5、マンナの壺と神護目神紋

 神殿のある森の前には、ちょうど川が横たわって流れていた。そのほとりに立ったイェースズは、隣にいた姫に笑顔を見せた。

「これで、ひと安心ですね」

「あなた様の道案内があってのことです」

「すべては神様のみ意のまにまにですよ」

 姫は視線を川面に移した。透き通った水は陽光を受けてきらきら輝いていた。それを横目に、イェースズも川を見て言った。

「この川が、イスズ川になるのですね」

 あのトト山の皇祖皇大神宮スミオヤスミラオタマシヒタマヤのある御皇城山オミジンヤマの前にも、イスズ川があった。

「イスズ川?」

「ご存じありませんか。ご神域の前には、川があるものです。川が横、御神殿が縦で、それを十字に組んで神様のみ力を頂くんです」

「あなたのお名前と同じなんですね」

 イェースズは笑った。

「確かに私はこの国では、イスズと呼ばれています。それが正しい言霊なのだそうです」

 イェースズはますます、微笑の度合いを増していった。すると老いた姫は、真顔のまま川を見つめて横顔で言った。

「実は私、もう一つ神殿を建てなければいけないのです」

 イェースズはしたり顔だった。

「つまりこの御神殿をホドの宮とすると、やはりメドの宮を建てるのですね」

「いいえ。そういうことではなくて、どうしてもお祭りしなければならない御神体があるのです」

「ああ、あれですね。ずっと若い人にかつがせていた……」

「はい」

 お遷しすべき御神体はもちろんだが、姫がほとんどそれと同様に取り扱いを厳重にして、最新の注意で同行者に持たせていた箱があった。

「そのことに関しては、私の出自について話さなければなりません」

 何かを決したような姫のその言葉の最中に、イェースズはもう目を見開いて口が開けっぱなしになるくらいに驚いた。先に、姫の想念を読んでしまったのである。そんなこととも知らずに、姫は思い切って口を開いた。

「私の本当の名はエリムといいます。出身はエルサレムです」

 最初の驚きのまま、イェースズは目を見開き続けていた。

「エルサレムの出身なんですか?」

 イェースズはそれまでのヘブライ語をやめ、懐かしいアラム語に切り換えた。

「はい、そうです」

 返ってきた姫の返事も、まぎれもなくアラム語だった。

「私は実は、ハスモン家の王女だったのです。でも、私が生まれた頃は、すでにヘロデ大王の時代になっていました」

 そのヘロデ大王の晩年に、イェースズは生まれた。だから、その前の王朝のことなど意識になかったが、ハスモン家とはすなわちヘロデ大王の前の王朝で、大祭司から身を起こした家柄であった。だから姫は自分をレビ人と言ったのだと、イェースズはやっと納得した。

「私が生まれてすぐに、私の一族はヘロデ大王の圧政に耐えかねて国を出ました。多くの従者をもつれていましたが、結局東の果てのこの国にたどり着いた時は、私一人になっていました」

「道理で、あなたは普通のエフライムではないと思っていました」

「私はエフライムではないと、最初に申し上げたのもそういうことだからです。そして今、この地にたどり着いてようやく私の居座るべき土地に来たと、そう感じています。それもこれもみんな、あなた様の道案内があったからです。イスラエルの皇女を、あなたは出迎えて下さったのです。そして、もう一つの御神体をお祭りしないといけない」

「その、御神体とは?」

「実は昔、ソロモン王の頃のエルサレム神殿から持ち出されていたものなんだそうですけど、私たちがお隣の大陸のハンという国まで来た時に、エフライムの秦始皇ジェン・チャーグ・フアンが保管していたというその御神宝に出会い、この国までお供して来たんです」

 姫は、イェースズを促して歩き出した。そして新しい木の香りのする姫の新居に招き入れられ、イェースズはそこでその御神宝を見せられた。

 箱の中にはもうひとつ箱があって、それは船の形をしていた。形をしていたというより、精密な船の模型ともいえるものだった。そしてその船の箱の中には、黄金に塗られた壷が入っていた。

「もしかして、これは……」

「はい、マンナの壷です」

 イェースズの目は、その壷に釘付けになった。マンナの壷といえばかつてモーシェの出エジプトの時、神が天から降らせて下さったマンナという食べ物を入れた壷である。それはかつてアーロンの杖、十戒石と共にエルサレムの神殿の御神体となっていたはずだ。

 だが、現実問題そのうちの一つの十戒石についてイェースズは、この国に来てからトト山の皇祖皇太神宮でミコから実物を見せられている。だからここにマンナの壷があっても不思議ではない。この国はもとつ国なのである。つまりはことごとく里帰りしていて、道理で今のエルサレムの神殿からは何の霊圧も感じなかった。

 そして今目の前にある壷は、まぎれもない本物であることはイェースズの霊眼ひがんによればすぐに分かった。ものすごい光のエネルギーを発している。

「私はこの壷と共に、クナトの国の中心地に近いミホの岬にたどり着きまして、それからなんです、矢継ぎ早に御神示を頂くようになったのは」

「そうですか」

 イェースズは真息吹まいぶきわざで手を浄めてから、マンナの壷を手に取った。そして裏面に文字が刻まれているのを見た。それはまぎれもないヘブライ文字で、「エイーエ、・アシエル・エイーエ」と書かれてあった。それこそモーシェが神に御名を尋ねた時のお答えの、「在りて有る者」という意味である。

 イェースズはそっと壷を箱の中の船に戻しながら、イェースズは目を上げた。

「では、もう一つ幕屋やしろを作りましょう」

 姫は嬉しそうな表情で、大きくうなずいた。

 そして平地が丘陵地帯に指しかかる新しい神殿よりも少し北の、一時間ほど歩いたところの平地にさらに新しい神殿がユダヤの幕屋方式で建立されたのは数十日後のことであった。

 完成の日にマンナの壷は恭しく至聖所に安置され、一同でそれを拝した。ここはこのマンナの壷を通して今はうしとら神幽かみさられている「国祖の神」、つまりイスラエルでは天地創造の神とされている「弥栄ヤハエの神」、イェースズが天の御父と慕うその御神霊をいつき祭る所となった。

 これで天地創造神を祭る神殿は、霊の元つ国に里帰りしたのである。

 イェースズはその新しい神殿を外宮げぐうとし、先に造営した天照大神を祭る神殿を内宮とした。それらがともに国外・国内の中心となったのである。

 

 それからイェースズがしたことは、二つの神殿を結ぶ道に標識を建てたことだった。二つの神殿を結ぶ道に立てた標識のすべてに、イェースズは神護目かごめ紋を彫り込んだ。それこそ、ダビデ王のしるしであった。

 その標識を、イェースズが村の広場で彫り込んでいた時である。周りに村の何人かの子供たちが群がってきた。

「おじちゃん、何してるん?」

 イェースズは微笑んで目を上げ、子どもたちを見た。

「これなあ、何?」

 一人の子どもがイェースズの彫っている神護目紋を指さすので、

「カゴメだよ」

 とイェースズが優しく答えると、子どもたちの数はどんどん増えていった。

「カゴメってなんね?」

「いいかい。いい歌を教えてあげよう」

 イェースズは笑顔で子どもに接しながら、前かがみになって口ずさんだ。

 ――か~ごめ、かごめ。か~ごのな~かのと~り~は~

「はい、みんな歌ってごらん」

 子供たちは最初は小さな声で、恐々と歌いだした。

 ――いついつでや~る~

 イェースズの歌うのをまねして繰り返す子どもたちの歌声は、それでも次第に大きくなっていった。

 ――よあけのばんに~、つ~るとか~めがす~べった~

 子供たちの歌声を聞き、イェースズは満足そうにうなずいた。

「さあ、もう一度」

 今度は通しで、ともに歌う。

「この歌をね、ここにいないお友達にも教えてあげてね。とっても大事な、神様の教えが入っている歌なんだよ」

 元気な返事が返ってきた。最前列の女の子が、イェースズの服を引っ張った。

「ねえねえ、おじちゃん。この歌、どういう意味?」

 イェースズはただ、笑っていた。別の男の子が、後ろの方からまた声をかけた。

「教えてえな。赤猿のおじちゃん!」

 皆はどっと笑った。イェースズも笑った。

「なんだい? その赤猿って」

「だってなあ、おじちゃんは赤い顔で鼻が高くて、猿みたいやんか」

 子供たちはまたどっと笑い、イェースズもまた笑い続けながら言った。

「そうか。赤猿か。いい名前をつけてくれてありがとう。この歌の意味はね、君たちにはまだちょっと難しいから、とにかく歌を覚えるんだよ。さあ、もう一度歌おうか」

 ――カゴメ、カゴメ、籠の中の鳥は、いついつ出やる……

 子供達がいなくなると、イェースズはまた黙々と神護目紋を標識に彫り続けた。これは単にダビデの星ではなくモーシェも紋章として使い、また超太古のムーの国の国章でもあったのだ。

 

 イェースズはしばらくこの地に滞在するつもりで、住居も求めた。

 空いている穴居はなく自ら新しく掘らねばと思っていた矢先に、海岸に手ごろな空き穴居が見つかった。海岸は断崖の下にあり、その崖下と海との間のわずかな石ころの浜を歩いていくと、崖に天然の洞窟があったのである。誰も住んでいないようだったし、その岩穴の真正面の目の前の海中には丘ほどの大きな岩が二つ島となって、一つは大きく、一つは小さく、まるで夫婦のように仲良く並んで海面に顔を出していた。その麓を、砕ける波が洗っている。

 そんな景色も、イェースズは気に入った。

 あまりに海に近いので潮の満ち引きが気になり、しばらくイェースズは見ていたが、満潮でも海面は岩穴の入り口には達しなかった。そして岩穴の中には驚いたことに真水が吹き出る泉があり、イェースズは天に向かって深く感謝した。

 それからというものイェースズは、夜はこの穴居に寝泊まりし、昼はヤマト姫のいる神殿でともに御神霊をいつき祭った。そして何よりも彼の日課になったのは、正面の水平線から昇る朝日を拝礼することだった。ここは誰よりも早く、朝日に対面できる場所なのだ。


 やがて雨の季節も終わり、急に湿度も上がって蒸し暑い日々が続くようになった。直射日光も強くなっている。だが、ここだけは海からの潮風で涼しく、イェースズの伸び放題のひげはそんな潮風になびいていた。

 時には、ヤマト姫のいる神殿には行かず、一日海を見て暮らしたりもし、ふと物悲しい気分になることもあった。

 今はのどかで平和な風景だが、国祖三千年の仕組みによれば、その最後の最後に火の洗礼の大峠が来ることになる。それはミロクの世を迎えるための、人々の魂の掃除なのだ。

 だから目の前の美しい海、振り向けば大地、その愛すべき風景も、それが物質である以上は消え去ることになるだろう。神が壊すのではあるが、その実は人間が招来せしめる事態なのである。一度壊して善くなる仕組み、それはすべて神大愛より発するみわざに他ならない。

 そんな内面の心の声にイェースズが自分の耳を傾けていた時、ふと背後から子どもたちの歌声が聞こえてきた。

 ――カゴメ、カゴメ、籠の中の鳥は……

 イェースズが教えたあの歌だ。もうかなり広まっているらしい。そこでイェースズは、そっとその歌声の輪の方に歩いて行った。

「あ、赤猿のおじちゃんだ」

 見ず知らずの子どもたちの間にまで、イェースズのそんな呼ばれ方は広まっているようだ。イェースズは苦笑した。

「みんな、元気かな?」

「元気、元気! ねえ、他にも歌、教えて」

 一人の子どもが、イェースズの袖を引っ張る。

「よしよし、歌よりも今日は、遊びを教えてあげよう」

 子どもたちの間から、歓声が上がった。イェースズはまず、木の小枝で地面に真っ直ぐな線を引いた。

「ほら、こうして石を投げて、あとは片足でピョンピョンと跳ぶんだよ」

 まず、イェースズがやって見せた。次の子供たちは、言われた通りにした。

「それで、こうやって数を数えるんだよ。ひい、ふう、みい、よ、い、む、な、や、こ、とってね」

 四、五人の子供たちは一斉に同じように唱え、大喜びで遊びに興じた。

「いいかい、この言葉を忘れちゃだめだよ。これはただ数を数えてるんじゃなくて、一つ一つに神様の力がこもっているんだ。大きくなっても忘れないで、そしてたくさんの人に教えてね」

 顔は温かく微笑んではいるが、その瞳の奥に切なる願いを込めてイェースズは語りかけた。その時、また背後で声がした。今度は大人の声だ。

「あの、もし」

 振り向くとそこには、何人かの村の男衆が立っていた。漁師たちのようだ。

「のうはもしや、おらが村の子どもたちの間で評判の、赤猿のおじちゃんじゃないかね」

 子供はともかく、大人からも言われるといささか照れてしまう。

「まあ、そうですが、本当はイスズって言うんです」

「ほう、ほんとにえー。のうのことはなあ、よう子どもたちからなあ、聞いてますだ。もうすっかり、みんななついてますしな」

 漁師の方も、親しみを込めた笑顔で話しかけてきた。そこでイェースズも、満面の笑みを作った。

「どうしてでしょう。ただ、歌を教えただけなのに」

「そう、その歌がなあ、にあいに不思議な内容でなあ、うちとらも、のうに一度お会いしたいと思っとったところですだ。どうです? うちとらの村へ来ませんか?」

「ええ、では、お邪魔でなかったら」

 照りつける陽射しの中、袖で汗をぬぐいながらイェースズは男たちの村の客になることになった。

 

 村はイザワの村と、村人たちは言っていた。イェースズの心に、ふと預言者イザヤのことがよぎった。だが、村人は総て黒い髪、黒い瞳の黄人であった。

 村へ入るや否や、赤い顔のイェースズがうわさの赤猿であると誰かが言い出したらしく、子どもたちの大群の歓迎を受けることになった。

 村といっても人々が集まる広場のようなものがあるのでそれと分かるが、住居はやはりすべて穴居であった。そのうちの一つ、割りと大きく入り口に装飾がある穴居に、イェースズは通された。村の面だった人々に囲まれるように、イェースズは迎えられた。皆、上機嫌だった。

「いやあ、子どもたちの間でな、評判ですじょ。ところで、どちらからおいでなしたん?」

 早速大人たちから、好奇に満ちた質問が浴びせられた。

「今は、ずっと北の日高見ヒダカミの国に住んでいますけど。こちらには私の故国からさる高貴な方が来られましたので、その道案内で大神様をお祭り申し上げる場所を探してここまで参りました」

「おお」

 何人かが、一斉に声を上げた。

「この村はな、クナトの大神様の御分霊をお祭りしてるんですが」

「クナトの大神様?」

「クナトの国の祖神様ですじょ」

「どこにですか?」

「この裏の丘の上にな、磐座いわくらがありますじょ」

「そうですか」

 イェースズは内心すぐにでも行ってみたかったが、まずは村人たちと話をしてからと思った。すると、

「ところで、のうは子どもたちから赤猿と呼ばれておりなさるようですけんど」

 と、別の人が口をはさんだ。

「はあ、そのようなんですが」

 イェースズは苦笑していたが、イェースズに尋ねた男は真顔だった。

「かつて大天津神様が天祖降臨された時、道案内をされた猿田彦という神様がおいでなったと聞きますけんど、今道案内と聞きましてな、のうの赤いお顔や高い鼻、そんで子供たちから赤猿と呼ばれておいでなることから、のうこそ猿田彦の神様の再来かとも思いましたじょ」

「そんな、とんでもない」

 イェースズの苦笑は照れ笑いに変わった。だが、村人たちは皆真顔だ。

「せやに。それ、違いない。うちとらが赤猿のおじちゃん呼ぶんもおかしいし、猿田さんと呼ぼう」

 その意見に、あれよあれよと言う間に満場一致で決定してしまった。

「ところで、猿田さん。子供達が歌ってるあの歌の、言葉の意味を教えてくれんかなあ」

「あの歌ですか」

 イェースズは「カゴメ、カゴメ」と一節を歌って聞かした。

「いやあ、不思議な調べですじょ」

「意味もよう分からん」

「のうが作りなったんかや?」

 村人たちは口々にそう言って、イェースズに質問を浴び出た。イェースズは笑顔のまま、質問に答えて言った。

「はい、私が作らせて頂きましたけど、『カゴメ』とはこの紋で」

 イェースズは穴居の土間の地面に、神護目紋を描きはじめた。

「カゴメとはこの紋で、天地創造の神様のみ働きを表しているんですよ。△《三角》と▽《逆三角》が重なって火と水がタテヨコ十字に組まれた大調和の姿です。それで、『籠の中の鳥』とはですね」

 イェースズはその神護目の中央に、ゝ《チョン》を打った。

「これですよ」

 人々は一斉に、その紙をのぞきこんだ。

「これは宇宙の真中心の神様です。そしてこの状態は、岩戸の中なんですよ。今の世は、こうして正神真神を天の岩戸に押し込めまつっている状態なんです。ですから『籠の中の鳥は、いついつ出やる』で、『正神の神様は天の岩戸から、いつお出ましになるのだろうか』ということですね」

 村人たちは初めて聞く不思議な話に、口をぽかんとあけて聞いていた。イェースズは続けた。

「その正神の神様が天の岩戸からお出ましになったら、神界・幽界・現界ともに真の『夜明け』を迎えるんです。その『夜明けの晩』、つまり天意転換期の終末の時に、鶴と亀がすべるんです」

「何です? その、鶴と亀って?」

 やっと一人の村人が、口を開いた。

「今はまだあなた方に、総ての真実を告げることは許されていません。今はまだ正神の神様を天の岩戸に押し込め奉ったままで、呪術の豆まきをして、しめ縄を張り、雑煮を食している時代ですから、何から何まで言うことはできないんです。特にあなた方がヤマトびとと呼んでいる人たちは、超太古の真実の歴史を抹消しようと躍起になっていますからね。いずれ全世界の方々に、重大因縁が説き明かされる時が来るでしょう。今私にできることは、その秘め事の謎をさらに秘めた歌を皆さんにお教えすることだけです」

 人々はいぶかしげな顔をしたまま黙って互いの顔を見合わせていたので、イェースズは笑顔で急に立ち上がった。

「先ほどお話のあった、クナトの神様の磐座いわくらに参拝させて頂きたいんですけど」

 我に返った村びとたちはそれを快諾し、イェースズを案内してくれた。ちょうど村の裏山の上あたりに、こぢんまりと磐座いわくらはあった。それは、いくつもの巨石が林立しているものではなく、ただ一つの岩が祭られているだけだった。それでも、かなりの霊圧をイェースズは感じた。それに参拝しながら、イェースズはこの神様によってこの地に導かれたのだと実感した。

「こちらの神様が、天照皇大神あまてらすスメおおかみ様と「国祖の神様」の御神殿をこの地にお迎えなさりたかったのですね。この磐座いわくらはその御神殿の奥宮となるでしょう」

 イェースズは先ほど書いた神護目紋を、いちばん近くに座っていた男に渡した。

「これからはこの神紋をこの奥宮の紋とされてて、長く斎き奉って下さい」

 人々の間に、やっと歓声が上がった。

 

 それからとういうもの、イェースズが海辺の岩穴から外へ出歩くたびに、子供たちは相変わらず「赤猿のおじちゃん」だったが、大人たちからは「猿田さん」と呼ばれるようになり、イェースズはすっかり地元に溶け込んでいった。

 そしてそのまま秋風を感じるようになったが、イェースズは毎日遊んで暮らしているわけにもいかなかった。ここでもやるべきことはある。それは二つの神殿を勧請しただけで終わる使命ではない。

 それは、この地にも霊的バリヤである「フトマニ・クシロ」の結界を張り巡らせることだった。その中に天照大神と「国祖神」の神殿が入ることになる。そのための結界で、今後二千年以上にわたって重要な霊的意味を持つことになるはずだとイェースズは確信していた。

 それは確信にとどまらず、実は御神示でもあった。今はもうかつてのように異次元に魂が引き上げられて直接心に響く声での、あるいはこの世に生活していて肉の耳に聞こえる形での御神示は降らなくなったが、すでにイェースズの心に浮かぶことがそのまま御神示になるという神との一体化の境地に達していた。

 神をかみ、人をしもにして、隔絶した存在として認識しているうちは到達し得ない境地で、神が先で人は後ではあるが人には神が内在されており、その魂は本来は総て御神霊の霊質をひきちぎって入れられた神の分魂、けみたまで、それこそが真我であるとサトり得てはじめて心に浮かぶことが御神示となる。実は昔からそういう形でも御神示は降っていたのだが、一点でも魂の曇りがあるうちはそれが御神示だと気がつかないのだ。

 その御神示に基づき、イェースズは神呪を唱え、霊線をつなぎ、また手をかざして霊的火柱を打ち立てて、フトマニ・クシロの修法を行って歩いた。

 修法は、数ヶ月を要した。

 なし終えた頃は、かなり風が肌寒く感じる頃になっていた。それでも、イェースズの心の中には、北の国に帰るということは具体化されなかった。土地の人とも、もうすっかり慣れ親しんでいる。

 北風が吹くようになって、初めてイェースズは北国を懐かしんだ。ヌプとミユは、もうすっかり似合いの夫婦めおとになっているだろう。

 やがてこの地にも冬が来る。ここはそうでもないだろうが、北のコタンは雪に閉ざされて帰れない。そこでイェースズは春になるのを待ち、いよいよヌプやウタリのもとへ帰ろうと思った。そして、それまでの冬を、イェースズはこの土地ではじめて親しくなった子どもたちのために使おうと考えた。

 すでに歌も教えた。遊びも教えた。集まってくるたびにパワーも放射し、また言霊で光を与え、魂をも浄化した。だが、具体的に形残るものといえば、子どもたちに対しては玩具がいちばんだった。

 そこでイェースズは修法に代わって早朝に竹を採集し、それを切ったり削ったりして子どもが喜びそうなおもちゃを一つ一つ作っていった。ローマやギリシャで流行っているものも取り入れた。大工の息子であったイェースズは手先も器用で、あっという間に相当数の玩具を作り上げた。

 すでに穴居の外は木枯らしが吹きすさぶようになった頃、予定していた数が完成した。あとは、どうやって配るかだ。そう思っていたある日、村人がこの地方は冬になっても雪など降らないと言っていたのに、珍しく雪が降った。

 今日だと、イェースズは直勘した。それは、内在の神からの神示でもあった。おもちゃが詰まった白い袋を背負い、赤猿よろしく赤い服をまとって、イェースズは新雪に足跡をつけて回った。

 そして、子供の住む穴居の前に、一つずつおもちゃを置いてまわった。イェースズの体は高次元のパワーに包まれまるで宙を飛ぶように足は動いた。信じられないような速さで、イェースズはおもちゃを配っていく。赤い帽子からはみ出した髪の毛と髭に雪が積もり、まるで白髪の老人のようになってしまったイェースズは、吐く息も白かったが寒くはなかった。

 瞬く間に、白い袋いっぱいのおもちゃを配り終わった。日の出にはまだ間がある。

 イェースズはそのまま、川沿いに歩きはじめた。もう、戻らない決心だった。しばらく行って、右手の水平線から朝日が昇った。イェースズはその太陽に一礼した。今ごろはもう子どもたちも起きて、穴居の前のおもちゃに気づいているだろう。そして聡い子は、それがイェースズの贈り物だとすぐに察するはずだ。そして二度と自分の姿を見つけないことを、村びとたちも気付くだろう。自分の存在が伝説になるか忘れさられるか、いずれにせよ子どもたちが成長したあとに、カケラでも思い出してくれればいいとイェースズは願っていた。

 まずは神殿でヤマト姫に別れを告げ、それから海岸沿いを北に歩くうちに、すぐに小舟は見つかった。所有者もいないようなので、イェースズはそれを拝借することにした。彼は舟の上で帆をいっぱいに張って風を受け、船は海流に乗って北東へと進んでいった。

 

 何日かたって、神々こうごうしい霊峰が、雲間に雪の冠を見せはじめた。そのいただきからは、もうもうと煙が立っている。

 イェースズはその不二の霊峰をじっと見つめ、胸が高鳴るのを感じた。

 十数年前、この山の麓で暮らしたこともあった。今、舟の上から見るこの山は、今回のこの国に戻ってから初めての再会だった。

 宇宙大根元の神様のご威光を受け、実際にこの天地と万物万生そして人類を創造された国祖の神、天の御父である「国万造主大神くによろずつくりぬしのおおかみ様」は神幽かみさられる時には、龍体をまずイェースズとヤマト姫が見たあの大きな湖に沈め、次いでうしとらの方角へと神幽られ、イェースズの住んでいた北の国のトー・ワタラーの湖に遷られ、そして最終的にイェースズが訪ねていった真主マスの湖に鎮まっておられる。

 だが、その「国祖の神様」がこの地上に肉体神としてお出ましになったのが国常立くにのとこたち天皇スメラミコト様で、その国常立神様は神幽られる時、その御神魂を不二の山の頂上に置かれたのである。それにふさわしい、威厳のある山だ。この雄大な山でさえ、国祖の神様の御神魂からしてみればご窮屈でいらっしゃるだろう。

 そのようなことを考えながらイェースズはただ申し訳なく思い、また、いつの日か「国祖の神様」が不二の峰からお立ちになれらる時に思いを馳せた。それは天意が転換し、いよいよ天の岩戸が開かれる時、世の大建て替え大建て直しのために、国祖の神様がこの不二の峰よりお立ちになるのである。そうイェースズは強く念じて、祈りを捧げた。

 

 何十日かの航海で北上するにつれ、日ざしも軟らかくなってきた。今までと違って海流に逆らって進むので、風だけが頼りだった。そして岩浜に無数の白い鳥が群れ飛ぶ光景にも出くわした。崖状態の海岸で岩浜が続いたあと、松林が砂浜に沿って延びていた。

 見覚えのある景色に、イェースズはすぐにそこがかつて上陸したタネコがある所とすぐに気付いた。

 ついに帰ってきた。ヌプ、ウタリ、父、そしてスクネやミユの笑顔までもがイェースズの頭の中でちらつき始めていた。

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