5、スードラたちとともに

 さすがにあれだけの人混みだったシシュパルガルフの町も、この雨の中では人影もまばらだった。

 イェースズはもう走るのをやめ、雨に濡れながら町角をとぼとぼと歩いた。もうどれくらいそうしていたか分からなかったが、気がつくといつの間にか町はずれまで来ていた。

 その間、いろんなことが頭に浮かんだ。水滴が何本もの筋となって顔を流れるが、それが本当に水滴なのかあるいは涙なのかは彼には分からなかった。


 彼がまず考えたのは、これからどうしようかということだった。

 ここに来てからの生活のすべてを、一挙になくしてしまったわけである。かといって、今さら故郷に帰ることもできない。行くあては全くない。ラバンナの宮殿もサロモンの修行場も、自分の行くべき所だとは思えない。

 しかし、本当なら途方に暮れているはずなのに、なぜか今のイェースズの心の中にはとてつもない解放感があるのも事実だった。

 すべてのしがらみから解き放たれ、自由という名の天地の真っ只中に中に飛び出したという感じだ。もはやこれ以上あの寺院にいるわけにはいかず、あそこでバラモンとして修行していても真理には到達できないことははっきりしている以上、これでよかったのだとイェースズは何度も自分に言い聞かせていた。

 しかし、これからどうするのかという現実問題は、どうしても目の前に横たわってしまう。

 まずは、今晩寝る場所が問題になる。こんな雨の中では、野宿も容易ではない。しかも、もう少し時間がたてば確実に空腹となる。ジャガンナスを捨てたということは、食や住の心配のない生活からも離れたということを意味しているのだ。

 それでも、何とかして生きていかねばならないことは分かりきっていることだし、そうやって生きていく限りにおいては確実に未来はあるはずである。自由の大地に躍り出たのだから、今日という日が新しい自分への第一歩となるのは間違いない。遠い昔に忘れ去っていたことや失いかけていたことが、今や一気に自分のもとに返ってきたことをイェースズは感じていた。

 とにかくなんとかなると、彼は考えた。神様は必ずいいようにして下さるはずだ、一切を神様にお任せしようと、彼は神に対する絶対の信頼感からそう心に決めた。


 さらにイェースズは歩き続け、かなりの時間がたっていた。

 その時ふと、雨の中から人の泣き声が聞こえてきた。女の、しかもかなり年のいった女の声のようだ。

 イェースズはあたりをうかがった。気がつくと彼がいたのは、スードラの住むような貧民街だった。ちょうど故郷の、「地の民」の町のようなところだ。

 イェースズは泣き声を頼りに雨の中を歩き、やっとそれが一つの小屋の中から聞えてきていることを知った。まるで石と藁の山とも見えるような、みずぼらしい小屋だった。

 イェースズは中をのぞいてみた。果たして、泣いていたのは一人の老婆だった。


「どうしました?」


 イェースズは声をかけてみた。ぼろをまとった老婆が、泣きながら振り向いた。


「あ、バラモン様」


 いきなり僧衣のイェースズが入ってきたので、老婆は怖れおののいて縮こまった。バラモン階級の者がスードラの住み家に入るなど考えないことだったから、老婆はびっくりしたのであろう。

 見わたすと、小屋の薄暗くて狭い部屋の奥に一人の若者が藁をかぶって横になり、額に汗してうめき声を発していた。


「いったい、どうしたのです?」


 老婆はそれでも縮こまっていたが、やがて目を上げ、イェースズが若いシャーミーであると知ったからか遠慮がちに話し始めた。


「息子が、病気で死にかけてますだ」


「そうですか」


 イェースズは何も考えることもなく、気がついたらすでにその若者の傍らに立っていた。


「苦しいですか?」


 イェースズの問いにも若者は答えることもできぬらしく、ただ苦悶深く眉間にしわを寄せて首を激しく振っていた。老婆はイェースズの後ろでおどおどしながら座り、心配そうにのぞき込んでいる。

 イェースズは、若者の胸の上の藁をどかした。そして、そっと腕を伸ばし、若者の胸の上に掌をあてがった。


「どこが苦しいですか?」


 あえぎながら若者は、自分の左胸を指さした。イェースズの右手は、その胸に置かれた。

 イェースズは、全身の力を抜いた。宇宙のエネルギーを、自分の体に集中することを強く念じた。大地の上に陽光のごとく降り注いでいる高次元のエネルギーを、自分の体でキャッチしてレンズのようにぎゅっと凝縮する。そしてそれを、掌を通して若者に与えるのだ。決して、自分自身の体から発するエネルギーを与えるわけではない。

 今は自分の境遇の言葉が頭になく、ただただこの若者が救われてほしいということを強く念じているイェースズだった。そこには自分という存在はもはや存在せず、神とそして苦しんでいるこの若者の中に自分がいるだけだった。あとは無心、そして心の調和があるだけだ。


 そのまま三十分を過ぎたころから、若者の表情に変化が見られた。そして一時間ぐらい経っただろうか、苦悶もかなり消え失せておとなしくなった若者は、急に跳ね起きて入口の方へと走って行った。残されたイェースズも老婆も呆気にとられているうち、戸外で激しく吐く音が聞えた。

 おびただしい量の濁血を、若者は嘔吐した。それが済むとけろりとして普通に歩き、そのまま小屋に入ってきたものだから老婆は飛び上がった。


「あれよォ、おまえ。大丈夫なのか?」


「うん。治ったよ。すっかり元気だ」


 いぶかしげに若者は答えると、イェースズに視線を向けた。イェースズはにっこりと微笑んだ。


「いやあ、すごいバラモン様じゃ。こんな霊験あらたかなバラモン様って、ほかにいるだろうか」


 老婆はイェースズの前にひざまずき、何度も礼拝の形をとった。


「まあ、お婆さん。お立ち下さい」


 イェースズはかえって慌てて、老婆の肩を持ちあげた。


「僕を拝まないでください。本当にお礼を言うなら、僕にではなくて神様にですよ」


 しかし、老婆はそれでもイェースズを拝することをやめず、若者も自分よりずっと年下のイェースズにの深々と頭を下げるのだった。

 その時、困ったような表情でたたずんでいたイェースズのお腹が鳴った。今はじめて緊張感が解けて、空腹を感じたのだ。


「あ!」


 バツが悪そうにお腹を押さえるイェースズに、老婆は一杯の粥を差し出した。


「どうか、食べて下さい。こんなんじゃ、お礼にはならないだろうけど」


 イェースズは遠慮なくその粥を頂くことにした。まだ温かく、とてもおいしく感じられた。

 食べ終わるとわんを返し、丁重に礼を述べて、イェースズは小屋を出ようとした。あたりはすでに宵闇深くなってきていた。


「これから、どちらへ行かれますだ?」


 老婆はイェースズの背後から問いかけてきた。イェースズは、首だけで振り向いた。


「行くあては、ありません」


「修行場に戻られるのでは?」


「わけあって、修行場を捨ててきました。行く所も寝る所もありませんけど、まあ、なんとかなるでしょう」


 イェースズは、手短に自分のこれまでのことを、遠い異国からやってきてシャーミーとしてジャガンナスで修行していたが、そこを出るはめになったことなどを老婆に語った。

 老婆はこの辺では珍しいイェースズの青く透き通る瞳を見つめて、それを聞いていた。ひと通り語り終えると、イェースズはまた深々と頭を下げて出て行こうとした。外はまだ雨が激しく降っていた。


「もしおよろしければ、こんなところで申し訳ないですが、泊まっていってくれませんでしょうか」


「え?」


 イェースズの体は、完全に向きが変わった。


「泊めて頂けるのですか?」


「ええ、あなた様でさえよろしければ、何日でも」


「ありがとうございます」


 頭を深く垂れ、内心の喜びをス直にそして無邪気に表現して、イェースズは小屋の中へ戻った。

 しかしそのことよりもイェースズにとって無上の喜びは、人一人の命を自分が救わせて頂けたということであった。

 かつて幼いころにはこの力で自分に害するものを傷つけたこともあったが、今はこの力で人を救わせていただけたのである。そして感謝の波動を受けることの喜びが彼の中で沸々と湧き上がり、彼の胸を熱くした。


 翌朝早く、イェースズは目が覚めた。まだ老婆も若者も眠っている。目が覚めても起きもしないで、イェースズは粗末な屋根裏を眺めた。今にも崩れそうな藁の屋根裏だ。

 今朝の目覚めは、昨日までの目覚めとは違った。確実に昨日とは違う毎日が始ったのだ。それを思うとイェースズの胸は高まりはじめた。そして今、ここでこうして雨に打たれずに朝を迎えられるということに、尽きることのない感謝を思わずになれなかった。

 全く行くあてもない自分であったのに、命の糧も与えられ、屋根の下で休めたのである。ここで老婆の泣き声を耳にしたのがすべてのきっかけだった。

 一般社会ではそれを「偶然」のひと言で片付けてしまうであろう。だが、神様の世界から見ればすべてが神仕組みによる必然であり、偶然などというものは一切存在しないのだと彼はサトッた。

 いずれにせよ、これで昨日までの生活にははっきりと訣別できた。昨日のうちならまだいくらでも後戻りができたのだが、もはやこの朝は新しい生活、新しい人生の第一日目の始まりとなったのだ。

 ここはジャガンナスとは全くの別世界で、全く別の人生が今日を境に始まる。これからは全く自由な、何事にもとらわれない日々が始まろうとしている。


 老婆や若者と一緒にチーズと粥の粗末な朝食をとった後、午前中、そして昼と時間を過ごしていくうち、ここの生活の自由をイェースズは満喫していた。

 生活は決して楽だとはいえない。スードラという階級の人たちだから生活に余裕はないし、雨季が終われば終日の苦役が待っているはずだ。しかしバラモンの生活に比べて、心の次元での自由はこの階級の人々は遥かに多く所有していた。


 昼も過ぎたころ、この老婆の小屋におびただしい数のスードラたちが詰めかけてきた。自分の息子が完全に病から癒されたということを、老婆が言いふらしたらしい。その話を聞いて、人々は押しかけてきたようだ。

 老婆の狭い部屋は、たちまちスードラたちでいっぱいになった。入口の外にまで、雨に打たれながらも群衆は押し寄せてくる。

 驚いて立ち上がるイェースズに、


「ありがたいバラモン様」


 と、人々は口々に叫びながら詰めよってくる。


「ここの息子の病が癒されたって、聞いてきただ」


「俺は足が生まれつき曲って、まともに歩けねえだ」


「この喘息ぜんそくを、ありがたい力で何とかしてくれませんか」


 困ったような表情で、両手をあげてイェースズは人々を制した。


「まあ、皆さん、お静かに。そんなにいっぺんには無理ですよ」


 とりあえずいちばん前の老人の前に、イェースズはしゃがんだ。喘息で苦しんでいると言っていた人だ。その人を後ろ向きに座らせ、イェースズは右手の掌をその背中に当てた。そしてしばらく念じているうち、イェースズの掌が当たっている辺りが熱いと、老人はしきりに言いだした。

 約三十分の後、老人は激しく咳こんで大量の痰を排泄し、そのあとは咳はぴたりと止まった。


「あ、ありがてえ。長年苦しんでいた咳が出ねえ」


 立ち上がって興奮して叫ぶ老人に、ひしめき合っている人々はどよめきの声を上げた。老人は再び座って、何度もイェースズを礼拝するしぐさをした。それには答えず、もうイェースズは次の足のえた人に手を当てがっていた。


 こうして夕方近くまで五人ぐらいの人の病を癒したが、ひしめき合っている群集はそのままそこにいたにもかかわらず、もはや治病を依頼してくるものはなくなった。どうやら好奇心半分で見物に来たものが、群衆の大方を占めていたようだ。ひと通り病人がいなくなると、群衆の中のゴマ髭の痩せた男がイェースズに問いかけた。


「バラモン様はそんなにお若いのに、なんでまるでサロモンのような力を持ってるんですだ?」


 それが口火となって、群集は一斉にイェースズに質問を浴びせた。


「サロモンのような修行をなさったのですか?」


「いや」


 イェースズは意外な顔して、立ち上がった。


「サロモンにも、このような力があることを私は知りませんよ。あるんですか?」


 群衆はどよめいただけだった。


「あのう、バラモン様よお。バラモン様っていうのはみんな偉い人で、俺らスードラとは口もきけないはずじゃなかったんじゃあねえですか」


「んだあ。バラモン様がスードラの家の中にいて、俺らの病気を癒してくれたなんて聞いたことはねえ」


「こんなすげえことがあったら、俺らにバチが当たるんじゃねえかなあ」


 まだ群衆は口々に何か言おうとしていたが、イェースズの言葉がそれを遮った。


「バラモンといってもスードラといっても、みんな同じ人間でしょう?」


 一同は愕然としたような表情を見せ、ざわめきは一層大きくなった。


「皆さん、いいですか」


 イェースズも一段と声を張り上げた。後ろの方から、前のものは座れと口々に叫ぶ者がいて、イェースズに近い前列の者たちから順番にしゃがんでいった。これでイェースズは、狭い小屋にひしめきあう人々の顔を全部見わたせるようになった。


「太陽はバラモンの上にもスードラの上にも、分け隔てなく光をくれるでしょう? 私はバラモンだから太陽の光は四倍当たるなんてこと、ありますが? 私はバイシャだから半分だとか、私はスードラだから太陽の光は四分の一しか当たらないなんてこと、ありますか? ないでしょう?」


 もはや誰も話をする者はいなかった。しんと静まりかえった小屋の中に、イェースズの声と雨の音だけが響いた。


「みんな同じなんです。その証拠に、神様は皆さんにも同じように力を分け与えて下さって、この中の何人かは病気を癒して頂いたではないですか。これは神様の力なんですよ。私の力ではない。いいですか?」


 イェースズは、一同の顔を見わたした。


「さっき、私に向かって一生懸命礼拝をしていた人がいましたけれども、それは違いますよ。私が病気を治したのではなく、神様がお力を私に貸して下さって、神様の力で病気が癒されたのです」


 イェースズはしゃべりながらも、自分で驚いていた。自分が頭で考えて話しているのではなく、どんどんと頭に浮かんでは言葉が勝手に口から出ていく。偉大な叡智が霊波線を通して語るべきことをイェースズに示して下さっているようだ。


「だから皆さんが本当にお礼を言うべき相手は、私ではなく神様です」


「神様なんつったって、バラモンでもねえわしらにはわからねえだよ」


「そうだそうだ。わしらスードラは、神様なんかとは関係のねえ生活をしている。神様はバラモンだけのものだ」


 群集は再びざわめきはじめた。


「皆さん、いいですか」


 また静まるのを、イェースズは少し待った。


「俺らスードラには、神様は分からねえだ」


「まあまあ、皆さん。いいですか? バラモンといえども、クシャトリヤもバイシャも、そしてスードラも、みんな神様がお創りなった人間です。この世の人は誰一人として、神様によって創られたのではないという人はいません」


「だって僕を生んでくれたのは、お母さんだよ」


 最前列にしゃがんでいた子供が、イェースズを見上げて笑顔で言った。人々の間にわずかながら笑いが起こった。

 イェースズも、にっこり笑った。


「でもね、お母さんのお母さん、そのまたお母さんってどんどんどんどんたどっていくと、どうなるかな?」


 イェースズの問いかけに、しゃがんでいる子供は首を振った。


「分かんない」


 イェースズは微笑んだまま、再び群衆を見わたした。


「われわれ人間は、バラモンもクシャトリヤもバイシャもスードラも、みんな神様の御手により創られたのです。だから神様というのは、我われ人類共通のお父さんです」


「その神様っつうのは、あのバラモンの寺院にいるんですかあ?」


「いえ。寺院に祀ってあるの本当の神様ではなく、神様の姿をかたどったものです。本当の神様、私たち人類の共通のお父さんは天にいます」


 群集の何人かが屋根裏を見上げた。


「天にって……?」


 イェースズは笑ったまま、話を続けた。


「天にいらっしゃって、だけどいつも私たちのそばにもいらっしゃって、私たちを見守って下さっています」


「じゃあ、その天のお父さんと、お話はできるの?」


 さっきの子供だ。


「できるよ」


 イェースズは、天に向かって両手を上げた。


「神様との対話は、祈りです。さあ、皆さん、私と同じようにして下さい。そして私と同じように唱えるのです」


 はじめはためらっていたような人々も、次第に全員が両手をそろえて上げた。


「天におられるわたしたちの父よ」


 不ぞろいではあったが、人々の声が狭い小屋の中に響いた。


「天におられるわたしたちの父よ」


 イェースズの話に夢中になっていた人々は、外で雨が止んでいることにさえ気づかなかった。


 翌日は、からりと晴れていた。

 雨があがったのでさえ数ヶ月ぶりだったのに、晴れ間が広がって太陽の光が注がれるなど本当に久しぶりのことだった。雨季は終わったらしい。雨季が終われば緑の草や色とりどりの花々が全土を覆う一年のうちいちばん美しい季節で、イェースズがこの国に生きてからちょうど一年たったことになる。

 イェースズが初めてスードラの若者を癒した日以来、毎日何十人もの人々がイェースズのいる小屋を訪れ、イェースズの話を聞いていくようになった。

 もちろん病を背負ってイェースズのもとを訪ねる人もいたが、癒されると丁重すぎるくらいイェースズに礼を尽くし、話を聞いてから帰っていく。そんな人々に、イェースズは自分なりに人間の平等と、すべての人が神の子であることを説いた。

 イェースズの話はスードラだけでなく、その上の階級にも広がっているようで、ある日バイシャと思われる頭に布を巻いた男に路上にまで呼び出された。本人はスードラの家に入ってくることはないので、その辺にいたスードラの子供に呼びにこさせたのだ。

 そしてイェースズが出て行くとその男は路上に座り、イェースズに背を向けたまま自分の右肩を指さした。


「頼むよ。最近肩こりが激しいんだ。あんた、すごい力を持っているそうじゃないか。治してくれ」


 もはやイェースズは僧衣を脱ぎ捨て、スードラと変わらないいでたちで毎日を暮らしていた。だから、バイシャといえどもバラモンに対する礼ではなく、スードラに対するような尊大な態度で接してきたのだ。


「はい、肩ですね」


 いやな顔ひとつせず、イェースズはそのバイシャの肩に手を置いた。そして、十数分の後にそのバイシャは叫びをあげた。


「ありゃあ、治っちまったぞ。嘘みてえだ」


 バイシャは立ち上がり、


「ありがとうよ」


 と、言うと、二、三枚のコインを地面に放り投げて歩いていった。

 また、真夜中だというのに、クシャトリヤの召し使いとして使われているスードラが、イェースズを呼びに来たこともあった。自分の主人が長年頭痛で悩んでおり、イェースズの噂を聞いたから呼んでくるように言われたとのことだった。イェースズはその召し使いとともに、夜道をクシャトリヤの屋敷に向かった。


「そなたか、どんな病気でも治すというのは。また、子供ではないか」


「はい」


 台座の上に横になったまま、クシャトリヤはイェースズをじろじろと見ていた。


「わしの頭痛を治してみよ」


「はい」


 イェースズはやはりその男の頭に手を置き、頭痛を癒した。


「本当に治ったな。また何かあったら呼ぶぞ」


 クシャトリヤは細かい金塊が詰まった袋を、イェースズのひざもとに投げた。イェースズはそれをのぞいただけで、クシャトリヤのいる台座の上に置いた。


「これは頂けません。私はお金をもうけるためにしているのではありませんから」


「何ッ!」


 クシャトリヤは怒ったようだ。


「これははわしからの、おまえへのありがたいほどこしだ。それを断るとは無礼な!」


 今にも刀を抜いてイェースズに斬りつけてきそうな剣幕なので、イェースズは仕方なく金の袋を受け取った。

 小屋に帰ると、イェースズはそういったコインや金塊はすべて小屋のあるじである老婆や、近所の人々に分け与え、自分が取るようなことはしなかった。


 だいたいイェースズに金を与えて病をいやしてもらったようなクシャトリヤなどは、あとになると必ず「あれはちょうどクスリが効いてきたのだ」とか、「治る時期だったのだ」などと言って、イェースズを二度と相手にしようとはしなかった。

 スードラたちだけがス直にイェースズの話に耳を傾け、日々彼のもとへ話を聞きに集まってくる。

 しかし、何日かたつうち、話し終えた後にスードラたちが首をかしげながら帰ってくるのにイェースズは気がついた。自分が話す人間の平等に関し、どうもスードラたちの顔には今ひとつ腑に落ちないことがあるような表情が見えたのだ。しかも、訪れてくる人の数も、日に日に減っていく。

 この日も四、五人の人の前で、イェースズはいつもの調子で話をしていたのだが、やはり同じように人々の顔はさえなかった。


「私の話は、おもしろくありませんか?」


 思い余って、今日とばかりにイェースズは人々に問いかけてみた。沈黙が漂った。そのままイェースズも言葉を収めて息をこらし、集まった人々を見つめていた。


「あのう、先生さんよお。話が難しくって、おいらたちにはよく分かんねえだ」


 イェースズは頭を金槌で殴られたような、そんな衝撃を受けた。

 イェースズは人類の平等と神の実在について日ごろ自分が感じていることや自分が学んできたことを、どう話せばうまく伝わるか自分なりに考えて工夫してきたつもりでいた。

 もしここが故郷なら、聖書トーラーを引用して話すのが最良の方法である。しかし、この国では聖書トーラーに当たるのがこの国の聖典であるヴェーダであると考え、そこでイェースズはジャガンナスで学んできたヴェーダの知識を切り売りしてきた。

 ところがその結果が、人々のこの状況である。イェースズはしばらく黙って、途方に暮れた。どうしたら、この人たちに自分の本当の魂の叫びを伝えられるのだろうか……。そんなことは考えているうち、人々はがやがやとざわめき始めた。


 その時イェースズの胸の中に、頭の中で考えるからいけないのだというような声が響いた。そこで、彼ははっと気がついた。どうやら自分の国では地の民でもある程度聖書トーラーにかかわっているのとは違い、この国のスードラはでヴェーダなどと全く無縁の生活を送っているらしい。そんな人たちにヴェーダの話をしても、分かるはずがないのである。

 そこでひらめいたのは、例え話だった。かつて神とは何かと聞かれた時、天のお父さんだと答えたら人々は納得したことを思い出したのだ。

 イェースズは伏せていた目を上げ、人々の方を見た。


「皆さん!」


 やっと、人々は話をやめた。


「この話を聞いて下さい。昔、ある所にものすごくたくさんの土地を自分のものにしている人がいました」


 これまでのイェースズの話とは違うということを、人々は機敏に察したらしい。人々は息をのんで、イェースズの次の言葉を待った。


「その人には四人の息子がいました。その息子たちが一人前になると、父親は息子たちに自分の財産分け、それぞれ独立させようとしました。すると長男はこう言ったのです。『自分は長男なのだから、ほかの弟たちは自分の召し使いになるべきだ』って。そうしてその長男はすぐ下の弟を武士にし、剣を持たせて長男自身の土地を守らせました。次の弟にはその土地を耕させました。もちろん土地は全部長男のものだし、収穫も長男が独り占めしていました。さらにはいちばん末の弟を奴隷としてこき使ったのです。やがて時が来て、四人の兄弟の父親は息子たちの様子を見に来ました。そして長男が土地を全部独占し、弟たちを自分の召し使いや奴隷として使っていることを知ったのです」


 人々が静まりかえる中で、イェースズの話は続いた。


「父親はたいへん怒りました。そして長男を牢屋に入れ、次の弟もその剣を折ってやはり牢屋に入れたのです。そして三番目の弟は、末の弟が奴隷として使われているのを助けなかったとして砂漠へ追放し、末の弟の鎖を解いて自由の身としました。さらに時が来て、牢屋に入れられたり追放されたりしていた息子たちがその罪の贖いを終えたとき、四人は再びそろって父親の前に並び、今度は土地を四等分して互いに平等に仲良く暮らすことを誓ったということです。どうですか? この話を聞いて、何か感じませんか?」


 しばらくは誰も言葉を発しなかった。心地よい風が人々の頭上を駆け抜け、周りの木立の木々の葉をざわめかせただけだった。しかし、今度のイェースズの例え話には、誰もが納得しているようだった。


「先生!」


 いちばん前にいた若者が、声を上げた。周りの人々の視線がそのものに集まった。


「俺らスードラは一生奴隷だ。また、これらの子孫もずっと変わらないはずだ。バラモンたちから見れば、俺らは馬や牛以下の存在なんだ。なのに、本当に自由になれるなんて信じられない。そんな日が本当に来るんですか?」


「神様は人に自由を与えて下さっている。人は自由に生きられるように創られているはずです。なぜなら、どんな人の魂もみんな同じ神様から出たものですだからです。つまり、どんな人間でもすべては等しく神の子なんです。いいですか。私たちみんな神の子なんですよ。みんな、神様からいただいた霊魂が、この肉体の中に入っているんですよ」


 イェースズの説法は、この日はやけに力が込められた。


 イェースズにとって、このスードラの村での生活は飛ぶように過ぎていった。

 イェースズはスードラとともに苦役に出ることはあまりなかった。午前中にはバイシャたちの農場を牛とともに耕し、昼前から夕方ごろまでは家があるものは家で、家がないものは路上の木陰で寝て暮らす。この間はあまりの日射の強さに、労働は不可能だからだ。そして夕方から日没まで再び苦役が待っている。


 イェースズが主に説法したのは、夜に入ってからだった。初めのころのように好奇心だけで多くの人が集まるということはなくなっていたが、それでも常に数十人の人がイェースズの前には群がっていた。

 イェースズはこれまで自分が故郷やジャガンナスで学び、その間に考えていたことなどを分かりやすく人々に説いた。自分がこう思うということを単に自分の中にしまっておくだけでなく、人々に分かち合うことによってその人たちが少しでも神のご実在を理解してくれたという願いと、またそれで自分も勉強して修行をし、さらにはこの村においてもらっていることへの恩返しに少しはなるのではないかと考えていたのである。

 この国ではスードラといえば、全く神とは無縁のまま生涯を終えるのが普通だ。しかしそれが神のみこころとは、イェースズには思えなかった。しかし聞いている方はどうも完全に理解して歓喜のうちに帰っていくというような感じはなく、たいていはああ、そうですかというふうに顔だけで笑って礼を言って帰っていく。

 何ぶんスードラたちには娯楽というものが全くなく、何かそのような感覚でイェースズの話を聞きに来ているようだ。


 そしていよいよ雨季が間近であるという気配が強く感じるようになってきた頃、シシュパルガルフの町全体が浮足立ってきた。年に一度の、シシュパルガルフの祭りだ。祭りはクリシュナ神の祭礼で、イェースズにとっては二度目となる。

 しかし昨年はまだジャガンナスのシャーミーの一員だったので、もっぱら寺院内での祭事に追われ、町中の祭りの様子を見ることはできなかった。

 そしていよいよその当日、すなわち二十日間行われる祭りの初日、ただでさえ人があふれているシシュパルガルフの町に全国からクリシュナ神を崇拝する信徒がどっと流れ込み、どこへ行っても身動きがとれないほどになった。そんな中を、イェースズは祭りの中心地に向かって出かけていった。


 メインストリートはかなり広い大通りだが、それでも足の踏み場もないくらいの人出でごった返していた。

 この祭りを境に、苦しかった暑熱期も終わる。そして同じように苦しい雨季に入るわずかな狭間に、祭りはある。

 道の両側には同じような造りの民家が並び、たいてい二階はバルコニーとなっているが、そこにもあふれんばかりで人が詰まっていって路上を見下ろしている。民間のすぐ背後には、ヤシの木の林が一面に迫ってきていた。


 この日ばかりは年に一度のこととて、スードラも苦役から解放される。イェースズの周りにはいつも彼から説法を聞いているスードラが数十人従い、人にぶつかったり押し合いし合いしたりしながら町の中に向かっていた。

 進もうにも、なかなか前に進めない。人々の喧騒、祭り目当ての商売人の売り声、そしてあちらこちらから響く楽器の音が青い空に木魂している。蛇つかい熊つかいも、普段の三倍は出ているだろう。あちらこちらに人垣ができ、のぞくと布を頭に巻いたバイシャの笛の音に合わせ、コブラが身をくねって愛嬌を振りまいていたりした。

 この祭りの最大のイベントは、ジャガンナス寺院の山車だし巡行だ。一段と歓声が高く上がった方向を背伸びして見てみると、そこにジャガンナスの山車の先の赤いほろと旗が見えた。山門前の広場に普段置かれているあの巨大な山車だ。三階建ての僧院ぐらいの高さはある。


 イェースズとその一行のスードラたちは沿道の露店に入り、涼をとりながら食欲を満たした。大きな木の葉に盛られた、例の黄色い泥状のものがかかっているパンだ。パンといっても故国の過ぎ越しの祭りの時に食するような、酵母を入れていないパンである。

 左手の肘をテーブルの上に乗せて手先は下へ隠し、右手で手づかみで食べる。こんな席でスードラがテーブルに着いて食事ができるのも、一年に一度のことだ。

 この祭礼の期間中に限り、さすがにバラモンは別だが、その下のクシャトリヤ、バイシャ、スードラの三階級は食事で同席が許される。

 目の前の路上の人ごみは相変わらずだが、ただ右往左往している人たちばかりではなくなったようだ。何本かの太い綱を、左から右へと大勢の人がゆっくりと引いていく。遠くを見るとクリシュナの山車は、はっきりと動いていることは分からないが、確実にさっきよりずっと近い位置に来ていた。

 食事を終えたころには山車はすぐそこまで来ていて、人ごみをかき分けるとすぐそばにまで見にいくことができた。イェースズは大きな車輪を目の前にしてそのまま視線を上の方へと這わせ、いつもジャガンナスで見慣れていたその山車を見上げた。

 普段は単に車輪の上の板に骨組みだけがうず高くそびえているだけの車だったが、この日は巨大な赤いドーム状の布で覆われており、いちばん上には旗が風にはためいている。車輪は片側八個、計十六個あり、その一つが人の背丈ほどもあった。車輪はそれを覆う平らな板の下に隠れており、赤い布のドームがそびえているのは船の甲板のようなその板の上だ。

 板の上にも大勢の人々がひしめき合って乗っていて、緑色の欄干から身を乗り出したり、あるいは欄干に外向きに座っているものなども大勢いた。

 板の下、車輪の外側には柱と横木の足場が組まれ、人はそこに足を乗せて板の上に上がる。上の者が上がろうとする者の手を引っ張り上げる光景も見られた。その柱にも極彩色が施され、そんな巨大な車を引く数本の綱は長さが三十メートルほどあって、上半身裸の大勢の男が合わせた掛け声とともに力まかせに引いている。それでも車の進み具合は、牛の歩み寄りも遅い。

 また一つ、調子をそろえた掛け声が空に響く。わずかながら車輪が回転し、車は前進する。その繰り返しで、一つの車の後ろにはすぐに次の車を引く人たちの先頭が続いている。


 ラタ・ジャートラと呼ばれるこの山車は全部で三基あって、それぞれクリシュナ神やヴィシヌ神が祀られている。赤い布で覆われていることは三基とも同じだが、一つは黒、一つは黄、一つは青のストライブがそれぞれ赤地に縦に入っている。三十分ほどの距離にある別の寺院までその車は一日がかりで巡行し、十日間そこに留まった後、祭礼の最終日には再びジャガンナスへと戻る。

 この山車の巡行の綱を引くことを許されたものは、それだけで魂の輪廻から解脱げだつできると彼らは信じており、またこの山車にひかれて死ねば、天上に生まれ変わるとさえいわれている。

 しかしわざわざ車にひかれて死のうとする者がほとんどいないのは、伝説はあくまで伝説であって、彼らにとってはそれが何ら現実味を帯びていないということになろう。

 そして今、イェースズの目の前を巨大な車輪がゆっくりと転がって通り過ぎようとしていた。いつもジャガンナスの広場の隅にあって、シャーミーたちに日陰の涼を提供してくれた山車で、イェースズはこの蔭でヴェーダについて論じ、神について論じたものだった。

 山車が運んできた記憶の糸が次第に手繰られていくうち、イェースズの中でどうしてもあの寺院での忌まわしい思い出が蘇ってしまう。再び山車を見上げたイェースズは、こみあげてくる感情を制しできなかった。


「この車はぬけがらだ。魂の入っていない肉体と同じだ」


 イェースズは、思わず大声を張り上げていた。


「あのクリシュナの像は、単なる偶像だ。偶像を不調和な心で拝んだって、神様に通じるものか」


 まわりの者が、一斉にイェースズを見た。最初はただ単に驚いただけだったが、その叫びの内容のただならぬことに気づき、イェースズを敵意の目で取り囲む形となった。


「おい、この奴隷の小僧が、とんでもないことぬかしているぞ」


 人垣は二重、三重にもなった。無理もない。全国のクリシュナ神の崇拝者が集まる祭りだ。殺気を感じ取ったスードラたちはイェースズの腕をつかむと、人垣を乱暴にかき散らしてすごい勢いでイェースズを連れ去った。十数人の者たちがそれを追ってきたが、スードラたちの機敏な逃亡はついにそれを振り切った。


 少し離れた、もう関係のない人たちの人ごみの中でみなが肩で息をした。しばらくそれが収まるのを待ってから、スードラの一人が口を開いた。


「先生、だめですよ。あんな所であんなことを言ったら、殺されますぜ」


 たしかに冷静に考えれば、イェースズの普段の論理では大いに反省すべき行為だった。しかし何ぶんイェースズは若く、若さゆえという弁護もこの際なら成り立つだろう。


「帰ろう」


 と、イェースズは言った。帰りながら、イェースズはスードラたちに告げた。


「私がさっきしたことは、確かにいいことではなかったですね。しかし、私が言った言葉だけ覚えておいてください。荒々しい心で偶像崇拝しても、決して神様には通じません。神様と波調を合わせるには心を静かに落ち着かせ、調和を保たなければだめなんです」


「先生」


 数度の中の別の男が、イェースズと並んで歩く形となった。


「心を落ち着かせて調和を保つとは、どういうことですか? そうするためには、どうしたらいいんですか?」


 熱心なその問いに、イェースズは右手を自分のあごに持っていって考えた。


「そうですね。今夜、そのことについて私が考えてることを話しますので、皆さんを集めてください」


 やがて、イェースズが暮らしているスードラの村に着いた。


 祭りの喧騒はふだんの数倍も高く、この町はずれのスードラの村にも響いてくる。この期間は全国から集まった巡礼者が郊外の原野に所狭しと自分たちの臨時の小屋をぎっしり建てるので、町が膨張する。建材は故郷から背負ってくることができる程度の簡単なものだ。雨季はもうすぐだといってもまだ始まってはいないので雨の心配はないし、夜は暑くもなく簡単な囲いで済む。

 町の方角を見ると夜空があかあかと燃え、人々の声や音楽が聞こえてくる。それがかえってこの村の静けさを強調する中、かがり火に照らされた人々の顔を見ながらイェースズは口を開いた。


「神様は人間の目で見ることはできませんね。それは、神様が霊的存在だからです。人間の目では、霊を見ることはできないのです。しかし、目に見えないからといって、ないと断定できますか?」


 数十人集まった聴衆たちは、お互いに顔を見合わせた。イェースズは続けた。


「例えば、あのラタ・ジャートラが人々に引かれて道を進むのは、それを引く人の力が加わるからでしょう? とすると、力というものは確実にありますよね。車が進んでいますから。でも、力というものは目に見えますか? 見えないでしょう」


 ようやく聴衆はうなずいた。


「だから、目に見えないからといって、ないとは断定できないんです。私の故国くにでは神様のことを、『在りて有るもの』というふうにいいます。確かに実在し、ピチピチと生きておられる御存在なのです。しかし、目では絶対に見えません。そこでどうすれば神様の足もとのくるぶしだけでも見せて頂けるのか、ということになります」


「じゃあ、どうすればいいのですか?」


 あちこちから、そんな声が上がった。イェースズはにっこり微笑んで、そんな人々を見わたした。


「お互いの人間を見ればいいんです。人は神様が全智全能を振り絞られて、ご自分のお姿に似せて創られたのです。だから、今まで私が人はすべて神の子であると言ってきたのは、そういうわけなんです」


 祭りの喧騒は相変わらずだ。それをよそに、村の広場は静寂が支配していた。


「ですから、お互いが神の子であり、神さまのけみたまである霊魂が入っているのです。つまり、そのお互いの霊魂に、神様をわずかながらでも見いだせるはずです。だから人はお互いにおろがみ合うこと、尊敬し合うことが大切で、他人をおろがめばすなわち神様を拝することになるんです。このことは、たとえバラモンとバイシャ、そしてスードラやクシャトリヤ同士でも、全く同じです。バラモンもスードラも、皆同じ貴さの神の子なんです。そうなると、お互い他人の悪口を言ったり、他人を傷つけたりするのは大変なことでしょう。例えば、他人の悪口を言ったとすると、その相手の魂をお創りなったのも神様ですから、創り主であらせられる神様の悪口言ってることになるのではありませんか」


 人々は、はっとしたような顔つきをした。ああ、そうかというの表情があちらこちらで見られた。


「だから、神様に近づきたいと思う人は、まわりの人々に奉仕することが大事ですよ。いいですか、自分の家族だけじゃだめです。家族ではないもの、通りすがりのもの、または自分に攻撃を加えようとしていたり、自分を嫌っているような人に対してでも、神様が私たちお創りくださり育み生かして下さっている愛、その与えられている愛と同じ愛を今度は私たちが他人ひと様に与えていくんです。不平不満でむさぼる心は地獄です。与えるということは足りることを知ることで、そこにはおのずから感謝の想念が生じ、心は調和で満たされ、神様と波調を合わせることができるでしょう。要するに、神様と波調を合わせるとは、神様の愛のみこころと同じ心になってしまうということなんですよ」


「神様が目に見えないなら、どうやって動物を捧げればいいのですか?」


 一人の若い男が、質問を発した。どうもまだ、話をよく理解していないものもいるようだ。そういう人に対しても、イェースズはにっこりと笑って親切に解き始めた。


「天のお父様である神様は、人間がほかの動物を殺すことをお許しにはなりませんよ。私はそう思います。だってどんな動物だって、みんな神様がお創りなったのでしょう。無駄なものは、神様は一切お創りなっておられないはずです。ただ、食べるために動物を殺すのなら、神様も大目に見られるのではないでしょうか。しかし、神殿で生けにえとして動物を焼いたとしても、それをあとで食べますか? 食べないで捨てるだけでしょう。世の中には飢えている人々がたくさんいるのに、そういう人たちを無視して食べもせずに動物を殺して捨てるなんて、神様のみこころだと思いますか?」


 人々は黙って聞いていた。


「いいですか? 神様に動物を捧げたいなら、本当に人々に役立つもの役立たせてくださいという気持ちで備えるのです。食物などは、それを貧しい人たちたちの食卓に置くのが、最大の神様への供物となるでしょう。私はそう思いますが、いかがですか?」


「おおっ!」


 大きな声で、叫び声をあげた者が何人もいた。


「先生、そのお考えこそ神様の声なんですね!」


「私はそう思います」


「おお、先生こそ神様なんだ」


「ああ、きっとそうだ。あの寺院のクリシュナ像は、本物ではないと先生は言った。きっと先生こそが、クリシュナ神の化身けしんなんだ」


「いや、インドラ神だよ」


「どっちにしろ、神様だったんだ。わしらそうとも知らずに、ただ話を上の空で聞き流していたなんて……」


 人々は口々に叫び、一斉にひざまずいて、クリシュナ神像に対してするような礼拝をイェースズに対して行いはじめた。

 イェースズは困ったような表情で、立ちすくんでいた。どうも話がおかしくなっていく。今ひとつ、言おうとしている真意が伝わらない。


「皆さん、もう一度聞いて下さい」


 大声で、イェースズは人々の頭上に叫んだ。


「私は皆さんと同じ人間です。皆さんがみんな神の子であるのと同じく、私も神の子の一人です。私は皆さんの兄弟です。ただ、神様に近づく法を、私が考えたなりにお話ししているだけです。しかし、それも私が頭で考えたのではなく、偉大な叡智が私の言うべきことをどんどん与えて下さるので、私はそれに従って皆さんにお伝えしているだけなのですよ。さあ、立ち上がって」


 イェースズは人々に立つように促したが、人々は一向に礼拝をやめようとしなかった。


「人間同士のお互いの尊敬は必要ですけど、人間を神様のように拝むのは間違いです。人間を崇拝しちゃだめですよ。崇拝すべきは目に見えない天の神様だけです」


 その日に、寝床に入ってからもイェースズはなかなか寝つけなかった。どうも自分の波動が人々に伝わっていかない。確かに今日の話し方には誤解を与える余地はあった。しかし、それだけではなく、もっと根本のところで想念的誤りであるのではないかと、イェースズは自分を反省した。

 しかし、それからというもの、村の者たちは完全にイェースズを生き神扱いにするようになってしまった。道行けば、今までなら会釈で済んでいたものがたちまち土下座に変わってしまう。

 もうここにはいられないと、イェースズはそんな気になり出した。ただ、もうすぐ雨季になって外出はほとんどできなくなるので、その間の数ヶ月は屋内に潜んでよく考えてみようとイェースズは思った。


 確かに説法のたびに偉大な叡智に心は満たされ、自分でも知らないようなことまで口から出ていく。

 しかし要は、その話の内容と自分の実際の行動とが一致しているかどうかだ。話の内容を自分の血とし肉としなければ、いくら学んできたことを人々に受け売りしても波動は伝わらない。

 もしかしたらそういうことなのかと、ふと頭の片隅に浮かんだりした。しかし、だからといってどうしたらいいのかは、今のイェースズには分からなかった。とにかく、ここにいてはだめだという思いだけは日増しに強くなっていった。


 やがて雨季を迎えた。接するのは世話になっている老婆と、その息子の若者だけだ。

 確かに雨季は、イェースズが今後のことについて考えるのに十分な時間を与えてくれた。そして固まった決心は、雨季が終わったらここを出ようということだった。問題はどこへ行くのかということだが、答えはおのずから胸の中の声が教えてくれた。それは、カーシーであった。

 カーシーはジャガンナスのシャーミーだった時、一度だけ行ったことがある。しかし今度は自由の身となって行くのだから、前回とは違って得るものや学ぶものが多くあるはずだ。

 カーシーはシシュパルガルフからだと隣国の町ということになるがこのあたりはどの国も民族のるつぼだし、同じ文化圏なのでそのあたりはあまり気にする必要もなかった。


 そして雨季が終わり、イェースズは約一年のこの村での生活から離れることにした。そのことを村人たちに告げた時の、人々の動揺はすさまじかった。


「いやだ、行かないで下さい」


「あなた様がいなくなったら、この村はおしまいだ」


「どうして、俺たちを見捨てなさる」


 老いも若きも、男も女もほとんど泣きながら、イェースズにすがりついてきた。


「皆さん。皆さんは何か勘違いしているんじゃないですか? どうして私がいなくなると、この村はおしまいなんですか? 私は決して皆さんを見捨てるために、旅立つのではありません。一つは、自分の修行のためです」


「あなた様に着いて行けば救われるんだ。それなら、ここにいるみんなを連れて行って下さい」


「それがいけないんですよ。私についてくれば救われるなんて、誰が言ったんですか? 自分を救うのは、自分しかいないんですよ。つまり、自分の自覚しかないんです。これ以上ここに留まらない方がいいと思ったのは、皆さんが私を頼り切って、自覚ということを忘れてしまいそうな気がしたからです」


 もうそれ以上は何を言っても無駄だとイェースズは思ったので、彼はしまい込んでいた僧衣を再びまとうと、一人でカーシーに向けて旅立っていった。

 彼が僧衣を着たのは、クシャトリヤやバイシャの服装での一人旅は盗賊などに襲われる危険性が大きく、またスードラの一人旅というのは理屈からあり得ない。

 そこでいちばん無難なのが、バラモンの僧衣だったのだ。これなら途中で乞食こつじきもできる。それでしばらくほこりをかぶっていた僧衣を、彼は取り出したのだった。

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