12、受難の道行き~十字架

 人の罪状など、とってつければいくらでもつくものである。

 カヤパたち祭司と律法学者はイェースズを瀆神罪として起訴し、石打ちの刑にすることしか頭になかった。しかしふとしたやり取りからとうとうイェースズは神への冒瀆の罪どころか、反ローマ分子として政治犯にされて、ローマ側に裁かれることになった。もちろん事実無根の罪状だし、しかもその罪を着せられたのは真のイェースズではない。

 ピラトゥスは「ローマ法によれば、当日中の判決は下せない」と言っていたが、それが建て前であることは、ユダヤ人たちにはすでに分かっていた。彼は少しでも反ローマ色のある存在は、たとえ鼠の子一匹たりとて容赦はしない。

 カヤパが引き下がったのは、自分たちの手で宗教犯としてでもローマの手で政治犯としてでも、とにかくイェースズが死にさえすればそれでよかったからだ。

 ピラトゥスが本音と建て前を使い分ける男だということは、この日の昼前にはっきりと示された。城外にひとつの十字架が立った。それにつけられていたのは、熱心党ゼーロタイの頭目で、奇しくもイェースズと同名のイェースズ・バル・アパ父の子と呼ばれる男だった。

 この男は祭りを機に武力蜂起を企て、それが未遂に発覚してローマ千人隊に逮捕されていた。ところがユダヤの大衆は、イェースズ・バル・アパの助命嘆願を出した。それを受けてピラトゥスの方も、エジプトのローマ総督がエジプト人の大祭にあたって犯罪者を特赦した先例を鑑み、イェースズ・バル・アパを釈放することをユダヤ人たちに約束していた。

 だが結局、イェースズ・バル・アパの十字架は立てられた。ピラトゥスの言い分はこうだった。特赦は皇帝だけの権限で、自分にはそれがない、と。

 このイェースズ・バル・アパの十字架が、イェースズの助命嘆願を信奉者たちに諦めさせた。ピラトゥスには何を言っても無駄だと、人々は悟ったのである。

 

 ヨシェがイェースズとしてアントニア城の中へと連れ去られてからは、もはやイェースズはもうその後を追うことは不可能だった。

 昼頃にイェースズは、神殿に行ってみた。小羊の悲鳴、血の臭い、人々の雑踏などが神殿の庭には充満し、身動きもとれないような状況だった。

 イェースズの目に人間の罪の代償として、身代わりとなって殺される小羊の光景がとまった。これも出エジプトの時に、イスラエルの民が犠牲として、小羊を屠った故事に由来している。

 イェースズは行くあてがなかった。どこに自分の身を置いたらよいのかもわからない。今さらベタニヤのゼベダイの家にも戻れない。空はだんだんと、雲行きが怪しくなっていた。この季節は、天候によって気温が著しく変化する。

 その時イェースズは、人々の噂話を耳にした。今日の未明にオリーブ山で逮捕された男が、反ローマ勢力の一員として今日じゅうに十字架にかけられる……。

 イェースズの胸は張り裂けた。ヨシェが……、石打ちにではなく、十字架に……。今、この場で屠られている小羊よりも、もっと大きな身代わりの血が流されようとしている。イェースズはいたたまれなくなって乱暴に人々をかきわけると、神殿を出てすぐ隣に隣接するアントニア城へと急いだ。

 

 ヨシェを城内に入れたピラトゥスは、四つの四角い塔の中央にある中庭の敷石の上で、直々にヨシェを喚問した。ギリシャ語の分からないヨシェは、当然何も答えられなかった。城内にヘブライ語かアラム語がわかる人はいなかった。だからといってギリシャ語の分かるユダヤ人も、祭りを口実に城内には足を踏み入れないはずだ。

 ついにピラトゥスは業を煮やした。本来がかんしゃく持ちなのである。

「ユダヤ人の王! おまえを十字架につけてやる! ちょうどデュスマスとゲスタスの十字架刑が午後に行われるから、それといっしょにだ!」

 ピラトゥスの剣幕に言葉の分からないヨシェも、何かを察したらしく震えていた。ピラトゥスがユダヤ人の王と言ったのは、その王を自分の手で死刑にすることで、こんな辺境に左遷されたことへの鬱憤晴らしをしたかったのだろう。そもそもがラテン語も解さずごく一部の知識人がギリシャ語を解するだけのユダヤ人をこの男はユダエヤ人と呼び、田舎の蛮族と家畜のごとく蔑んでいた。ユダヤ人を蔑めば蔑むほど、それがそのままローマ皇帝への忠誠になると信じている。その蔑むべきユダヤの王と自称するものを自らの手で十字架に掛けるという、残虐な満足感も味わいたかったに違いない。

 彼の悪戯はそれでは終わらず、ヨシェの服を兵にはがさせたあと、ピラトゥスはヨシェに王位を示す赤いマントを着せ、手には葦の棒を持たせた。そして多くの兵をそこへ集めた。

「見ろ、ユダヤ人の王だ」

 兵たちは一斉に大笑いをした。ヨシェはただ無言で身を硬直させ、なすがままに愚弄されていた。ピラトゥスの悪戯は続いた。

「王には王冠が必要だ。さあ、戴冠式だ」

 どこから持ってきたのかピラトゥスは、荊棘いばらの枝を丸く輪にしてヨシェの頭にはめた。さらに力を入れておしこむと、荊棘のとげが頭に刺さり、ヨシェは額から血を流した。苦痛にゆがむヨシェの口から、低いうなり声がもれた。

「おお、王様がはじめて何かをおっしゃったぞ」

 ピラトゥスが笑いながら叫ぶと、ひとりのローマ兵がヨシェの前にひざまずき、両腕を上げた。

「ユダヤ人の王、万歳!」

 またどっと、笑いの渦となった。

「さあ、この蛮族の王を、ローマの手で十字架にかけてやれ! 家畜同然のユダヤ人の、しかもその王を、ローマが十字架にかけるなんて愉快じゃないか。ローマにはできないことはない」

 ピラトゥスの一喝で、兵たちはヨシェの赤いマントをはぎとり、庭に連れ出した。ただ、荊棘の冠だけはそのままだった。

 庭でヨシェは鞭で打たれた。最初は苦痛の絶叫をあげていた彼だったが、しだいにそれすらできなくなり、ぐったりとその場にうずくまった。筋肉質の鞭打つ男は、笑いながら激しくヨシェの体を打った。その男とて自分の意に反してこんな辺境に行かされ、馴染みのない風習の中で不自由な生活を余儀なくされていることへの鬱憤を、これで晴らそうとしていたようだ。

 十字架にかけられる前は、誰でもこうして鞭で打たれる。そうして衰弱しきった体で、自らがはりつけになる十字架の横木を、処刑場までかついで行かされるのだ。ヨシェの体は肉がえぐられ、全身血みどろになり、あたりもまた血の海だった。それでも執拗に、鞭はヨシェの体にと何度も食い込んでいった。そしてヨシェが意識を失って倒れると、すぐに水がかけられる。


 ヨシェが横木をかついでアントニア城を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。祭りの準備であわただしい人々はただ少しだけ立ち止まって、ローマによる犠牲者を憐れんで見ていた。同情とともに、またかという顔も人々は持っていた。

 午前中にはイェースズ・バル・アパが、そしてついさっきはデュスマス、そして続いてゲスタスが十字架の横木を担いで引きずり、ローマ兵に鞭で打たれながら通っていったばかりだ。この日だけでも四人目である。

 十字架刑はオリエントに起原を発するが、この頃はもっぱらローマ人が異民族に対して、しかもローマへの反逆者という政治犯に限って執行していたいわば見せしめ刑である。本来はユダヤ人にとっては馴染みの薄い処刑法だったが、今はピラトゥスによって馴染みが深くなっていた。

 実際ピラトゥスが知事としてローマから赴任してきて以来、十字架刑は日常茶飯時となっていた。被支配民族に対する支配権力の象徴のように、すでに何十本何百本の十字架がエルサレムには立てられた。

 ある日など、エルサレムに続く街道に何十本もの十字架が、同時に列をなして立てられたこともあった。当然十字架刑を執行する権限は、ローマ知事だけのものであった。

 ところがこの日の四人目の十字架は、それまでの三人とは少しばかり違っていた。

 罪状札がである。

 横木を担う罪人の前を、罪状が書かれた札が先行するが、たいていそこに書かれているのは「ゼーロタイ」という文字だった。

 ところがこの日の四人目の札にはギリシャ語とラテン語、そしてヘブライ語で「ユダヤ人の王」と書かれていた。さすがにこれに関しては大祭司カヤパが最高法院サンヘドリンを代表して、『ユダヤ人の王と自称していた』と直してくれと苦情を言った。するとまたもやピラトゥスの癇癪玉が破裂した。

「わしが書いたものは、絶対だ!」

 ユダヤ人なら誰でも、気分のいいものではなかった。そのあとすぐに、ピラトゥスは大笑いをしていた。

 

 イェースズがアントニア城に駆けつけた時は、すでにヨシェは城を出たあとだった。

 異例な先行札が話題を呼んでか、沿道には人垣が続いていた。イェースズの信奉者たちがどんなに大勢の群衆であったとしても、祭りのために数十倍に膨れあがっているエルサレムの人口に比すれば、その数は〇・〇〇一パーセントにも満たない。

 イェースズは人垣をかきわけ、やっと受難の道行きをしている弟に追いついた。ヨシェは鞭で打たれて、体はぼろぼろになっていた。それでも抗うことなく十字架の木を背負って、両脇を壁で挟まれた狭い石畳の道を西に向かい、黙々とゆっくり歩んでいた。

 ただでさえ狭いのに人々で埋まって身動きもできないような細い道を、ヨシェはふらつきながらも一歩ずつ進んでいた。ローマ兵が鞭を振るって道を埋め尽くす群衆をどかせているが、それでも道行は遅々として進まなかった。

 この道の終点では、自分が背負っている木にはりつけになり、確実に死が待っているのに、それでも死に向かって彼は前進していた。

 やがて南へ左折すると、少しは道は広くなったがそれでも人々で埋め尽くされていた。

 イェースズはとても直視できなかった。顔は荊棘いばらのとげによって流出する血で真っ赤であり、皮膚も鞭で打たれて裂け、筋肉が露出していた。全身が赤い塊で、こうなると痛みの感覚もなくなるらしい。

 苛酷すぎる。

 石打ちの刑だったら、ヨシェが言ったとおり少し痛いのを我慢すればすむことだった。しかし十字架刑はわけが違う。ローマへの反逆などつまらぬことを考えるなという見せしめの刑だったとしても、あまりにも残酷すぎる。

 しかも、食い込む横木の重さを身に受け、鞭打たれて衰弱しきった体でこの道を歩いているこの弟の姿が、本来なら自分の姿だったのだ。それなのに、このような目に遭ういわれが全くないヨシェが、自分で言った神のみ意に従順に苦難の歩を歩ませている。それを思うとイェースズは、また胸に激痛が走った。

 ついにヨシェは倒れた。ローマ兵の鞭が激しく、彼の体を打つ。血潮が飛ぶ。沿道の人々は、多くは顔をそむけた。ヨシェはしばらくしてから立ち上がり、またよろめきながらも歩みはじめた。これが神のみ意だ……お兄さんのため、そしてお兄さんによって救われる全人類のため……そんなヨシェの想念が、激しくイェースズにぶつかってきた。

「イェースズ!」

 甲高い声が、沿道の人々の間でおこった。その声はそのまま本物のイェースズではなく、ヨシェの方へと突進していった。

「イェースズ、どうしてこんなことに!」

  泣き叫ぶ婦人を、胡散臭そうにローマ兵は払った。地に倒れても母マリアは、まだヨシェを追おうとしていた。さすがの母親でも血まみれになった姿には、ヨシェなのかイェースズなのか区別がつかなくなっているようだ。それだけでなく、十字架にかけられるのはイェースズであると思い込んでいるため、それがヨシェであるという発想はつゆも湧いてこない。

 イェースズはすぐに母のところに飛んで行こうかとも思ったが、やめた。血みどろの男が自分であれ弟であれ、母にとっては息子であることには違いがない。母がイェースズだと思っていた人がイェースズでなかったとしても、母親としての悲しみと苦しみが軽減されるわけではない。

 イェースズは人々をかきわけ、ヨシェと同じ速さで歩みながら、ヨシェへ手をかざし、神の光である霊流パワーを放射した。

 しかしまた、ヨシェの歩みが止まった。肩で息をしている。ローマ兵の鞭が振り上げられた。イェースズはもういたたまれなくなって、

「待ってくれ!」

 と、ギリシャ語で叫んで飛び出した。

「わ、私が代わります!」

 イェースズも、肩で息をしていた。

「おまえは!」

「ク、クレネから来た、シモンといいます」

 適当な名前をイェースズは言った。クレネはエジプトの西にあり、ユダヤ人の多い町だ。兵はイェースズがギリシャ語をしゃべったので、安々と信じたようだ。

「よかろう」

 十字架を担う者が体力の限界に達した時は、沿道にいる適当な者に代わって担わせるのもよくあることだった。見せしめ刑である以上、途中で死なれても困るからだ。

 イェースズは十字架の横木をかついだ。思ったよりも重い。ずっしりと肩にくいこむ。底知れぬ苦痛だ。イェースズの顔はゆがんだ。最初の一歩を踏み出すまでに、かなりの力を要した。

 額に汗が、滝のように吹き出した。本来はこれが、自分の担うはずであった激痛なのだ。それをヨシェが担っているのは、どういう神のご意志なのだろうか。いくら考えてもわからなかった。

 ヨシェとは違い、彼は鞭打たれていない。しかも世界中をめぐって修行し、心身共に鍛え上げていたイェースズだ。その彼にさえ、この横木運びはこんなにも応える。それでも、後ろからとぼとぼついてくるヨシェを思って力を込めたが、同時に涙も流れてしまった。

 本来は自分が受けねばならないアガナヒをヨシェが肩代わりしてくれているのだろうか、それともヨシェ自身の過去世の罪穢のアガナヒなのか、それは分からない。しかし、自分が全人類を救うという使命ゆえにヨシェがそのアガナヒを肩代わりしてくれているのなら、この苦しみは全人類の罪のアガナヒかもしれない……そんなことを考えながら横木を運んでいたイェースズだったが、かなり長く歩くうちに次第に頭が朦朧としてきた。

 ただ、その時彼の意識の中に、このまま自分が刑場まで行って十字架にかかってしまおうという想念がわいた。それが本来なのだ。ヨシェはぼろぼろの体になったが、故郷のガリラヤに帰って静養すれば回復する。そうしよう。この場で、自分が本物のイェースズなのだと宣言しよう……そう思った矢先、

「もうよい!」

 と、ローマ兵の声が飛んだ。イェースズの肩から無理やりに横木はとられ、再びヨシェの背へと戻された。もう処刑場が近いのだろう。目の前には北の城壁が横たわっている。ヨシェはイェースズに気がついていたようだったが、その顔に反応を見せることのできる状況ではなかった。

 再びヨシェの歩みが始まった。女がひとり飛び出した。信奉者の女だろう。「先生ラビ、どうぞ、顔をお拭き下さい」

 そう言って布を差し出す女に、驚いたことにヨシェはニッコリ微笑んだ。まだそんな力が残っていたのだ。ヨシェは左の手で布を受け取り、顔をぬぐった。その顔の形が血によって、はっきりと布に映しだされた。

「ありがとう」

 さらにヨシェは、言葉までかけた。だがすぐにローマ兵がその女を追い払って、沿道の人々の間に戻した。

 すぐに南下していた道はまた西へと右折した。

 また細い道となり、しかも緩やかではあるが、石段による上り坂となったのだ。ヨシェの歩みは、極度に遅くなった。

 一歩一歩、ゆっくりと死に向かって進む。その流す血の跡は、通ってきた道の石畳の上に、点々とずっと続いていた。

 ついにまた彼は、倒れた。イェースズが再び飛び出す。しかし今度はローマ兵は、彼に助力を許さなかった。

 ヨシェは立ち上がった。その姿は、まるで神の国への道行きを象徴しているかのようであった。神の国に至る道は、まさしくこのように受難の道だ。それはかつてイェースズが言葉で人々に説いてきたことだが、目の前のヨシェは今、それを無言のまま行動で表している。倒れても立ちがる彼の姿には、不屈の精神さえ感じられた。

 沿道の人々の間には同情、好奇心、無関心、そんな想念が渦巻いていた。その人々の中をヨシェとともに移動しているのはイェースズだけだったが、次第に後ろの方で同じようにヨシェの歩みを追っている一団があるのに気がついた。母マリアやイェースズの妻マリア、エッセネの尼僧サロメ、使徒エレアザルとその姉妹のマルタとマリアなどだ。

 ここでまた、驚くべきことが起こった。ヨシェは立ち止ま振り返って、母マリアの一団に向かってゆっくりと口を開いた。

「私のために……泣かないで……くれ。自分の魂と……人類のために……。私が受けている苦しみよりも……遥かに、遥かに大きい苦しみの……火の洗礼の大峠に向かって、人類は……一歩一歩……と歩を進めている……。そんな人類の裁きの大峠のために……泣いて……くれ」

 イェースズは耳を疑った。それはもはや、ヨシェの言葉ではなかった。神の力がヨシェの口を動かして、そう言わせたとしか考えられない。

 それは母や妻たちにとってヨシェの言葉ではなく、まぎれもないイェースズの言葉以外の何ものでもなく、聞いた人々は皆その場に泣き伏していた。彼女らにとってこれが、イェースズの遺言となるのだ。

 ヨシェは城門をくぐり、都の外に出た。このあたりは、ちょっとした丘になっている。その側面に洞窟が二つあり、それが目となる人間の頭蓋骨に似ているので、人々はその意味であるアラム語でこの丘をグルガルターの丘と呼んでいた。ここが罪人の処刑場であることも、その呼称と関係がありそうだ。

 アントニア城からここまで、実は普通に歩けば十数分の距離である。それがすでに二時間近くもかかっていた。

 その丘の登り口で、ヨシェはまた倒れた。ここまでついてきたのは、信奉者たちだけだった。もちろん母マリア、妻マリアも使徒エレアザルも、その中にいた。

 ヨシェはすぐに立ち上がった。苦しみの道行きも、すでに終わりに近づいていた。

 

 丘の上にはすでに、二本の十字架が立てられていた。つまり、ヨシェよりも前にこの道行きを歩んだデュスマスとゲスタスの十字架だ。その中間に、荒木が一本立っている。それがヨシェがかかる十字架の縦木であった。空はどんよりと曇り、今にも泣きだしそうだった。

 低い丘をゆっくり、ゆっくりと登り、縦木の下までたどりついたヨシェは、横木を放り出して倒れた。その衣服は、たちまちローマ兵によってはぎとられた。衣は血で肌に付着していたので、皮膚をはがされるのと同様の苦痛が伴い、ヨシェはうなり声を発した。そしてわずかな腰布だけを残して、ヨシェは裸にされた。

「これはどうする?」

 兵の一人がヨシェの頭の荊棘いばらの冠を取り上げた。

「これは使いものにならん。かぶせとけ」

 再び荊棘の冠が頭にはめられ、とげが刺さって再度ヨシェの顔が苦痛にゆがんだ。すでに赤黒く渇いていた血の筋の上に、新たな鮮血の筋が走った。

 ヨシェは横木の上に押し倒され、手首に釘が打たれた。その度にヨシェの悲鳴があがった。本物のイェースズはさすがに丘には登れず、その麓でうずくまっていた。だが、母マリアや妻、そしてエレアザルは上まで行ったようだ。

 横木がロープを使って上げられ、十字架のかたちになった。縦木と横木が打ちつけられる。横木は角材だが、縦木は太い丸太だ。その縦木の上にはすでに、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の三ヶ国語で「ユダヤ人の王」と書かれた札が打ちつけられていた。

 空の雲はどんどん厚くなり、まるで夜のような暗さにまでなっていった。

 縦木の突き出た部分に尻を乗せさせられると、今度は足首に釘が打たれた。またもや悲鳴が、イェースズのいる丘の下まで響いてきた。ひと打ちごとに、金属音とヨシェの最後の力を振り絞っての絶叫、そして母マリアが泣き伏す声が号泣となって曇天に響いた。

 イェースズは耳をふさいだ。神殿の庭では今頃も、犠牲の小羊の血が流されているであろう。その同じ日に一人の罪なき男が、身代わりの小羊となって血を流している。これほどまでに大きな愛と犠牲を、イェースズは今まで見たこともなかった。

 ヨシェの十字架の左右に立っている十字架の上には、どちらも「ゼーロタイ」と書かれた札が掛かっていた。その真ん中の十字架上で、ヨシェは祈りを捧げていた。

「神様、この兵たちをどうかお許し下さい。この方たちは神様を存じ上げない異教徒なのです」

 しかしヨシェの足元には、異教徒ではないはずの祭司や律法学者も数人来ていた。

「この方たちも、お許し下さい。この方たちは、自分が何をしているのか分からないのです」

 律法学者が、ヨシェを見あげてあざ笑った。

「おまえは他人の病は癒せても、自分は救えないのか!」

「そうだ、そうだ。おまえが神の子なら。今自分の力でこの十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる」

 律法学者たちは一斉に笑った。それは神殿で、何度かイェースズと顔に青筋立てて論争したあの学者たちだった。

「おい、救世主!」

 右側の十字架上のゲスタスまでもが弱々しくも最後の力で、ヨシェをあざ笑うように言った。

「おまえが本当に救世主なら、俺を助けてくれ。そしてローマを滅ぼしてくれ……できないのか……インチキめ!」

 ゲスタスとて、それ以上しゃべることは不可能のようだった。反対側のデュスマスもとぎれとぎれに、やっとという感じで言った。

「天国へ行ったら……俺を……思い出してくれ……」

 ヨシェはゆっくりうなずいて、それから足元の人々を見た。ヨシェの目線の先にあったのは、エレアザルだった。

「エレアザル……、母さんを……頼む」

 呼ばれたエレアザルも母マリアも、そしてエッセネの老尼僧サロメも、一斉にヨシェを見上げた。そしてヨシェの視線は、イェースズの妻のマリアに移った。

「マリア……、これからも母さんとともに暮らして…。母さん、義姉ねえさんを、本当の娘だと思っていっしょに暮らして」

「あッ!」

 マリアはしばらく、口をあけていた。イェースズだったら自分のことを、エレアザルに託すはずがない。今まで兄弟の中で一人だけガリラヤに残り、自分の面倒を見てくれていたヨシェだからこそ、あとのことをエレアザルに詫したのだ。

 しかもイェースズの妻マリアを「義姉ねえさん」と呼んだ。母マリアは真実を悟り、口を大きく開けて身動きができなくなった。十字架上にいるのはイェースズではなく、ヨシェだ! それを知った母マリアは、その場にひときわ大声で泣き伏した。

 急にヨシェは、まだこんな力があったのかと思われるほどの大きな声で、天に向かって叫んだ。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」

 その声は丘の下の、イェースズの所にも届いた。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」

 その語句で始まる詩篇テヒリーム二十二章だ。ふつう詩篇の朗読は、祭祀用語であるヘブライ語でする。だからこの部分は、「エロイ、エロイ、ラマ、アゼベタニ」と言うのが普通だ。しかしこの時ヨシェは、その語句を口語であるアラム語で言った。

「今さら神に見捨てられたことを、嘆いているぞ」

 丘の上にいた祭司たちはアラム語であるだけに、それが詩篇テヒリームの一節であることに気がつかなかったようだ。しかも「エリ」はヘブライ語「エロイ」のアラム語への直訳で、アラム語では「神」は「アドナイ」と呼ぶのが普通であり、「エリ」とはあまり言わない。厳密に言うと「アドナイ」はヘブライ語で、アラム語では「アドン」となるが、たいていここだけは皆、祭祀用語であるヘブライ語で言うのが普通だった。

 だから中には、

「エリヤを呼んでいる」

 なぜと、馬鹿なことを言っている者もいた。

 イェースズだけが、ヨシェの真意を理解していた。ヨシェはこの章句を、最後まで唱えたかったに違いない。この詩篇テヒリーム二十二章は、最後は神への賛美で終わる。その賛美まで、ヨシェは唱えたかったのだ。それなのにヨシェは、最初の一節で力尽きてしまった。

 イェースズは涙を流しながら、一人でヨシェのかわりに、詩篇テヒリーム二十二章を最後まで唱えた。だが、最後の方は涙につまって、声にならなかった。それはヨシェとイェースズが幼い頃、二人とも好きでよくともに唱和した詩篇の一節である。そしてつい昨晩も、ゲッセマニの園の月明かりの中、二人でこの章句を唱和した。

 その時、イェースズの中に電光が走った。それはいつも、自分の前世記憶が呼び戻される時の感覚だ。確かにイェースズは、「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」と口ずさんでいた。

 だが彼の意識の中でそれはアラム語でさえなく、実は遥か超太古のムーの国で使われていたマヤ語だったのである。「頭の中が白くなる、意識が遠のいていく」という意味であるが、イェースズは驚きとともに丘の上の十字架を見つめた。もしかして無意識のうちにイェースズの前世記憶がヨシェに飛び火して、ヨシェはマヤ語をしゃべったのだろうか……しかも、この意味の方が十字架上のヨシェの言葉としてはふさわしい気もした。

 そのヨシェはしばらくの沈黙の後、

「のどがかわいた」

 と、ぽつんとつぶやいた。ローマ兵は酢の入った葡萄酒を海綿にひたし、それを棒の先につけて、ヨシェの口元へもっていった。そしてその同じ棒は、両隣のデュスマスとゲスタスの口にも運ばれた。だが、実はそれは毒薬だった。

「私は成し遂げた!」

 そのひとことの絶叫とともに、ヨシェは首をうなだれた。

 雷鳴が轟き、稲妻が走った。祭司も律法学者も、慌てて丘を駆け下りて行った。激しい雨が大地をうがち、母マリアの号泣と混ざって響いた。それ以外の妻マリア、サロメ、エレアザルは、しっかりと十字架上の男の最後を見届けた。雷鳴はひっきりなしに、鳴り続けていた。本物のイェースズは三十二歳、十字架上で死んだヨセは三十一歳だった。

 時に後の世に制定された西暦では二十九年、ローマのユリウス暦では四月アプリリス十五日の金曜日ウェネリス、ユダヤ暦では一月アビブ十三日、安息日の前日なので第六の日シシーだった。

 同じ時刻、同じエルサレムにいた人々は祭りの準備の最中の突然の雷雨に慌てふためき逃げ惑っていたが、その絶対多数の大部分がこの郊外の丘の上の十字架で息を引き取った男のことなど全く知らずに、皆それぞれの生活をしていたのである。

 

 雨も小降りになり、日没が近いことを人々は知った。日没になると安息日が始まり、遺体をおろして埋葬することはできなくなる。それだけでなく安息日から引き続いて祭りの期間に入るので、遺体を八日間も野ざらしにしなければならない。それはどうもまずい。

 だから、まだ残っていた一部の律法学者たちがローマ兵と交渉して、早急に三人の遺体は下ろされることになった。遺体といっても実はデュスマスとゲスタスは、棒の先の海綿の毒薬もまだ効かず、この時点でまだ息があるようだった。それでもと、律法学者は執拗にローマ兵に食い下がった。

 もっともローマ人にとっては安息日だの祭りだのそんなことはどうでもいいことで、もともとは見せしめの刑なのだから本来は受刑者が死ぬまで何日も放置しておくものだ。だが学者たちがあまりにもしつこいので、息がある場合はとにかく人為的に殺すことになった。兵がまずデュスマスの足を、骨ごと折った。デュスマスは悲鳴を上げて絶命した。次のヨシェはもう死んでいたが、念のために兵は槍で脇腹を突いた。ヨシェは身動きもせず、血と水が少し流れただけだった。残るゲスタスも足を折られた。

 受刑者を十字架から下ろす作業が始まった。デュスマスとゲスタスも、縁者が遺体を引取りに来ていた。

 十字架からおろされたヨシェは、ぐったりとして母に抱かれた。マリアは泥の中に座りこみ、息子を抱いたまま、

「痛かったろう、痛かったろう。かわいそうに」

 と言って、ただ泣くだけであった。

 丘の下からその光景を見ていたイェースズは、もはやいたたまれなくなった。自分のせいで、母を悲しみのどん底に落としいれている。仮に十字架上で死んだのが自分であったとしても、母は同じように悲しんだであろう。しかし、年少の頃より親元を離れ、つい二、三年前に戻ってきたばかりの自分に比べ、ヨシェはずっと母のもとで成長し、母とともに暮らし、今回も母とともに都に上ってきたのだ。しかも、お尋ね者になっていた自分が死刑になったのなら母も納得がいくだろうが、ヨシェは死ななければならないいわれは全くない。

 イェースズは張り裂けそうな胸を押さえ、涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐいながら、その場を去ろうとした。今は何の言葉も、彼の脳裏には浮かばなかった。

 デュスマスとゲスタスの遺体は、縁者が早々に持ち去っていった。だがヨシェの場合はマリアがなかなか放さなかったので、エレアザルたちが無理に持ち去ることもできなかった。

「さあ、お母さん」

 エレアザルがそっと、マリアの肩に手を置いた。いいかげん、日が暮れてしまう。そうは言ったものの、エレアザルにも何をどうしたらいいか分からない。第一、墓がない。マリアの家の墓は、ガリラヤに戻らない限りないのだ。

 そうなるとベタニヤまで遺体を担いで行き、エレアザルの家の墓に入れるしか方法は思い浮かばなかった。だが、男手はエレアザルだけで、その場に残ったのは女性ばかりだ。まさか、ローマ兵にそのようなことを頼むわけにもいかない。ほかの使徒たちはペトロと、エレアザルにとって自分の兄であるヤコブ以外は自分たちの無罪放免が密告の交換条件だったなどと知らないので、自分たちの身に危害が及ぶことを恐れてどこかに隠れている。ペトロとヤコブを呼びにいっていては日没に間に合いそうもない。

 しかし、この雨の中をエレアザルが一人で、しかも血みどろの人の遺体を背負ってベタニヤまでの街道を歩くことはどう考えても現実的ではなかった。さらには、安息日になる前に到着することなど、全く不可能だ。それでもほかにいい方法が思いつかないので、とりあえずエレアザルは優しくヨシェの遺体をマリアから放し、それを背に担いだ。

 そこへローマ兵が一人、歩み寄ってきた。

「ちょと待て。遺体引き取り許可証は?」

 片言のアラム語で、ローマ兵は言った。エレアザルはマリアと顔を見合わせた。そのようなものをとりつける暇もなく、彼らは噂を聞いて駆けつけてきたのだ。

「知事閣下の許可証がないと、遺体、引き渡せない」

 そのようなことをいわれても困る。とにかく日没までに何とかしないと、ヨシェの遺体は八日間もここに放置したまま、手出しもできないことになる。八日もたてば遺体は腐乱して、手がつけられない状態になっているはずだ。デュスマスやゲスタスは四、五日も前に判決が出ており、縁者はそういった書類も簡単に用意できただろう。先ほどローマ兵に遺体を下ろすことを交渉していた律法学者も、もうさっさといなくなっている。

「さあ、どうしたものだ」

 エレアザルは困り果てて、女たちの顔を見ていた。

 その時、丘の下から雨でずぶぬれになって、息を切らせながら駆け上がってくる二人の律法学者がいた。その黒い頭巾の下の年老いた顔を見た時、エレアザルの顔が輝いた。それは、ニコデモだった。

「いいところにいらしてくれた。実は困っているんですよ」

 エレアザルの訴えに、ニコデモはうなずいて見せた。

「大丈夫!」

 ニコデモといっしょに来たもう一人の律法学者が、懐から羊皮紙を取り出した。それは、ギリシャ語で書かれた遺体引き取り許可証だった。

「このヨセフが知事閣下に頼み込んで、今やっと書いてもらったところだよ」

 ヨセフと呼ばれた学者は、それをローマ兵に見せに行った。ピラトゥスの署名を見るや、兵たちは一斉にかかとを揃えた。

「あの方はアリマタヤの方だよ。ひそかに先生ラビに心を寄せておられた方なんだよ」

 ニコデモが、アリマタヤのヨセフの後ろ姿を見ながら、エレアザルたちに説明した。そのニコデモは没薬とアロエを持って来ていた。それをヨシェの遺体に塗って、香料を染みこませた亜麻布で手早く巻いた。その周りで母マリア、それにイェースズの妻マリア、老女サロメも、ひたすら泣き続けていた。

「このすぐそばに、ヨセフの家の墓で、一つ空いているのがあるそうだよ」

 ニコデモがそう言い、ヨセフ、エレアザル、ニコデモの三人で布が巻かれたヨシェの遺体を担ぎ、墓へと運んだ。そして墓穴の中に遺体を安置し、また三人がかりで大岩で墓の入り口を閉じた。なんとか、日没には間にあった。

「さあ、今日はとりあえずこれで。安息日が明けたら、もう一度、香料を持って出直してくるといいよ」

 悲しみで何も言えない母マリアに代わり、イェースズの妻マリアがニコデモの言葉にうなずいた。

「分かりました」

 その場でヨセフとニコデモは、母マリアたちと別れた。

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