ力の強い小鬼だったようで、キスしたらまたあたしの中へ帰っちゃうから出来なかった、らしい。らしいばかりで要領を得ない説明だったけれど、えりちゃん自身、それほど詳しくないようで、それ以上の説明はなかった。


それよりも。

「じゃあ、じゃあこれまでの……ちゅーって、ただの儀式さぎょうだったの……?」

ずっと愛し合ってると思っていたあたしには、身体の中に黒い変なのがいた事よりずっと衝撃的だった。涙がぼろぼろと溢れる。灰色のシャツに落ちて、さっきの黒いのよりもさらに黒く広がっていく。すると、えりちゃんがくすくすと笑いながら私の頭を撫でて、言い聞かせるようなキスをした。

「大好きだから、守ってあげたいなって、毎日してるんだよ」

すっかり上りきった太陽がえりちゃんの背中をカンカンに照らしている。後光を背負ったえりちゃんがいつもの何倍もカッコ良く見え、きゅん、と胸が熱くなった。えりちゃぁん、と全力でハグしようとしたが、うぷ、と今にも吐き戻しそうな顔で断られてしまった。


「ごめ、もう大丈夫なんだけど、ちょっとお腹張っちゃって」

あたしは胃もたれ気味のえりちゃんの背中をさすりながら、別にそんなにカッコよくはないかもな、と心の中で訂正した。

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