サイダーはもういらない

秋色

第1話

 ――1930年代〜1945年まで韓国全州で過ごした真亜子達家族の記録


 *この小説は1930年代から1945年まで韓国全州で過ごした家族の実話を基にしたフィクションであり、関係者に確認できない部分には想像が加わり、歴史上の事実と異なる部分がある事を予めお断りしておきます。


 ―――――――――――――――――


 その夏も真亜子の家族の住む街にサーカスはやって来た。夏の終わりにサーカスに行くのは一家の年中行事の一つだ。ただその年に限っては、庭の朝顔が青紫色のつぼみをつける頃になっても誰もサーカスの話題を口にしようとはしなかった。ましてや四人姉妹の末っ子の真亜子が口にしてはいけない気がした。



 その年の春が始まる少し前、お母さんは「旅立った」。亡くなった人の事をそう言うのだそうだ。死んだと言うとお父さんから「『「旅立った』と言いなさい」と叱られた。お母さんが旅立ったのは、腎臓の病気が原因だとお医者さんは言った。腎臓というのはお腹の一部だと教えてくれ、だからお腹が痛い時には我慢してはいけないと大人達は言っていた。



 十才の真亜子は去年の秋から冬、少しお腹が痛くても、お母さんの痛みを想像してこんな痛みを我慢しているのかなと考え、胸がキュッとなってそれからシクシクしたかと思うと喉が詰まる感じがした。



 全州では冷たい風が吹きすさぶこの秋から冬の季節、真亜子は出来るだけ静かに過ごしていた。奥の座敷に病気のお母さんが寝ていたからだ。そして今、その部屋には何も無くガランとしていて、それでも出来るだけ静かに過ごす習慣はそのままだった。 



 サーカスがあと三日で終わるという夏の終わりのある夕方、お父さんがサーカスの招待券をもらってきた。たま子姉さん、とわ子姉さん、さわ子姉さんと真亜子の分、それに隣に住む従兄弟のみのる兄さんとたあ君の分と引率するお父さん自身の分で、全部で七枚。みのる兄さん達の両親は毎年サーカスへは行かない。家具店の仕事があるからだ。真亜子達のお父さんも時計宝飾店を構えているが、サーカスの夜は毎年早く店を閉じていた。



 お父さんが招待券を持って帰った夕方、食卓は、サーカスに行く話題で持ち切りだった。

「いつ行くの? 明日の晩? 明後日あさっての晩? それとも最後の晩にする?」とさわ子姉さんが訊いた。

「最後の晩は特別な券がいるから、この招待券では入れないんだ」とお父さんが言った。

「じゃあ明日か明後日あさってね。学校のお友達のサキちゃんも誘っていい?」とさわ子姉さん。姉妹で年長のたま子姉さんはいつもの穏やかさで言った。

「招待券は七枚で家族の人数分しかないのよ」

「とわ子姉さんは勉強家だから女学校の勉強が忙しくてサーカスなんて行けっこないわ。ねえ、そうでしょ?」と勝ち気なさわ子姉さんは食い下がる。確かにとわ子姉さんは勉強大好きだけど、その場にいたらきっと怒ってまた口喧嘩になっただろう。幸い、とわ子姉さんはその日級友の北城さんの家に招かれ、まだ帰って来ていなかった。お父さんは厳しい顔を崩さずに言った。

「とわ子も行くに決まっているだろう。今年の夏も家族全員で行くんだ」



 居間の隣の部屋には初盆で使った綺麗な提灯があとは押し入れに仕舞われるだけの状態で風呂敷に包まれ、とり残されていた。

 お供えの果物はねえや(*)がその晩みんなに切り分けてくれた。


 *ねえや…第二次大戦前から戦後若い下女・女中などを親しんで言われた語。当時の韓国に住む日本人家庭では、ねえやは地方に住む出稼ぎの韓国人の少女であった事が多い。

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