第12話「トウコとユウ」

 ユウが目を覚ますと、最初に目に入ったのはトウコの横顔だった。


 おでこに冷たいお絞りを置いてくれる。


 心が温かくなっていくのを感じて……余計に悲しくなった。


 兄弟たちは、きっと、この温もりを知らない。


「ありゃ、起きてる。ちょっとあんた、大丈夫なの? 過去の話をしたら倒れたって」


 トウコは心配そうな顔だ。

 優しい、顔だ。


 ユウは寂しげに微笑み、ベッドから上体を起こした。


「どのくらい寝てた?」


「丸一日ぐっすりよ。もう夕方になるわ」


「ずっと看病してくれてたの?」


「そりゃそうでしょ。気絶してぶっ倒れたままなんだから」


 そうするのが当たり前のように、そう口にしていた。


「……トウコさんは、お姉さんに頼まれて、オレを迎えに来たんだよね?」


 出会ったときの話? とトウコが眉を顰める。


「そうよ。何年も疎遠だった姉さんから急に電話が掛かってきて、子供を預かって欲しいって。必死なカンジだったから、心配になって行ってみたら、待ち合わせ場所には記憶喪失のあんたが一人だけ。姉さんは来なかった。死んでたんだから当たり前だけど」


「調べようとは思わなかったの? オレの身元や……お姉さんの死のこと」


「姉さんが勤めてる研究所はヤバいらしいって、なんとなく聞いてたから。藪蛇になるような事態は避けたのよ。だいたい、あんたの面倒を看るだけで精一杯だっての。当時のあたし、大学生よ?」


「施設に預けようとは思わなかったの?」


「今日のあんた、質問攻めねぇ……なんだってのよ」


 ユウは俯き、目を瞑る。千里眼を使う。


 ジャックとクイーンはまだ遠い。時間はある。


 ――覚悟を、決めておきたかった。


 迷いはある。しかし、一番大切な存在がトウコさんであることに変わりは無い。


 殺し合いになれば、自分は死ぬかもしれない。


 だから、知っておきたかった。


 今まで、怖くて聞けなかったことを。


「事件性も含めて、警察に任せる手もあったはずだ。それなのに、血の繋がりの無い子供を――得体の知れない子供なんかを――どうして……どうして、オレなんかを育ててくれたの?」


 涙が出そうだった。


 口にするのが怖かったこともある。


 答えを聞くのが怖かったこともある。


 だが、あるのは恐怖だけじゃない。


 トウコさんが、確かに、この七年間、自分を守り育ててくれた――その事実だけで、胸がいっぱいになってしまうからだ。


 事件に巻き込まれただけのトウコさんに、責任と呼ぶべきものなど何一つ無い。


 捨ててしまえば、ラクだったろうに。


 普通の女子大生として、学生生活を満喫することができたはずなのに。


 どうして、手を差し伸べてくれたの?


「う~ん……あんた、覚えてないの?」


 真剣に聞いたつもりだったが、トウコは恍けたような顔をしていた。口をへの字に曲げたり、何か言おうとして口を開けたかと思ったら、中断して息を大きく吐いたり。シリアスな意味で言いづらそうにしているのではなく、どこかコミカルな感じ。


 こっちはいっぱいいっぱいだってのに、なんなんだこのふざけた顔は。


「じゃあ……言うわ」


 早くそうしてほしい。苛立ちが感謝を通り越してしまいそうだ。


「あんたが、死ぬほど甘えん坊だったからよ」


「…………へ?」


「最初は子供ながらに警戒してたんだけど、一緒に居て何日かしたら、死ぬほど甘えてくるようになったの。あたしの腕や足にしがみ付いて離れなくなるのよ。振り解こうとしても無駄、七歳児のすべての力を駆使してくっついてくる。おかげで料理や勉強をしているときまでおんぶやだっこをするはめになったわ。まるで体の大きい赤ちゃんを世話してるみたいだった」


 ユウは両手で顔を覆っていた。マグマのような熱気と色で、赤面していた。


「でも……今思えば、無理もないことだったのかもね。あの頃のユウは、自分の名前すら覚えていないくらい重度の記憶喪失だったわけだし、頼れそうな人間はあたしくらい。記憶を失う前だって、親の愛情を受けられるような環境じゃなかったんだもの」


 トウコは恥ずかしがっているユウの顔を見て、笑みを漏らす。


「それに――あたし自身、楽しかったのよ。ユウと一緒の生活が。大学に通ってはいたけど、特にやりたいこともなくて、こんなんで仕事に就くことなんてできるのかなって思ってた。でも、あんたのためだって思ったら、頑張れた。休みの日に小さいユウの手を引きながらそこらへんの道を歩く――そんなちっぽけなことが、自分の生きる意味になるくらい楽しかったの」


 いつしかトウコの目は潤んでいた。ユウを見ていたら、過去の色んな光景が蘇ってきた。大きくなっていくあなたと、それを見つめている私。ケンカして憎くなったときや、重荷に感じていたときだってあったはずなのに、どうしてだろう。今はそれすら愛おしい。


「ねえ、ユウはあたしと一緒で幸せだった? あたし、ちゃんとお母さんやれてたかな?」


 トウコの頬を一筋の涙が伝っていく。


 その光を目にした瞬間、ユウの目から涙が溢れ出していた。


「そんな、こと――」


 当たり前じゃないか。


 幸せだったよ。


 立派な母さんだよ。


 はっきりとそう言ってあげたかった。


 それなのに、口からは嗚咽しか出てこなかった。溢れ出る感情で喉が詰まって、何も言葉にできない。


 ……でも、大丈夫みたいだ。


 トウコさんが笑ってる。


「なんであんたが泣くのよ。わけ分かんないわよ」


「トウコさんが泣いてるからだよ。つられたんだ」


 トウコは驚いて目を大きくしたが、すぐに納得して頷いた。


「そうね。だからあんたに『ユウ』って名前を付けたんだった」


 ――そのとき、部屋のドアが乱暴にノックされた。


 返事を待つことなく、ゼンが部屋に踏み込んでくる。


「緊急事態だ。アジトに敵のサイキックが侵入した」


 トウコが緊張で顔を強張らせる。


 ユウは静かに目を伏せた。


「恐らく――目的は、ジョーカー、きみの身柄だ。サイキックとして目覚めたきみに、研究材料としての価値を見出したのだろう」


 ゼンは流暢に話を進める。


「それだけではない。口封じとして、きみの関係者に危害を加える可能性もある」


 ユウより先にトウコが反応した。


「あんた、まさか……!」


 ゼンは構わず話を続ける。


「敵対する組織である以上、我々を見逃してくれることもないだろう。そこで提案だ、愛沢ユウくん。我々に力を貸してほしい」


「話が違うわ!」


 怒りの形相でトウコがゼンの胸倉を掴む。


「アンタたちが接触してきたのは、少しでも敵の情報が知りたいからってそれだけでしょう?! ユウを戦わせるなんて聞いてないわ!」


「事情が変わった。いや、変えてしまったんだ。彼自身が」


 ゼンがユウを見つめる。


「彼はエースを倒した。サイキックとしての力を証明した。最早、力の無い人間として逃げ続けることはできない」


 分かるだろ? と今度はトウコの目を見つめる。


 トウコは咄嗟に言い返すことができず、ゼンの胸倉から手を放した。


「……でも、ユウを戦わせるつもりはないわ。無茶だろうがなんだろうが、逃げ切ってみせる」


 ゼンは鼻で笑い、トウコの横を通り過ぎてユウの前に立った。


「きみはどう思う? たった一人で母親を守りつつサイキックに一生付け狙われながら逃亡生活を送るか――それとも、我々の支援を受けながらここで迎え撃ち禍根を断ち切るか。きみはどちらを選ぶ?」


 ユウは顔を伏せた。逃げることなど考えていなかった。最初から一人で戦うつもりだった。しかし。


 トウコがすがるような声で言う。


「こいつの話を聞いちゃダメ。こいつはユウの力を利用したいだけ。自分の両親や仲間を殺したサイキックに、復讐したいだけよ。戦いになったら、死ぬかもしれないのよ? あたしはユウが生きてさえいればそれでいい。危険なことはしないで……」


 ゼンが憎々しげに口を歪める。この少年の場合、自分の意に沿わずとも母親の言うことなら聞いてしまうかもしれない。

 しかしそのとき……イイコトを思い出した。ニヤリと嗤う。


「そういえば、友達にはもう会ったのか?」


「――え?」


「彼女、きみに酷いことを言ってしまったと激しく後悔していてね。我々がきみを保護したことを伝えると、ファミリーに協力することで、きみの力になりたいと言ってくれたんだ。ファミリーは人手不足だから、今頃、前線に駆り出されているかもしれない」


「その人の、名前は……?」


 ユウの声は震えていた。


澄川すみかわミナギ。きみの幼馴染らしいな?」

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