砂時計の砂が落ちきる前に
キームンティーの、蘭の花のような香りを鼻腔に感じて、ジョシュアは目を開けた。
ロココ調の優美な曲線を描くテーブルの上に、人数分並んだ紅茶は、まだほんのりあたたかい。
「こいつは驚いた……何ひとつ変わってない。まるで、長い夢でも見ていたようだ」
ヘイゼルが自分の存在を確かめるように、ベージュのスーツを撫で回した。
(夢……か)
ジョシュアは室内を見回した。ハルと共に時間旅行に出発した時と全く同じ、美しく整えられた室内だった。壊れたシャンデリアも破れたカーテンも割れたガラスも、影も形もない。
(あの廃墟のような部屋は、夢だったのかもしれない)
ジョシュアはふと、卓上に置かれた砂時計に気付いた。砂時計はサラサラと砂を落とし続け、やがて最後のひと粒が下に落ちた。
ハルは、パン!とひとつ手を鳴らすと、そのまま両手を広げて、演劇の狂言回しのように言った。
「さて、これで元通り。
ジャックは、悪魔砦の城主に海に落とされたところをハルに救われたのだと語った。未来から帰ってきたジョシュアが経験した一連の血生臭い出来事については、憶えている様子はなかった。ジョシュアもまた、それについて深く追求することはなかった。別の時空で起きたことについて、目の前のジャックが知らない(あるいは覚えていない)のなら、それに越したことはないし、何よりもジョシュア自身が早く忘れてしまいたかった。あれこそがすべて夢だったのかもしれない、とすら思った。
ヘイゼルは、ネオ・ホンコンで起こったことをしつこく質問してきた。無理もない、おそらくヘイゼルが一番未来世界の取材を楽しみにしていただろうに、実際はずっと宇宙ステーションに閉じ込められていたのだから。そんな彼を哀れに思ったか、ハルは日を改めて取材に応じることを約束した。さすがにその日は皆、疲れ果てていたからだ。
最も消沈していたのはシャーロットだった。シャーロットはレイとトラッシュと共に未来へ戻ると言い張っていたのだが、「まず一回家に帰りなさい」というジョシュアの説得に渋々と応じた形で、ジョシュアと共に19世紀のロンドンに戻ってきたのだ。
「君が突然消えたら、大騒ぎになるでしょう?お父様も
それでも迷うシャーロットを、レイが静かに諭した。
「心配してもらえる家族がいるのは幸せなことだよ、シャーロット。俺にはもう、いないから」
「そんなことわかってるわ。でもわたし、まだ離れたくない……」
「シャーロット、実は俺たち、ジル博士と一緒にネオ・ホンコンの戦争を食い止められないか、もう一度考えているんだ」
「俺らにとっては、やっぱあの街が帰る家で、スラムのみんなが家族だから……さ」
「でもとても危険だし、君は家に帰ったほうがいいと、俺も思う」
「……ずるいわ、そんなこと言われたら、ついていきたいなんて言えないじゃない……」
「泣かないで、シャーロット。いつかまた会えるよ」
顔を覆ったシャーロットを、レイが抱きしめた。
「ああ!戦争をなくせたら、胸張って会いに行くぜ!それまで俺らのこと、忘れんじゃねえぞ?」
トラッシュも威勢よく拳を突き出してみせた。シャーロットは涙を浮かべたまま「うん」とうなずいて、トラッシュの拳に自分の拳を合わせた。
館の客間を出るとき、シャーロットは一度室内を振り返った。
「お兄さま……まるで全部が幻だったみたいね」
そう言ったシャーロットの頬を、ひとすじ涙が伝った。
「……いいや、幻なんかじゃない。俺はちゃんと書きとめていましたからね」
ヘイゼルがポンと手帳の入ったポケットを叩いてみせた。
「そのうち彼らの方から会いに来てくれるさ」
実際そんなことが本当にできるのか、ジョシュアは知るすべもなかった。仮に時間旅行できたとしても、また時空が歪んで歴史が変わってしまうかもしれない。こんな言葉はいっときの気休めでしかないなと思いながら、ジョシュアは妹の頭を優しく撫でた。
そして、花鋏で切りつけたジャックの死体のことをシャーロットが覚えていない様子に、ジョシュアはひっそりと安堵した。
***
無人になった客間のドアが、音もなく開いた。
入ってきたのは、この館の主――いや、正確には「かつて主だった男」――だった。
「ひとつの旅が終われば、また新たな旅が始まるだけ。時間は永遠に、時空は果てしなく、続いてゆくのだから」
その男――桜木リンタロウは、卓上に置かれた砂時計をくるりとひっくり返した。
砂時計の中で、さらさらと砂が落ち始めた。
みるみる間に空に暗雲が立ちこめ、稲妻が光った。割れた窓から吹き込んだ風が、破れたカーテンを不気味に揺らした。
「さて、そろそろ死体を回収しに行かねば」
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