126.苦しくて、すごく幸せなの
女神ネメシアの知らぬ術が回る。魔法陣は涼しげな音を立てて作動し、世界を正しく篩い分けした。魔王城の敷地周辺に、シオンの魔力が満ちる。戻ってきた圧倒的な魔力で、回収した人間を包む結界を張った。
解析した魔法陣の範囲に含まれぬ人間を保護し、魔族は己で結界を構築する。残る者達は数十年を経て滅びる世界と運命を共にするはずだ。それを惜しむ気はなかった。
機会は誰にも平等に、貧富の差がなく選べるように与えたのだ。どのような思惑や立場であれ、拒んだ者に与える慈悲はない。シオンの紺色の瞳が紫がかった色に変化した。
大量の魔力がじわりと彼の身を赤く包んだ。見上げるクナウティアは思わず見惚れる。今までと同じなのに、何かが違う。本能に近い部分が恐怖を感じるのに、それを上回る感情が胸を疼かせた。じわじわと浸透する感情の名前は知らないけれど、ひどく心地良くて泣きたくなる。
ぽろりと溢れた涙に気づき、シオンが指先で拭う。濡れた瞳で見上げるクナウティアの耳に囁いた。
「怖いか?」
「わかんない。ただ、ここが苦しくて……すごく幸せなの」
相反する感情なのに、同時に胸の中に存在する。膨らみの足らぬ胸を押さえたクナウティアへ、シオンはくすりと笑った。ああ、この子供は本当に幼いのだ。愛も恋も知らぬ――獣となった雄に、何もかも曝け出す危険性さえ理解出来ない。哀れな獲物の首筋に鼻先を埋めた。
このまま噛み殺してしまいたい衝動に、軽く歯を立てた。牙に感じる柔らかな弾力ある肌が、欲を少し満たしてくれる。
「最終段階に入ります」
魔法陣の制御を行うネリネの宣言に、シオンは顔をあげた。名残惜しいが、今は娘の肌に溺れている場合ではない。額に汗を浮かべて制御に専念するネリネの合図で、シオンは魔力と血を注ぐ。尖った牙で己の手首を噛み、魔法陣の上に流し込んだ。
魔法陣の外の枠を周り、満ちた血が文字を伝い中に吸われていく。細く長く流れる血が中央の記号を埋めたとき、柔らかな感触とちくりと痛みが走った。
「痛そう」
クナウティアは赤く濡れた唇でそう告げた。傷口に唇を寄せ、その血を舌で舐める。手当てに使えるものがないかと探したクナウティアは、躊躇いなくドレスの袖を破いた。それを傷口に押し当て、巻き付けようとする。
「もう消える」
血を流すために傷を塞がなかったが、もう治癒を使える。そう告げて傷を消すと、残った血を拭って確認した彼女は微笑んだ。
「よかった」
口紅のように赤い血を纏う唇が紡いだ安堵の言葉に、誘われて唇を寄せた。軽く触れたあと、しっとりした唇の赤を舐めとる。獣の口付けだ。奪い与えぬ自分勝手なキスを、目を見開いたクナウティアは抵抗せずに受け入れた。だが顔どころか耳や首まで赤くし、ぎゅっと抱きつかれる。顔が見えなくなったと笑えば、どんと胸を叩かれた。
魔法陣が一気に光を放つ。世界は、あるべき姿を取り戻そうとしていた。
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