5、王の婚礼の話~皇帝のものは皇帝に~良きサマリア人

 イェースズは逗留しているベタニヤから至近距離のエルサレムにはたびたび通っており、エルサレムに行けば必ず神殿の見える広場に行った。

 エルサレムの人々を教化する場所として、彼はそこを選んだのである。イェースズの信奉者もエルサレムに集まってきてはいるが、なにしろ彼らはイェースズがどこに逗留しているのかも、いつエルサレムの広場に現れるのかも知らない。

 それでもイェースズが広場に行けば信奉者は何人かいたし、それは日に日に増えていっていた。中にはイェースズが現れるのを待って、毎日ここに通っている人もいるようだ。

 さらにそこは神殿への巡礼の参拝者もよく通る所なので、イェースズの説法に足を止める人もいた。そういった人々からすればたまたまそこを通りがかった時にたまたまイェースズが話をしていたということになろうがそれはあくまで現界的な考えで、すべては因縁であることをイェースズは知っていた。その証拠に、最初はたまたま通りかかったという人も、そこに信奉者として定着する人も増えてきていたからである。


「みなさん」


 イェースズはこの日、そのことについて話をするつもりでいた。

 だが、話をする内容は事前に考えているのではない。実際、いつも話を始めるまで内容は何も考えてはおらず、それでもひとたび人々の前に立って口を開くと、話すべき言葉はすべて神が与えてくれる。自分はただ口を開くだけであり、言うべきことはすべて彼の口を使って神が語ってくれるということを、イェースズは実感として感じていた。


「皆さんは今、御縁があってここにいらっしゃっています。すべて神様から許されて、神様に吹き寄せられてここにいるんです。神様が集められたんですよ。ですから皆さんは何かしら神様とのご因縁があるということなんですね」


 広場の背後の道は、神殿への巡礼者がひっきりなしに通る。そんな喧騒をよそに、群衆は静まり返ってイェースズの話を聞いていた。

 本当は「過去世において神様とのご因縁がある」と説きたいところだが、一般のユダヤ人は転生再生という概念は全く持っていない。理由はただ一つ、「聖書トーラー」に書かれていないというそれだけだ。


「私は律法学者の皆さんにも、自分たちが聖職者だからって安心していてはだめだってよく言うんですけど、自分が神様との契約で選ばれたイスラエルの民だからって安心してあぐらをかいていたら危ない。そして、皆さんとて同じですよ。私のもとへ因縁で集められたからといって、これで大丈夫だ、救われたんだなんて安心していたら大間違いでしてね、皆さんが救われるかどうかは本当はこれからの皆さんにかかっているんですよ」


 イェースズが話している途中からも、群衆の輪は大きくなりつつあった。


「神様は、人類を救いたくって救いたくってしょうがないんです。ちょうど自分の王子の婚礼に、一人でも多くの人を招きたいと願う王様と同じですね。でも、王様が招こうと思っている人を召使いに呼びに行かせたら、『いやあ、そんな婚礼があるなんて嘘でしょう』とか、中には『あんたが本当に王様の召使いなのかどうか怪しいものだ。証拠を見せろ』とかね。みんな実にいろんなことを言うんですね」


 それをイェースズは身振り手ぶりをくわえて明るい笑顔で話すので、聞いている人々はところどころでドバッと笑った。その明るい雰囲気とイェースズの光を放つような笑顔に、さらにまた足を止めるものも多くなる。


「それとかですね、王様からの使者の招きに対して、『いやあ、今日中に畑に種をまいとかなければいけないんですが』とか、『今日はかき入れ時なんだよ。ああ、忙しい、忙しい、忙しい、忙しい』なんてんね」


 また人々の間で、笑いの渦がまき起こった。


「結局招かれているのに、世俗的な忙しさに追われてその招きを断っている人が多いんですね。そういう人ならまだいい。ひどい人になると、招くために来た王様の家来をうるさいといって殺してしまったりして。もし、あなたが王様だったら、そんな人はどうしますか?」


 皆、急にシーンとなった。


「そんなやつは捕らえて、牢獄に入れて処刑する」


 そうはっきり言ったものもいた。


「地上の王様ならそうするでしょうね。でも、このお話の中の王様は、それなら町に行って、もう誰でもいいから手当たり次第に婚礼に招いてきなさいと言ったのですよ。神様はね、因縁がある人は一応救いのミチへと招いて下さる。でも、それで安心しちゃいけないんです。さっき言った王様の王子の婚礼の宴会でも、招かれた人は一応そろったとしても、そこに婚礼にふさわしい礼服を着てない人まで混じっていたらどうでしょう。しかも礼服がない人のために、王様は礼服まで用意してくれていたんです。でも、それをまたス直に着ようとしない人がいる。いいですか、そう言う人はいくら王様から招かれた客で、そこにいる正当性があったとしてもですね、そこにいるのにふさわしい服装をしていなければ王様につまみ出されてしまうんですよ。『いやあ、この服が着心地がいいんですよ』とか『いやいやいや、この服が着慣れてますからねえ』とか言ってもだめでしょ? 婚礼の宴会には、それにふさわしい服装があるでしょ? 同じように神様に招かれた人は、今までの心情、先入観、固定概念、執着などという古い外套は捨てて、真理にふさわしい礼服を身につけないといけないんです。それがいつもの服に執着を持って、を通して『これでいいんだ』なんていつまでも言っていると、神様からつまみ出されるんです」


 人々の表情が、幾分固くなってきた。


「神様に選ばれる人っていうのは、伝統とか権威ではない。職業でもない。聖職者かそうでないかでもない。人種や民族も関係なく、貴賤の別もありません。ただ、ご神意にかなった人が選ばれるってことですね。神様のお気に召す人ってことです」


 人々はうなずきながら、イェースズの次の言葉を待っていた。もちろんいつも通り、反感と敵意を持つ人もその中に含まれているのをイェースズは感じていた。


「いいですか。皆さんにはご両親がおられるでしょう? 『父母を敬え』というのは、立派な律法の掟です。でも、神様の御前では、それは人間の側に属するんですよ。つまり、神様と親兄弟、どちらを優先させるかですね。本当は、そのどちらかだけの騒ぎじゃなくって、自分の命までをも含めてすべてを投げ打って、すべてにおいて神優先です」


「では、親兄弟や自分の命はどうでもいいってことですか?」


 前の方ににいた若い男が聞いた。イエスはそのものに向かってにっこりほほ笑んだ。


「誤解しないで下さいね。私は親や自分の命までをも粗末にしろと言っているのではありませんよ。自分を中心とした生き方から、神様を中心とした生活に切り換えよということを言っているのです。何をするにつけても、一挙手一投足のこれらがすべて神様のみ意なのかどうかを考えて、夜寝る前は今日一日神様の御用に立たせて頂けただろうか、神様に御無礼がなかったか考えるんです。自分を捨てるというのは、そういう意味ですよ。あなたは親兄弟や命のほかには何が大事ですか?」


 イェースズはさらに近くにいた少し年配の男に聞いた。


「財産ですかね」


「そうですか。でも、財産も捨てるんです」


「え?」


「でも、財産を捨てるって言ったって、自分の家の倉庫の金銀財宝を川に捨てろということじゃありませんよ。執着を断つということです。自分さえよければいいという自己中心の考えを捨てて、世のため人のため、人を生かすため、人が救われるため、そして神様のためにこのお金を使わせて頂こうと考えることが大切なんですね。これが自分を捨てることです。自分を捨てるとは、利他愛に徹することです。こういった心構えが、皆さんにありますか?」


 人々は静まり返っていた。


「塔を建てる時には予算を計算したり、戦争の時も敵と味方の兵力について考えるでしょ。いいですか、みなさん。真にまことに私は言いますけど、それと同じようにじっくりと自分の想念を点検して下さい。古い自分を捨てるということは無になることです。でも無になるとといっても空っぽになることではないんです。とにかく神様に近づきたい、神様の御用をさせて頂きたいという一念に徹すれば、己は無になるんです。己が無になったら自分がなくなってしまうのかというとそうではなくて、より高い次元に神様は引き上げてくださいます」


 イエスはもう一度、静まり返っている人々を見渡した。


「招かれるものは多くても、選ばれる者は少ないのです。神様もうお恵みを与えたくって与えたくってしょうがないのに、人間の心の中はや執着がいっぱいにあふれていて、もう神様のお恵みを入れる容量がないんですね。だからせっかく与えてくださっても、それを受け取ることができないんです」


 そこまでしゃべってから、イェースズは遠くの方にはまたもや律法学者が何人かいて、こっちを見ながら互いに何かをささやき合っているのを見た。それは気にせず、イェースズは話を続けた。


「皆さんはせっかく御神縁があって私のもとへ招かれたのですから、その中から本当に選ばれる人になっていかなければなりません。私が選ぶんじゃありませんよ。神様が、選ぶんです。そして選ばれるのは、これからなんですよ。これからの皆さんお一人お一人の精進にかかっているんです。皆さんはもう救われた人なのではなくて、救われる人の候補者になったにすぎません。ですから安心していないで、今日を機に一段と新たな精進のミチに向かって出発して下さい。いいですか、私を頼ってもだめですよ。私は神様の教え、置き手ののり、宇宙の法則を皆さんにお伝えさせて頂いているだけです。あとは皆さんが、ご自分でサトって下さい。そのご自分の自覚こそが人々を救い、この世に神の国、地上天国を招来することになるんです」


 そこで群衆の中から、何人かが立ち去った。それはもともとのイェースズの信奉者ではなく、たまたま立ち寄った組の人々だった。エルサレムという大都会の機能の前には、イェースズの存在はまだまだちっぽけなものだった。

 祭司や律法学者の敵意、エルサレムの大部分の住民の無関心、そんな中でイェースズは力の限り、神に命ぜらるるまにまに人々に教えを説き、また火の洗礼バプテスマを人々に与えて、人々の霊性を浄めていった。

 しかしイェースズのそんな行為も、巨大な都のごく片隅で行われているものに過ぎず、エルサレムの前にはイェースズの存在はあまりにもちっぽけなものだった。多くの市民にとってイェースズは、その存在すら知られていない。

 そんな中でも、律法学者だけは無関心というわけにはいかないようだ。彼らの間ではイェースズという存在は話題の中心となっていたし、燃えるような憎悪の対象でもあった。


 すでに風の中にかすかに春の訪れを感じさせるようになっていたある日、イェースズと使徒たちはまたしても神殿の庭で律法学者たちに取り囲まれた。今度はそこに、ヘロデ党のものも混じっていた。

 ヘロデ党とはヘロデ王家の与党であるが熱心党ゼーロタイのようにローマの支配を覆そうとはしてはおらず、あくまで体制に順応しながらもユダヤがローマの属州となっていることには不快さを感じている連中だった。

 かつてのヘロデ大王の時のような、あるいはこの時点でのガリラヤのような委託統治領に、再びユダヤ州を戻そうというのが彼らの綱領だ。つまり現実主義的な消極的親ローマ派であり、本来はユダヤ教の神支配を絶対と考える原理主義的なパリサイ人の律法学者とは相容れない存在だったが、ここ最近では歩み寄りを見せていた。

 そしてイェースズを憎悪する点では、両者の利害は一致した。イェースズをイスラエルの新しい王と称する一部の信奉者の声は、ヘロデ家の王権にとって脅威となっていたのである。そんなヘロデ党のものと律法学者が肩を並べて、イェースズの前に立っていた。

 ところがヘロデ党の一人は、やけにニヤニヤしてイェースズに語りかけた。


「いやあ、お噂は聞いていました。お会いしたいと思っていました。あなたは実に偉大な師です」


 だが、その想念の中にはどす黒いものが渦巻いているのを、イェースズはすでに察知していた。


「あなたは真理を説く方。決して人の顔色を見て物事を判断するお方ではないということは、よく存じております。そこで、一つお伺いしたいのですが、教えて頂けないでしょうか」


「何でしょう」


 もったいぶった問いかけにも、イェースズは微笑んで受け答えをした。


「私たちはローマに税を納めますけど、これは神様のみ意でしょうか?」


 イェースズは黙って、ヘロデ党と律法学者の両方を見た。どちらの答えを出しても一方に都合がいい反面、他方には都合の悪いことになってしまう。しかもその両者が結託して目の前に並んで立っていること、それが曲者くせものなのであった。

 目に見えないどす黒いパイプラインが両者の間に結ばれているのが、イェースズの霊眼ひがんには見えた。イェースズは一度目を伏せ、そして目を上げた。


「ローマの人頭税を納める貨幣が、ここにありますか?」


 神殿税や神殿への献金がユダヤの貨幣のドラクマ貨でないといけないのに対し、人頭税はローマへの税だからローマの貨幣のデナリ貨でないといけないことになっていた。そのデナリ貨を、ヘロデ党の一人が懐から出してイェースズに見せた。イェースズは、それを見て言った。


「ここには『崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝カエサルティベリウス』と書いてありますし、この肖像はローマの皇帝カエサルですね」


 イェースズが言うまでもなく、誰でも知っていることだった。


「それならば、皇帝カエサルからお借りしているものだから、皇帝カエサルにお返しすればいい。つまり、こういったローマ貨幣は皇帝カエサルにお返しして、神様より賜ったユダヤ貨幣は神殿に納めればいいということになりますよね。便利にできているじゃないですか。何か問題がありますか?」


 イェースズは大声を上げて笑った。ヘロデ党も律法学者たちも、何も答えられずに苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。


 ベタニヤへの帰り道、神殿の下の谷から見上げるオリーブ山は、夕日を受けて赤く燃え上がっていた。


先生ラビ!」


 歩きながらイスカリオテのユダが、鼻息を荒くしてイェースズの隣に来て歩いた。


「なぜさっき、ローマに税など納める必要はないって、きっぱり言わなかったんですか」


「そうですよ。それを期待していたのに」


 シモンも会話に加わった。そんな二人を、イェースズは少しだけ笑顔を消して歩きながら見た。


「あなた方二人は、ローマへの税など払う必要がないって考えているのかい?」


「俺は先生ラビ救世主メシアだと固く信じてる。その救世主が地上の皇帝に税を納めるんですかね」


 ユダは、少し興奮気味になっていた。イェースズは視線を、前方に戻した。そしてそのまま歩きつつ言った。


「この世で肉体を持って生活する以上はこの世の掟も守らないといけないと、前にも言ったと思うのだがね。この世の掟も守らない人に、神様の掟は守れないとね」


「だって、相手はローマですよ」


「だから貨幣に皇帝カエサルの顔と名前が刻まれている以上、皇帝カエサルのものは皇帝カエサルに返せと言ったまでだよ。しかし私が言いたかったのはだね、そんなことよりも、神様からお借りしたものは神様にお返しする、そっち方だ。これは神殿税のことを言っているんじゃない。霊的な次元の話でね、この体も衣食住もすべて神様から貸し与えられているもので、自分の物なんか一つもない。それなのに人々は、借り賃は一円も払っていない。それどころか過去世で罪穢を積んでいて、それなのにお恵みを頂戴している。これはもう神様からお借金をしているものだということは、再三言ってきた通りだ。この世の務めを果すのは最低必要条件、つまりどうしても必要なことだ。でもそれだけでは十分ではなくて、さらに霊的なお借金を返済して霊的務めを果してこそ真人まびとといえるんだよ」


「しかし俺は先生ラビに、ローマの税制をことごとく破壊してほしいんです」


 イェースズはまた、ユダを見た。


「そんなことをして、何になる?」


「人々が救われるでしょ」


「確かに税がなくなることによって救われる人もいるだろう。でも、私がしようとしていることは、そんな次元が低い救いではないんだ。税がなくなって救われるなんていうのは物質的な救いであって、私はもっと高次元の魂のレベルでものを言っているんだよ。ローマへの税と神様へのお借金は、次元がぜんぜん違うのだから同一に論じてはいけないよ」


「でも、今のまのままじゃ、先生ラビは学者たちをますます怒らせて、しまいには殺されてしまうんじゃないですか」


「黙りなさい!」


 柔和なイェースズにしては珍しく、いつにない厳しい口調が返ってきた。ほかの使徒たちも、驚いて歩みを止めたほどだった。


「あなたとシモンは、まだ勘違いがなくならないのかね。闘うのが神様のみ意とまだ思っているのか。闘うなどという対立の想念を、ローマに対しても律法学者に対しても持ってはいけないんだよ」


「でもこのまま逃げまわっていては、先生ラビの救世主としての仕事は何もできないじゃないですか」


「黙りなさい! あなたはまだ分かっていない」


 珍しいイェースズの剣幕だった。仕方なくユダもシモンも、不服そうな顔で黙ってついていった。


 数日後、エルサレムで説法をするイェースズに近づいてきたのは、サドカイ派の祭司たちだった。神殿に入る二重門のすぐ外の所で、どうも彼らはイェースズを探して待ち構えていたらしい。


「おお、噂で持ちきりのイェースズ師が来られた。一つ質問していいですかな?」


「なんなりと」


 イェースズは足を止めた。


「私たちサドカイびとにとって、霊とか魂の復活などというのはどうしても信じることができませんでしてね。ましてや人が何度も生まれ変わっているなんて考え方は、到底受け入れられない。しかしあなたは、それを説いておられるという。そこで一つ教えて頂きたいんだが、兄弟がいっしょに生活している場合、兄だけが結婚していてその兄が死んだ場合、兄に男の子がいなければ弟がその未亡人と結婚し、生まれた子が男の子なら死んだ兄の子とせよと律法にはありますけど、その女は復活の時は兄と弟のどちらの妻として復活するんですかね」


「どちらでもありませんよ」


 イェースズは穏やかに笑みながらも即答した。


「あなた方は復活について、どうも勘違いしておられますね。私がいう復活って、そんなことではないんですよ。人の肉体は死ねば土になって、二度と蘇ってくることではありません。復活するのは魂で、その時は全く別の肉体に宿って、ぜんぜん違った顔と名前になるんです。だから、この女が復活してきたら、誰の妻でもない状態で生まれてきます。復活とは再び赤児あかごになってこの世に生まれ出ることで、墓から死んだ時の状態で出てくることを言っているんじゃないんですよ。神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われるではありませんか。生きている魂にとっての神様なんですよ。人は肉体が死んでも、魂は死にません。魂は永遠に生きるのです。だから神様が蘇らせるのは、その魂の方です。肉体じゃないんです。神様は、死者の骨にとっての神様じゃありませんからね」


「魂は死なない……どうも理解できないのだが」


「死というのは魂の乗り船である肉体の終わりなんです。船が壊れても、そこに乗っている人はその船から降りればいいだけの話でしょ。乗っている人にとっての終わりじゃないんですよ。同じように死は肉体の終わりであっても、魂の終わりではないのですよ。人生の終着点が墓場だなんて、そんなのつまらない人生じゃありませんか。墓に入るために生きているなんて、虚しい人生ですよ。何の喜びがありますか? 何の生きがいがありますか? でも、魂の次元で考えたら、そこには使命があることに気づくはずだ。目的と使命があって、人はこの世で生活するんです。種は土にまかれますけど、種の終点は土じゃないでしょう。植物が実を結んで種を散らして、その種は土に落ちますけど、その土こそが出発点じゃないですか。その土から、新しい芽が出てくるんでしょう? 違いますか?」


「しかし、魂の再生とか霊の世界とか、そんなのは異教徒の考え方じゃないですかね。我われイスラエルの民の教えからすれば、明らかに異端だと思うのですが」


 祭司は表面こそ温和だが、その内面には鋭い対立想念があって、それがちくちくとイェースズの魂を刺激していた。


「どうして異教徒だとか、イスラエルの教えとかにこだわるんですか。真実は真実なんです。霊界の実相は、そんな宗教なんてものは超越しているんですよ。我われイスラエルの民は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に創られて、異教徒はその奉ずる別の神に創られたなんて、そんなばかな話はありますか? そうではなくて、全世界の全人類は、同じ神様に創られたのでしょう? そうでなかったらなぜ神様は、唯一の神なんでしょうかねってことになりますよね」


 周りに人垣ができ始めた。その手前、祭司たちはこれ以上追求して人々の前で恥をさらしてしまうことに耐えられずに、逃げるようにこそこそと帰っていった。

 

 サドカイ人の祭司をイェースズが論破したといううわさは目撃者によってたちまち言いふらされ、それが律法学者の耳にも入った。そのためか、ある日イェースズが使徒たちと神殿の近くに来ると、律法学者が十数人の固まりになってイェースズを待ち受けていた。その数は、イェースズのそばにいる使徒たちよりも多かった。

 今日の学者たちは、外面は恭しく柔和さを取り繕っている。


主の平和シャローム(こんにちは)」


 と白々しく学者はイェースズにあいさつをするので、イェースズもそれに返した。


主の平和シャローム(こんにちは)」


「前に祭司様方とお話をしてされていましたね」


 イェースズに語りかけてきたのは、若い学者だった。腰は低いが、いつものようにどす黒い想念はイェースズにはお見通しだ。決して律法学者が腹黒い人の代名詞ではない。彼らなりに自らの権威を守ろうと必死なのだ。

 目の前の若い学者も、彼らから見れば祭司でも律法学者でもない素人のイェースズをなんとか試そうとしている想念が見え見えだ。


「どうか、教えて下さい。律法の中でいちばん大切な戒めは何ですか?」


 イェースズに教えを乞うている形でも、実は違う。これまで律法学者の中で、純粋にイェースズに教えを乞うてきたのは唯一ペトロの親類のニコデモだけで、それ以外には一人もいなかった。

 イェースズはそれでもさわやかに微笑んだ。


「あなた方の方が専門家ではないですか。どうして私に聞くんです?」


 そう言いながらも、イェースズは声高らかに、


聞けシェマー、イスラエル!」


 と、言った。イスラエルの民なら誰でも毎朝唱える聖書トーラーの、申命記ドゥバリームの一節だ。


「我らの神はただひとかた。だから心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」


 それは、イスラエルの民としては、ごく常識的な回答だった。誰でも物心つく頃から、魂の奥底に叩きこまれる言葉だ。イェースズの答えがこのように常識的だったので、学者はいささか拍子抜けしたようだった。だが、イェースズはさらに言葉を続けた。それは「レビ記」の一節だった。


「『あなたと同じ神の子である隣人を愛しなさい』、この二つが一つになった時、それは最高の戒めとなるでしょう」


「確かにその通りだ」


 と、別の学者が言った。


「隣人への愛は、すべての犠牲に勝る」


 それを聞いて、イェースズはさらに笑顔を増した。


「問題はですね。頭で分かってはいても、それをどう生活の中で実践するかですよ。そのへんはいかがですか?」


「では聞くが、ここで愛せよと言っている『隣人』とは誰のことかね」


 学者たちは、皆ニヤッとした。その答えは言わずとも知れたことで、『レビ記』にも「あなたと同じ神の子である隣人」とある。彼らにとって隣人とはイスラエルの同胞で、正統なユダヤ教徒にほかならない。彼らの関心は、イェースズがそう答えるかどうかに向いている。

 イェースズは一度目を伏せて、黙って大きく息を吸ってから目を上げた。


「エリコへ通じる道は、すごい砂漠ですね」


 イェースズが突然話題を変えたので、学者たちは一瞬唖然とした。イェースズはさらに続けた。


「私もここに来る時に通ってきましたけど、なんでも盗賊の巣窟らしくて昼しか歩けませんでしたよ」


「それがどうした。さっきの質問の答えはどうなった!?」


 学者の一人が、しびれを切らして叫んだ。イェースズは微笑んだままだ。


「まあ、お聞きなさい。その砂漠でこの間もある旅人が強盗にこてんぱんにやられて、瀕死の状態になっていたそうですよ。そうしたらそこに祭司様が通りかかりましてね、なにしろそれは偉い祭司様で血のついた体に触れると律法にも反しますから、律法を忠実に守って道の反対側を通って行ってしまったんですよ。次に来たのは神殿に奉仕するレビ人だったんですけど。彼もまた律法に背いて血の汚れに触れたら、神殿に仕える身として神様に御無礼になるし、それでは神様に申し訳ないと思ったのでしょう、見ぬふりをして行ってしまったんですね。とにかく神殿で神様に奉仕する身で忙しかったということもあって、ここで怪我人の介抱などをする時間もなかったのかもしれませんけどね。まあ、そうして忙しいレビ人も通り過ぎて行きましてね。こういうのを、皆さんはどう思われますか?」


 一人の学者が、代表する形で口を開いた。


「それは、神様にお仕えすることが何よりも大事だ。怪我人はかわいそうだけど、神様を中心に考えなくちゃいけない。そうなると、やはりここは血の汚れには触れられないというのが正しい選択だろう。他人の血のついた手で神様に祈るわけにはいかない」


「確かにそれが律法の規定通りということになりますね。まあ、それは実際は、自分が他人ひと様の血を流しておいてそのままの心で神様に祈るなってことなんですけど、それはいいにしまして、とろこがその次に来たのはサマリア人だったんですよ」


 学者たちは、一斉に顔をしかめた。サマリア人と言えば、獣畜にも劣る存在と思っているからだ。だがイェースズの心には、やはりエルサレムに来る途中で通ったサマリアの町の、純朴で親切なサマリアの人々の記憶があった。


「そのサマリア人は怪我人を気の毒に思ってぶどう酒で手当てをして、自分のろばに乗せて宿屋までつれて行って、支払いまでしてくれたんです。それだけじゃなくて、介抱に費用がもっとかかったら帰り道にまた必ず寄って自分が払うと、宿の主人に約束までしたんです」


 イェースズはそこで、言葉を止めた。学者は、自分にとっての隣人とは誰かということを聞いていた。だがイェースズはそれには答えず、


「この怪我人を隣人として受け入れ、愛したのは誰ですか?」


 と、逆に学者たちに尋ねた。最初は誰も口を開かなかったが、やがていちばんはじめにイェースズに話しかけた若い学者が、


「最後の人です」


 とぼそりと言った。


「そうでしょう。最初の祭司や次に来たレビ人のように、伝統と権威にあぐらをかいていては、隣人を愛せないんです。お分かりになりましたら、あなた方も最後の人と同じように実践すればいいんです。でも、それが人知人力だけでできるとお思いですか?」


 学者たちは何も言わず、黙ってイェースズを見ていた。


「隣人を愛するって簡単なようで、実は難しいんですよ。やはり、神様のお力添えがなかったら、とても実践には移せないんじゃないでしょうか。そのためには、まず祈ることです。そして、自分を怪我人の立場に置いてみることですよ。その自分を隣人として愛してくれる、その愛を受け入れることです。たとえそれが獣畜のように忌み嫌っている人であったとしてもね。さげすまれているサマリア人だけが律法の細則から自由であって、それだけに神様の愛と同じくらいの隣人愛を、自分を嫌っている人の上にまで注げたんですよ。いいですか。私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛さなきゃいけないんです。そして、同じく神の子であるすべての人類も愛さなきゃいけないんです。神様は愛していますけど、でもその子どもである人類の方は一部にでも愛せない人がいますというのでは、神様を愛していることにはなりませんね。祭司が憎らしければその祭服まで憎らしくなりますけど、その反対もあるでしょう? 愛する人がいれば、その人の服の帯紐までいとしいものです。神様を愛しているなら、すべての神の子の人類が愛しいはずです。もしそうでなかったら、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛していることにはなりません。だからこの「申命記ドゥバリーム」の掟と「レビ記」の掟はセットなんですね。そして我われが神様を愛すると同時に、神様も無償の大愛で我われを愛して下さっています。あなたも、そしてあなたも」


 イェースズは、学者一人一人を指さしていった。


「あなたもあなたも、みんな神様から愛されているんですよ。神様から愛されていることを思えば、隣人を愛し尽くしてなぜ惜しいことがありましょう」


「もういいです。わ、分かりました」


 学者たちはまたまた苦虫を噛み潰したような顔で、すごすごと雑踏の中へ消えていった。

 その後ろ姿に、ペトロがぽつんと、


「本当にやつらはけしからん人たちですね」


 と、つぶやいた。


「そういうことを言うものじゃない」


 また、いつになく厳しい口調でイェースズがそのペトロの言葉を止めた。


「あの人たちは実にまじめな人たちだよ。律法を守ろうと一途に、真剣に取り組んでいる。でも、その真剣さゆえに私を憎んでしまっているんだね」


 たしかに祭司や律法学者の聖職者としての誇りの前にはイェースズの教えは素人のたわごとにすぎなかったのだろうし、正統ユダヤ教の伝統と権威の前にはイェースズの信奉者は危険な新興宗教、いわばカルト教団にしか見えなかったのだろう。


「でも、彼らとて神様が愛してやまない神の子、だからいくら向こうが我われに憎悪の念を向けても、我われは決して敵対心を持ってはいけない。我われが持つべき武器、それは『愛』だ」


 そしてまた、柔和な笑顔にイェースズは戻った。

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