最低な君が愛した最低な俺

紅葡萄

第1話 蜜

 人の香りというのは、実はフェロモンそのもので、人の本能は鼻から得られる知覚にえらく従順だ。

 彼女の吸う葉巻はショコラフレーバーの甘い香りが特徴的だった。肺に入れずふかすものだから、彼女の周りには濃厚な香りの渦が巻いていた。

 たったひと目見ただけなのに、細い指に似つかわしくない上巻葉(ラッパー)の深い茶色が何故か目についてはなれなかった。

 あれはきっと、赤杉美里(あかすぎみさと)という生き物の甘美な求愛行動だったに違いない。



 俺は初めて彼女を見かけたシーシャバーに来ていた。

 この店はシーシャバーの名の通り、シーシャを吸うために来るところなのだが、店長を始めとして愛煙家の集まる店なので、煙管やパイプを持ち込んだり、タバコではないものの煙の量が多くて敬遠されがちなヴェイプを吸うものも多かった。

 俺は珍しくノーマルな紙タバコを吸うタイプの人間だった。この店に通う理由は、店主が知り合いの兄であるということと、本場で学んだ中東料理を日本人の舌に合わせてアレンジしたフードメニューにすっかり魅了されているからだった。


 俺はシーシャではなくフード目的で通い始め、この店に来てからシーシャを吸うようになった。軽めとはいえ普段から紙タバコを吸っていても、シーシャの重さは頭にずしんと伸し掛かる。それが所謂【ヤニクラ】と言われるものだと認識するまで、自分は犯罪に手を染めてしまったのではないかと不安になったほどだ。

 またその感覚が心地よくて、吸口を離さないままでいると、店主から「その吸い方は危ないからやめな」と怒られる。もう何度か繰り返したが、俺はなかなか学べないでいる。

 また今日も鋭い視線で、店主の深月(みづき)くんに睨まれた。首からこめかみまで色の入った入れ墨がピクピク動く。


「またそういう吸い方しよる」

 彼の言葉は若干西の方の訛りがある。出身は東京だったはずなのにどういうオリジナリティなのか、疑問に思って訊ねたときは、笑顔で流されてしまった。きっと聞いてはいけないことだった。


「良いでしょ別に。死ぬわけじゃなし」

 深月くんは肩をすくめると、俺が注文していたキョフテという羊肉のハンバーグをカウンターから俺の目の前に置いた。日本風のハンバーグと比べると少々スパイスが効いているのが特徴的だ。

 何度も食している料理ではあるが、口の端から涎がこぼれてしまいそうなほどいい香りが漂う。我慢できずに一口頬張ると、口の中で肉汁が溢れ出た。


「うまそうに食うね、お前は」

「実際深月くんの料理がうますぎるんだって」

 俺がそう言うと深月くんは満足げに笑ってカウンターの中の仕事をこなし始めた。

 深月くんがこっちを構おうと構わなかろうと、食事を摂りに来ている俺にとってはさしたることでもないので、イスラエルビールのマカビーを片手に料理に舌鼓を打った。


 しばらく飲んでマカビーが三本ほど空いた辺り、一次会で使った客が一気に帰り始め、常連客ばかりのゆったりとした時間が流れ始めた。

 仕事が落ち着いた深月くんは俺の前に来ると、コロナビールの蓋を開け、ライムを一欠片瓶の中に入れると、一気に全て飲み干した。

 中東料理の店で、その酒はメキシコ産なのにという野暮な言葉は引っ込めておいた。

「っかーー! うんまい」

「深月くん、仕事中」

「もう知った顔しかおらんし。ところで今日は美里くるやつ?」

 この店で知り合った彼女はもちろん共通の知り合いだ。俺が最近この店に来るときはほとんど美里さん絡みだから、それを知っている深月くんが容易く推察する。

「まあね、仕事終わったら寄るってさ。そのまま飲んで、うちに来るみたいだけど」

 明日は休み。二人でお酒を楽しんで、夜をゆっくり楽しむことができる。

 早く美里さんの仕事終わらないかなとしきりにスマホで時間を確認しているが、忙しい彼女のことだ、もう一時間位は見たほうが良いだろう。


 俺の浮かれた様子が手にとるようにわかったのか、深月くんは優しく笑ったあと、ほんの少し複雑な表情を作った。

「……でも、旦那は?」

「さあ? 知らない」

 そう、美里さんは既婚者で、旦那がいる。無論根も葉もない噂、などではない。本人がはっきりそう宣言している。

 実際浮気するために伴侶の存在を隠すことはあっても、明らかにするメリットはない。悪い虫がつかなくなる効果くらいはあるかもしれないが、彼女はその悪い虫を喜んで受け入れた。

「俺旦那のこと一度も見たことない」

「そりゃそうやろ、浮気相手の若いツバメに、旦那を会わせるバカはおらん」

「あれ、俺って浮気相手?」

「普通そうなると思うけど?」

 確かに旦那を紹介されてもどんな顔をしたら良いかわからないが、あの美里さんならありえなくもないから冷や汗モノだ。

 最初はわからなかった。彼女は垢抜けていて、美しく、華やかだった。とても家庭に入っているような、旦那に尽くす良妻のような雰囲気は微塵も感じない。どちらかといえばキャリアウーマンのような印象を抱く女性だ。実際キャリアウーマンなのだけど。

 でも見た目ほど強情じゃなくて、たまにわざとらしく隙を見せてくる。まるでその隙間に飛び込んでほしいと言わんばかりに。

 俺はまんまとその毒牙にかかった。でも彼女に対して十代の恋愛のような不安や焦燥を抱くことはあまりない。恋というには少々、いや大分、段階を飛ばしすぎたからだ。

「――でもさ、結婚してるから本命なの? 美里さんは俺より旦那が好き?」

 そんなわけがないという自負があった。彼女の仕事以外の時間を一番独占しているのは紛れもなく俺だ。

「ん、好きかどうかは別としてもさ、法律に守られてるってある意味強いんやないかな」

「ふぅん」

 ほんの少し不機嫌になった俺を深月くんは見逃さなかった。

 深月くんはバツの悪そうな顔をして、「飲み直すか。コロナ一杯奢るよ」と取り繕ってきた。

 俺はわざと頬を膨らませてから、「マカビーが良い」とワガママを言っておいた。





 いつもの流れだ。美里さんと合流し、少し飲んでから俺の家に一緒に帰る。道中のタクシーの中で何度もキスをする。貪るように、獣のように。

 運転手がやめてほしそうにチラチラこちらに視線を寄越すのだって全く気にならないくらいお互いの香りを嗅ぎ、食べ、味わう。

 何度も同じことをしているはずなのに、少しも飽きそうにない。彼女の香りはそれほどまでに美味なのだ。

 そして家につく頃にはお互いの唇がふやけてしまうんじゃないかというほど溶け合っていて、湧き上がる高揚を抑えるすべを持たないまま縺れるようにベッドに入る。あとは流れに身を任せて、夜露に濡れるだけだ。


 一度目の情交を終え、いつものように彼女は俺の膝の上に乗った。俺は後ろから彼女を抱きしめて、彼女は俺の腕の中でいつもの葉巻を吸う。甘いショコラのフレーバーが鼻腔を満たして、彼女の香りと一緒になって、違いがわからなくなるこの瞬間は、たまらなく好きだ。

「俺は、浮気相手の若いツバメ?」

「あら、急にどうしたの」

 何を今更、わかりきっていることをと言わんばかりに、彼女は少し驚いた様子の声で笑った。

「だって美里さんってほとんど毎日うちにいるじゃん」

 そしてほとんど毎日俺に抱かれている。旦那に体を許す余裕なんて俺は美里さんに与えていないつもりだ。夫婦仲はたかが知れている。

 もちろんたまに別の家に帰るときはある。それがどこかは教えてもらえない。俺がどれだけ車で送ると言っても、絶対に自分でタクシーを呼んで、その別の家には寄せ付けてさえもらえない。けれどそれでも、圧倒的に俺と過ごす時間が多いのだ。

 美里さんは遠くを見たまま葉巻をふかした。先程までの俺を小馬鹿にしたような笑顔は消えていた。


「――ここ、誰の家だっけ?」

「美里さんが借りてくれた、俺んち?」

「誰の名義だっけ?」

「美里さん」

「家賃を払っているのは?」

「美里さん」

「じゃあ私の家じゃないの? 私がどこの家に帰るかは、私の自由よね」

 つまりここは美里さんの家で、俺の家ですらないらしい。なんだか情けなくなって、美里さんの肩口に顔を埋めた。

「くすぐったい」

「ねぇ、そんないっぱい家いらなくない?」

「ん? どういう意味?」

 本気で真意を理解できなかった美里さんは、まだ吸える長さが残った葉巻を、ベッドのサイドテーブルに鎮座するガラス製の灰皿の上に置いた。

 葉巻は紙タバコと違って燃焼剤が入っていないので、吸い続けなければ火が消えて、それ以上燃え進まない。一度消えてしまった葉巻にもう一度火をつけても問題なく吸えるらしい。だから彼女はたっぷり一時間はかけて、やすみやすみその一本を吸い切る。

 俺は葉巻に奪われ続けた唇の所有権を求めて、彼女の顎を捉え自分に向かせた。角度を何度も代えて深いキスを数分は続けたように思う。

「美里さんがここ以外のどこにも帰らなくなったら良いのにって意味」

「無理」

「知ってる。でも夢くらい見たって良いでしょ、俺の自由、ってやつ?」

 言うが早いか、もう一度さっきよりも深く激しいキスをすると、思考力が弱まったのか、美里さんはとろんと蕩けた表情を浮かべて、恍惚の中曖昧に頷いた。

「ん……そうね、それは自由ね」

「でしょ」

 俺が笑うと美里さんの表情は快楽への期待を抱いたそれに変わっていた。遠慮なく伸ばされた手に指を絡めて、もう一度彼女の香りを貪るところから始めた。


 最初はその香りが、葉巻のフレーバーや、香水の類なのだと思った。

 彼女は文明の利器をつかって、人間らしく孔雀を演じて見せているのだと。そう思っていた。

 けれど決してそうではなかった。

 風呂上がりだろうと、朝の散歩で汗ばんだ直後だろうと変わらず、彼女からは頭を麻痺させるような甘い香りがする。そして夜は最もその香りの濃度が増す時間だ。

 甘い蜜に濡れ、香りを振りまいて、美しい下唇を上の歯で噛む瞬間は、その唇に無理矢理舌をねじ込んでやりたくなる。官能的で、扇情的だ。――そしてその衝動に、俺は抗えない。


 だから、彼女に伴侶がいることを知っても、この関係をやめようとかそんな風には思えなかった。一度味わったら焦がれて、二度味わったら夢中になる。彼女の体も、その冷静なようでいて不安定な心も、危うさも、麻薬のようにすべてを支配してしまう。

 いや、俺がもう少しまともな神経を持っていたのなら、その全てに警鐘を鳴らせたのかもしれない。この関係の何もかもが危ういだろうと、自分を説得できたのかもしれない。けれどいつの間にか、いや最初からまともじゃなかった俺はこの現状に満足している。


「あれ、苦しいのよね」

「あれって?」

 流石に二度の情事のあとは美里さんも疲れ切っていて、タバコを吸ったり飲み物を飲んだりする余裕もなく枕の柔らかさに身を任せている。

 その後髪を指ですきながら、これで四十手前とは思えないなとなめらかな肌触りに感心する。

「私が歯食いしばってるときに、ディープキスするでしょ」

「だめだった? やめるね」

 あれ結構好きだったのにな、と少々残念には思うものの、あまり自分本位な行為をして、彼女の心を優しい旦那に向けたくはなかった。もちろん旦那が優しいかどうかはしらない。

 彼女は少し困った顔をしたあと「だめじゃない」と首を振って、言葉を続けた。

「苦しいって言っただけよ」

「苦しいって、嫌って意味じゃないの?」

「……案外そうでもない」


 苦しいことが嫌じゃないほど、美里さんはマゾヒストだっただろうか。女王様的なサディズムは持っていないけれど、こちらに任せっきりというタイプでもない。

「美里さんってそんなにMっ気強かったっけ。ああでも割と」

「ちがう。割とでもない。もう良い、寝る」

 美里さんは顔を真っ赤にしたと思うとこちらに背を向けて、布団を頭までかぶってしまった。

 何も見えない白いもこもこの塊になって、俺は慌ててその背中を布団の中からまさぐる。

「ごめんごめん、すねないで」

 しばらく優しく背中を触っていたものの、全く反応がなくなってしまったので俺のいたずらごころに火がついた。美里さんは極度のくすぐったがりなのだ。その分感度が良いんだろうけど。

 俺は背中から脇に手を伸ばして、絶妙な力加減でくすぐる。

「くすぐったい! どこ触ってるのっ」

「どこって……脇? 首と……腰も弱かったっけ」

「やめなさい! すねてないから!」

 美里さんは「もう」と呆れてから、こちらに向き直って、俺の胸板に顔を埋めた。もうこのまま寝てしまうんだろうな、と彼女の華奢な体を抱きしめる。


「朝、八時に起こしてね」

「え、休みじゃないの?」

「エステが十時からなの。シャワー浴びたいし、化粧もしたい」

「休みの日まで大変だね?」

「女の身だしなみってやつよ。あなたからしたらもうおばさんだろうけど、できる限り綺麗な美里さんでいてほしいでしょ」

 美里さんから自嘲気味に笑った気配がした。年の差なんて、気にしなくても良いのに。

 しかし彼女なりに気を使った結果今の美しさを保っているのなら、水を差すのは失礼というものだ。

「わかった。じゃあ明日サロンまで送ってくね、迎えも」

「嬉しい。助かるわ」

「おやすみ美里さん」


「ええおやすみ。――涙(るい)」




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構成はねっていて、続きものとして書き始めたのだけど

正直続くかわからない。でも好きなんですよこういう感じ

気が向いたら続きを書くかもしれない(最近こんなんばっか)

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