細々と垂れ流す自意識について(2018/09/17 22:37)

なぜブログを書くのかという根源的な問題である。


理由はもちろん人それぞれだろう。

情報を発信したい、宣伝したい。何かを伝えたい、ただの記録。とにかくアフィリエイトで儲けたい。


様々だ。では僕の場合は?


唯一のリンクをフォロワー数十人のTwitterに張り付け、ろくにブログの宣伝もせず、カテゴリ分けや新着一覧のない人目に触れにくい環境(ブログを始めるにあたってBloggerを選んだのはそういう点を考慮している)で細々と気が向いたときにブログを更新する意味とは。



ブログを始めた大義名分としては、以下の通りである。


『はじめに』という名の予防線


しかし、これは半分は本心だが、半分は嘘である。

自分の考えをまとめ文字にする作業だけならば、語彙力を磨くためだけならば、ブログでなくとも日記を書けばいい。チラシの裏でも日記帳でもWordでもテキストエディタでもなんでもいい。わざわざ全世界と繋がりを持った場で書く必要はない。


ではなぜ、匿名を決め込みながらも、か細い外界との接触を維持し、数人の目に留まるかどうかの範囲でブログを書くのか。


正直、自分でもよく分からない。

だが、ひとつ言えるとすれば、それはおそらく承認欲求を満たすためだと思う。割と小さな範囲で。


ここで細々と垂れ流す自意識が大勢の人目に触れていいものではないと自覚はしている。読ませて楽しませる自信も、有益な情報もない。

だがそれでも、誰かにこの扉をノックして欲しいのだ。そしてそこにあるものを認めてもらいたいのだと思う。それがたとえたった一人だけだったとしても。


自己肯定感のなさが如実に現れた他人任せの受け身な姿勢ではあるが、要はその可能性を繋ぎ止めておきたいのだろう。その可能性がどれほど低くても構わない、ゼロではないことだけが大事なのだ。



現実というやつは汚く、厳しく、辛いものである。

その事実から目を逸らすためにある者は酒に協力を要請し、ある者は娯楽に助けを求め、ある者は快楽を請求する。

それが悪いことだとは思わない(法律の範囲内であれば)。そうでもしなければ、何かにすがり、逃避しなければ我々は生きていけないのだ。


そして僕の場合は、140字なりブログなり文字にすることで何かを吐き出した気になって、そして、それを誰かが認めてくれるかもしれないという夢を作り上げ、夢と現実の境界に逃げ込んでいるのだ。

恐らくは知らず知らずのうちに自覚していたからこそこんなタイトルのブログを作ったのだろう。

それは発信でも宣伝でも記録でもない。自分のためだけの自己満足だ。



所詮、自分のためにブログを書く人間なんてのは、自分を憐れんでいるに過ぎないのだ。

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