生首坂 (namakubizaka)/ 『嗤う田中』シリーズ

日南田 ウヲ

第1話

 1



 その日は茹だる様な暑い日だった。

 一週間ばかり続いた曇りと雨の日がやっと開けて透き通る様な青空が大阪の空一面を覆ったが、しかしながら路面から湧き上がる様な湿り気が街の路上の至る所に立ち昇り、そのおかげで露店の鮮魚や果物はまるで首を折る様に熟れて腐ったのか、腐臭混じりの鼻を突く臭いが街路を吹く風に乗って街全体を漂い、路歩く人々はその臭いの為に鼻を手やハンカチで覆わなければならない程、酷かった。

 時は昭和の初め、戦時中の事である。

 人形町の松屋町筋から大坂城へ向かう坂道の途中に小さな細い石階段があった。

 この付近の住民は知っているのだが、この辺りだけ人形町と天満界隈と土地の大きな高低差がある。その為、もしこの石階段が無ければこの界隈を往き来する為に大きく迂回する必要があるのだが、その差を埋めるようにこの苔むした石階段があり、その為土地の往来は楽にできた。

 この階段は二人三人が通れる程度で、人の往来のみの機能を単に果たし、特に謂れも所以もない。

 勿論、この階段をいつだれが作ったのかもわからない。

 少しばかり、この階段に装いをするものがあるとすれば途中に目立たない程度の小さな祠が有った。これは明治の中頃、日露戦争の戦勝祈願の為に造られたものだと言うのがはっきりしている。当時の住民で寄付を募り建立したものだ。こればかりは所以がはっきりしている。

 その祠を覆うように大きな楠が側にあった。それがこの祠だけでなく付近一帯に大きな蔭を落とし、少なからずともこの祠がどこか古めかしく、怪しげな雰囲気を周囲に醸し出させていた。

 だが楠は何も祠の在り様を悪くさせるものではない。

 この楠、当時は今様に大きなものではなかった。それが今では大きく成長して大きな木陰を作り、今日のような茹だる様な暑い日には格好の避難場所にもなった。

 しかしながら今日だけは一様にこの辺りにも腐臭の匂いが漂い、その為か誰もこの日はこの近くに居らず、木々の上で休むカラスがガァガァと鳴いているだけだった。


 夕陽が大阪湾に沈むのが街中でも見える頃、この石階段に一人の女学生が足を踏み入れた。

 この時分には日中の暑さも少し落ち着き、代わりに肌を湿らすような湿気を含んだ冷たい風が吹いて、急な雷雨を予感させるような天気模様になっていた。

 吹く風の中に激しい雷雨と思わせる湿り気があり、誰もが軒下に干した洗濯物を一斉に取り込み始めた。

 それでも付近を漂う酢のような強い腐臭は階段を上る彼女の鼻腔を強く突き、急がねば腐臭の中で雨に濡れることになると言うのが分かった。

 だからかもしれないが階段を駆け足で昇る。

 案の定、昇り始めて直ぐ空がゴロゴロと鳴り、肌の上に水滴が落ちた。見上げれば楠の葉の隙間から鈍よりとした空が見え、次第に大粒の雨粒が見上げる瞼をポツリポツリと濡らし始めた。

 彼女は瞼を拭うと急いで駆け足で階段を昇った。頭上でカラスがガァガァと鳴いている。鳴き声がいつもより強いのは天候が変わり、やがて雨が降るのを感じているからだろうと彼女は思った。辺りには強い鼻をつく酸味を帯びた腐臭が漂っている。残飯などの塵を野犬でも食い荒らしたのだろうか、最近は人が住む様になり、それに伴い野犬も増えた。その増えて腹をすかせた野犬が偶に残飯を撒き散らす。

 そうだろうと女学生は思った。それ以外に考えることなく早く帰宅せねば、雨に濡れて踏んだり蹴ったりになるに違いない。戦争の為の生活品は少なくなっている。余計なことを増やしたくは無かった。

 その時、彼女は何かを踏んだ。踏んで大きく足を踏み外すと、苔むした石階段で強く片膝を打った。

 声にもならない激しい痛みが膝に走る。

 何か大きな石を踏んでしまったのか、踏んだものが階段の隅へと転がってゆく。

 苦悶の表情で彼女は膝を触った。触ると苔交じりの泥土と共に傷口から血が出ている。

 慌てて彼女はハンカチを取り出すと泥土を丁寧に分けて傷口に強く押し当てた。

 当てて、顔を歪める。

 骨が折れているかもしれない。

 階段の上を顧みる。まだ半分ほど階段があった。

 昇れるだろうか、そう思った。昇れなければ誰か助けを呼ばなければならない。

 思いつつ再び傷口を見た。見ればハンカチに中で血が朱に染まっている。


 ――しまった…

 

 彼女はそう思った。舌打ちを思わずした。

 しかし、である。

 そう思いながらふと気が付いた。傷口の割には出血が多い。 

 おかしいと思った。再び傷口を見る。見れば傷口は小さい。その割に血が多量に膝や脛についているのだ。


 ぽとり…

 聞こえないような音がした。


 それが消えると自分の膝の上に何かが落ちて付着した。


 ――何だ…


 また、

 ぽとり…

 聞こえないような音がした。


 ――えっ…

 

 彼女は見た。

 そしてそれを指で掬う。

 それは血だった。

 彼女は思わず、唾を飲みこんだ。飲み込みながら滴り落ちて来た雨降る空へと目を遣った。

 何やら何かが楠の枝に絡みついている。

 軍服を着た、何か…、

 彼女がそれを網膜で認識するまで時間はそれ程かからなかった。


 それは何かが無かった。


 彼女は声にもならない叫びで、苔むした階段を這いずる様に動く。

 腰が抜けていた。

 それは自分でも分かった。

 何かが既に爆発の限界を超えているが、まだ爆発をさせない。

 何か理性が抑え込んでいる。


 ――無い、

 ない、

 ナイ、

 ナイ

 有り得ない…!!


 そう、それは恐怖。

 彼女の指先に何かが当たった。手探りでそれを握りしめる。

 まるで恐怖から逃れるために。

 しかし彼女は激しく降り始めた雨の中で濡れたそれを見た時、もんどりうってそれを階段の上へと力任せに勢いよく投げた。

 投げつけられたそれはゴム毬の様に階段で大きく跳ねると音を立って雨の中を転がりながら、やがて静かに彼女と対面するように向き直って、音も無く停止した。


 ――そう、それは紛れもない若い男の生首だった。


 それを認識した瞬間、彼女を抑えていた理性は爆発し、恐怖が声となって辺りに響き渡った。

 折しもその瞬間、空から激しい雷が鳴り響いた。

 雷鳴の中で彼女は恐怖を絶叫と共に吐き出しながら生首の見開いた眼が雷鳴で輝くの見た瞬間気絶すると意識を失い、その場で階段に向かって突っ伏す様に倒れた。

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