あかね

 葦簀よしずの向こうから語りかける声は、いつだって優しかった。夕方6時の鐘が鳴る。まだ明るいこの時間に帰るのも惜しく、しかしながら門限があったため、後ろ髪を引かれる思いで空き地を去った。さようなら、と向こうから聞こえ、それきり声は聞こえなくなった。


 夜は涼しい梅雨の時期の話。空き地の穴の破れ目から、草の生えるのを掻き分けて入り、寝転んで、昼寝でもしようとした時に、小さく呼びかける声があった。声は空き地に面した長屋の窓から聞こえていた。何度目かの声で、ようやく私を呼んでいるのだと気付き、何、と返事すると、どうやらその声が言うには、空き地のどこかへ投げ捨てられた、人形の目玉を探して欲しいとのことだった。自分で探せばいい、とぶっきらぼうに答えると、そう……とあまりにも哀れな声で言うものだから、気は進まないものの、昼寝の代わりの暇潰しにと何度か通った。結局のところ、彼女とは随分と会話をしていたように思う。


 人形の目玉は丸く、ただ差し込んだり、貼り付けるような半球体のものではないと言う。鳶色とびいろの瞳を持った球体の、人によっては気味の悪いものかもしれない、と呟いた。大事なものじゃないのかと問うと、大事ではあるが、今すぐに必要なものでもない。ただ、なくては困るものだと消え入るような声で話す声は、年齢にしてはずいぶんとしっかりした言葉使いの、少女のそれだった。少女の名前はあかねといった。


 あかねは葦簀の向こうから姿を見せることはなかった。その事についていつか言ってやろうと思っているうちに話は済んでしまったので、やや心残りのまま今に至る。空き地の中には様々なものが落ちていた。赤錆びたナットや空き缶はもちろん、全て集めれば多少買い物が出来る程度の小銭や目玉ではないガラス玉、果ては宝石の付いた誰かの指輪まで、咎められないのをいい事に家へ持ち帰って隠していた。それを知るのは逐一報告してやっていたあかねのみだが、彼女は目玉でない物は結局一度たりとも受け取らずにいた。


 梅雨のことなので、当然ながら雨が降る事が多かった。雨の中で空き地を彷徨いていれば怪しまれるだろうと思い、わざわざ出た事はない。ただ、あかねは寂しくないだろうか、と思う事が何度かあった。雨どいからでたらめな音程の水音が聞こえる。明日は晴れたらいいと思い眠りについた。そんな日々が数日続き、快晴とはいかないまでも、雲の切れ間がやや長い、ずいぶんと蒸し暑くなった日に久々に空き地に向かうと、ずいぶんと物々しい雰囲気で警察が集まっていた。伸びきっていた草は丸刈りにされ、大きな水溜りと、いくらか土を掘り返したあとの山がそこにはあった。


 近所の噂によると、土の中から子供が発見されたらしい。この事は地元紙に小さく載った程度だったが、以来空き地の、入り口がわりにしていたフェンスの穴はフェンスごと取り替えられてしまい、それも編み目の一つ一つが狭いものだったため手足をかけることも出来ず、あかねとは会えないまま夏を迎えた。空き地を裏から回って、直接あかねの家へ向かう事も考えたが、何度道沿いに歩いても空き地の向こうには辿り着けず、諦めたのち、あかねの事を忘れる事も日に日に増えていき、とうとう私は空き地のことなど思い出さなくなり日常へ戻っていった。


 上京し、それから実家に里帰りをした頃、酒をしこたま飲み、夜風に当たるための散歩の道中であかねを思い出し、懐かしむ気持ちで空き地を訪れた。当時は頑強に思えたフェンスもすっかり錆色に変わり、車でもぶつかったのだろうか、端が大きくひしゃげてそのままになっていたのを見付けた私は、辺りをキョロキョロと見回してからその隙間へ忍び込んだ。久々の空き地には雑草がたくましく伸び、再びあの頃の鬱蒼とした草むらが出来ていた。あかねと話した低い塀の辺りまで行くと、お久しぶり、と変わらない声が聞こえた。葦簀の向こうは暗く、到底人がいるようには思えなかったが、間違いなくあかねの声だった。


 ずいぶん待たせてしまったといくらか詫びを入れ、それから、目玉は見付かったかい、と訊ねた。いいえ、と悲しそうな声が聞こえた。どうだい、その人形に代わるものではないかもしらんが、新しい人形でも買ってやろうかと言うと、あかねはありがとうと言ってから、もう少しだけ、と囁いた。酔ったついでの、酔っ払いの奇行で一晩中目玉を探したが、ついに見付かることはなかった。翌日迎えに来た家族にしこたま怒られた後、東京に戻り、あかねの言う目玉と似た物はないかと、普段訪れることのないような人形屋をいくつか巡った。


 薄々、あかねがこの世のものでない事を悟った私は、手向けにでもしたかったのだろう。鳶色の美しい、ガラス細工の目玉を、上等な小箱に包んでもらった。年末に故郷の地を踏みしめ、実家より先に空き地へ向かう。以前の私の奇行のせいか、空き地には新たなフェンスがつけられ、その上監視カメラまで付いてしまっていたので、乱暴ではあるが、箱ごと空き地の中に目玉を放り投げた。


 その晩の事。大晦日の前日という事もあり、大掃除をしてくたびれた私は、酒もほどほどにかつての自室で眠っていた。突然、閉めたはずの窓が開け放たれ、何処かからそれなりの大きさの人形が飛び込んできた。ここは2階である。過疎地ゆえに隣近所に人が住む家はなく、私は直感的に、その人形があかねである事に気付いた。目には私が投げ込んだ鳶色の瞳が嵌っていた。もう少し淑やかな印象があったが、随分と大胆な事をする、と冗談まじりに呟くと、人形は一度だけ瞬きをして、それから動かなくなった。


 今、あかねは東京にいる。着ていたのはあまりに古い服だったので、新調した茜色のドレスを着せて、部屋の椅子に座らせてある。時折部屋の中で小さな声が聞こえるといって友人達が来なくなってしまったが、正体を知っている私はかえって愛着が湧いてしまったので、幸せに暮らしている。

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