4、アグニの火祭り

 酷暑のまっただ中での日々が続いた。

 日陰へ入れば涼しいし、夜はそれなりに気温が下がる。しかし、それでも暑さによる不快感は人々をいらだたせる。それはイェースズの故国だとよほどの砂漠へ行かない限り、あり得ないような酷暑だった。


 そんな毎日でも、イェースズはウドラカから聞いた悪霊のことが気にかかって仕方なかった。

 ときには体の不調を訴え、寝込むシャーミーも仲間の中にはいる。そのたびにこれも悪霊の仕業なのだろうかと、イェースズはしみじみと眺めてしまう。

 ウドラカはあのように言ってはいたが、今の自分の力をもってしてさえ悪霊を制するとなると全く自信はなかった。


 そのうち、雨季に備えての食糧調達係りにイェースズは当たった。雨季の間はあまり外出もできなくなるからだということだ。

 二、三人のシャーミーとともに、イェースズは郊外の山林の中へと向かった。

 ヤシが点在する一面の大草原を大陸に向かって一日も歩くと、なだらかな山岳地帯にぶつかる。それを超えれば大高原となるのだが、その山岳地帯では多くのサロモンたちが独自で修行をしている姿が見られた。

 イェースズたち三人は、そんなサロモンたちの修行の間を邪魔にならないように進んだ。


 思い思いの岩陰や大樹のもとで、サロモンたちは禅定して瞑想にふけっている。それがサロモンの修行ようだ。たとえその耳元で大声で騒ぎ、その体を揺り動かしたとしても彼らの禅定は解けそうもないような波動が伝わってくる。

 その旅の間でもイェースズの頭からはウドラカから聞いた悪霊のことが離れなかった。

 それまでのイェースズの概念では、理解し難いことである。確かに悪魔サタンについてなら、幼いころから両親やエッセネ教団の教師から教わってきた。しかし、それが何であるのかはっきりしたことは分からないし、また悪魔サタンとウドラカがいう悪霊とは同じものなのかどうかということも分からない。

 イェースズの知っている悪魔サタンとは、よく装飾のある門の両脇に住んでいるとかいわれている。だから、エッセネびとたちは決して装飾のある門をくぐらない。


 実はサロモンがたくさん修行しているという山野へ行くというので、イェースズはサロモンにその点をぜひ聞いてみたいという腹でやってきた。しかし、実際現地で見るサロモンの様子は、とてもそのような質問ができる雰囲気ではなかった。


「皆、何を考えているのだろう」


 イェースズは仲間のシャーミーに、歩きながら小声で聞いてみた。そのシャーミーはもっと声を落とすようにイェースズに合図した後、耳もとでささやいた。


「僕らシャーミーの預かり知るところではないけれど、徹底的に自我アートマンを見つめて、それで悟りを開くそうだよ」


「悟りを開くって?」


「つまり、シュバラーの境地に達することさ」


 シュバラーとは完全に神人一体化した境地のことで、観自在力を保有することである。イェースズはどこかに禅定をしていないサロモンはいないものかと辺りを見回したが、どこにもそのようなサロモンは見当たらなかった。


 やがて一行は、山の上のような狭い平らな土地に出た。目の前には平原が広がっているが、振り向けば大地が遥か下に霞んでいた。ここではさらに多くのサロモンたちが修行していた。

 しかもただの禅定だけではなく、炎を燃やしてその上での禅定や、わけの分からない呪文を唱えながら何度も水を頭からかぶっているものなどの姿もあった。

 肉体を苦しめることで煩悩を消し去ろうとしているようだ。

 中にはわざと先の尖った石を集めて、その上で禅定している者もいる。見るとひざから下が血だらけだ。

 イェースズは、思わず目をそむけてしまった。この残酷な光景がどうして悟りと結びつくのか、彼にはどうしてもその答えが見いだせなかった。

 ここでも、彼が疑問をぶつけることができるようなサロモンはいそうもなかった。


「ちょっと待って」


 イェースズは、仲間のシャーミーを呼び止めた。


「僕も瞑想してみたい」


 二人の仲間のシャーミーは、驚いたような表情を見せた。


「瞑想って、僕らはまだシャーミーだよ」


「いいじゃないか、ちょっとまねごとさ」


 イェースズはそう言い捨てて、さっさと修行場全体が見渡せる岩の上で見よう見まねの禅定を始めてしまった。二人のシャーミーはあきれたような顔でそれを見ていたが、やがて程近い岩の上に腰をおろし何やらひそひそと話し始めた。

 イェースズにはサロモンたちがなぜそのような禅定するのか、その心が分からなかった。だから、その心情を理解するには、同じようなことをしてみるのがいちばんよいではないかと考えたのである。

 しかし、禅定したからといって、なにを瞑想したらいいの皆目分からない。ただ格好だけをまねして目を閉じてみても、頭に浮かんでくるのは雑念ばかりだ。雑念の中でも特に強いのは、やはり悪霊に関することだった。

 イェースズはそっと目を開けた。足もしびれてきている。ところが目を開けたとたん、そこには驚くべき光景があった。修行場全体に言い知れぬ妖気が漂っていたのである。はっきりと肉眼でそう見えるわけではないが、灰色の靄で覆われたような妖気が彼の魂にずっしりと響いてきた。

 イェースズは三度ばかり目をこすった。そうして、もう一度あたりを見回してみた。サロモンたちは相変わらず苦行に励んでおり、その苦行にじっと耐えて、顔は苦痛にゆがんでいた。

 そんなサロモンたちの体の周りを、やはり灰色の靄が包んでいるのもイェースズは見た。包んでいるというより、サロモンたちの体からその靄は発せられているようにも見える。


 その時、空中を無数に飛来している白い物体が、イェースズの目に映った。その目とは肉の目ではない。従って物体というのは、形ある物質ではないようだ。

 イェースズは、心を落ち着けることにした。大きく深呼吸をして、心をいかに静かな調和とれた状態にするか、この与えられた大自然といかに一体化して溶け込むかに努めた。

 するとその白い飛来物は、その形をだんだんあらわにしてきた。ほとんどは動物だった。キツネ、タヌキ、ヘビなどのほか、牛もいた。そして動物ばかりでなく血みどろのクシャトリヤや、髪をふり乱し苦痛にあえぐ表情の女などもおり、それらは同じような苦悶の表情で修行しているサロモンの体の中にどんどん入っていく。

 サロモンたちの苦悶はますます深刻になる。白い実体のないさまざまな形の靄たちは、イェースズのそばには来られないようだ。

 イェースズの耳、それも肉の耳ではないもっと奥深い耳には、空中に飛び交う悲鳴やすすり泣きなども同時に聞こえていた。

 すると、右前方で足音がした。今度は肉耳に響く音だった。見ると、禅定に入っていないサロモンが一人、こちらへ向かって歩いてくる。しかし、その背中には四つ足の動物がぶら下がって、しっかりと取りいているのがイェースズには見えた。

 イェースズは立ち上がった。

 その瞬間、肉のまなこが彼の五官を再び支配し、修行場全体を包む妖気も白い靄も空中を飛来する物体も、そして歩いてくるサロモンの背中に負ぶさる動物も一瞬にして消えた。

 サロモンは、すでにイェースズのそばまで近づいてきていた。すべてが太陽の降り注ぐ、何事もなかったような修行場となっていた。ただ、サロモンたちの苦行はそのまま続いていた。

 岩の上に立ちあがったイェースズに、白い髭のサロモンは下から見上げる形となった。


「君はシャーミーだね。なぜこのようなところで禅定しているのかな」


イェースズの仲間の二人のシャーミーは首だけこちらに向けており、ここへ来る様子はない。イェースズは岩から降りた。


「雨季の食糧の調達に来ました。そうしたら皆さんがここで修行されていたので、僕も皆さんのまねをしてみたくなって禅定してみました」


「それで、何か悟ったのかね」


「いいえ、雑念ばかり浮かんで……」


「早く食料を集めて、帰りなさい」


 それだけを言い残すと、サロモンは少し曲がった腰をかばい、イェースズに背を向けて立ち去ろうとした。


「あのう」


 イェースズに呼び止められたサロモンは、首だけを振り向かせた。


「まだ何か用かね」


「どうしてもお聞きしたいことがあるんです」


 胡散臭そうにそのサロモンはイェースズのもとにゆっくりと戻り、そして十四歳の少年をじっと見た。


「空中の悪霊について、お伺いしたいんです」


「悪霊?」


「はい。空中の悪霊が人に災いをし、病にいたらしめるということを聞いたんですが、本当でしょうか」


 一瞬怪訝そうな顔をしたサロモンだったが、急にしたり顔でイェースズをにらみつけた。


「君は、自分の寺院でいったい何を学んでいるのかね」


「何をって、長老からヴェーダについて……」


「そのヴェーダだよ。すべての答えはヴェーダにある」


「アスラ……。ラークシャサ」


「そう。それだよ。分かっているじゃないか」


 アスラとはヴェーダに出てくる魔族で、同じくラークシャサとは魔性神だ。これらについてはヴェーダを通して確かにひと通りの知識を持っていたが、イェースズにはどうも納得いかない点があった。ましてやウドラカが言った空中の悪霊と、このヴェーダでいうところのアスラやラークシャサのことなのだろうか……そんな疑問を、イェースズはサロモンにぶつけてみた。サロモンはしばらく黙ってイェースズを見つめた後、口を開いた。


「今夜、アグニの神の祭りがある。アグニ神こそラークシャサの屠殺者でおわします火の神様じゃ。今夜、この場所へ来て特別にその祭りに参加するがよい」


 それだけを言い残し、サロモンは去って行ってしまった。


 山中で果実などの食料の調達を終え、夕方近くになったので、イェースズは仲間に火祭りのことを告げた。


「アグニ神の祭りが、今夜あるそうだ。特別に参加させて頂けるようだよ」


「アグニの神……」


 仲間たちは顔を見合わせた。彼らの寺院はクリシュナ神を祀っているから、アグニ神についてはヴェーダで見るのみであまりなじみがない。


「そうか。ここのサロモンたちは、アグニ神を崇める人たちなんだ」


「行ってみよう。せっかくの祭りなんだから」


 そうして三人とも、この夜の祭りに参加することになった。


 夜になると、昼間の酷暑が嘘のようになる。空には満天の星が変らず散りばめられ、多くのサロモンたちが集まる中で一斉に三つの巨大な火がともされた。その度ごとにサロモンたちは地に伏して火を崇めて拝んだ。

 まず東側に焚かれた火は神々を表すアーハーヴァエーヤと呼ばれ、南は死者のためのダクシナという火、西はこの世の食物のためのガールハパティヤという火だった。そうなるとそれぞれが、天と空と地、つまり神界・幽界・現界の象徴だということになる。

 イェースズらも周りの人々と同じように、恰好ばかりをまねて火を拝礼した。しかし、イェースズの頭の中には、わだかまりばかりがうず巻いていた。

 確かに火は神聖なものであり、火の神はすなわち日の神である。それを礼拝するのは、毎朝太陽礼拝をしているエッセネ教団の一員として育ってきたイェースズには理解できないこともない。

 しかし、そのときでも太陽自体を拝むのではなく、偉大な太陽を存在さしめ得たさらに偉大な神の叡智に、太陽を通して礼拝をするのだと教えられてきたものだ。

 ところがここでは、完全に物質としての火を礼拝しているしている。火は神聖なものでも物質としての火はあくまで物質であって、それを礼拝するのはイェースズが幼いころから戒められてきた偶像崇拝に等しいのではないかとイェースズは思ったのである。

 火は夜空に届かんばかりに、ますます高く燃え上がる。パチパチと火の粉が飛ぶ音が聞こえ、その中を火に一番近い祭壇の上から極彩色の僧衣をまとったマハー・バラモンのヴェーダを唱える声が響いた。


「われ、アグニをたたえん。祭りの司祭として、われ、アグニを讃えん。アグニはいにしえの聖賢により讃えられ、また今の聖賢により讃えられたもう。願わくは、アグニのみ力もちて、ここに神々の集い来たらんことを……」


 ヴェーダの朗詠は延々と続く。それには軽い節がついていて、節の中で踊る炎は無気味にさえ見えた。確かにヴェーダは偉大な教えだし、智恵の宝庫であることはイェースズも認めていた。

 しかしイェースズが失望を感じていたのは、そのヴェーダを奉じるバラモンたちであった。ヴェーダの偉大な教えを頭の中に知識として詰め込み、その上であぐらをかいている。

 そして今夜の火祭りも、単なる形式のみの残骸としかイェースズには思えなかった。まるで故郷のサドカイびとの祭司たちのようだ。


 そんなヴェーダの朗詠の切れ目で、イェースズは不意に背中を軽く叩かれた。昼間の、あの白髭のサロモンだった。サロモンは無言で、アグニの火を顎でしゃくった。わけが分からずイェースズはそのサロモンを見ていると、


「特別に君に近くで参拝させてあげられるよう、マハー・バラモン様にお願いしておいた。君は、どうやら遠い異国の青年らしいからね。その顔つきは、たぶんローマ人だろう」


 イェースズはローマの市民権を持っているわけではないが、適当にうなずいておいた。


「さあ」


 サロモンにつつかれて立ち上がったイェースズは、多くのサロモンたちの視線が集まる中をゆっくりとアーハーヴァエーヤの火の近くへと歩んでいった。

 燃え上がる炎を目の前にして、イェースズは立ちすくんだ。熱が体全体にもろに当たってきた。

 その時、イェースズの頭はくらっとした。次の瞬間、その体は地面に前向きに倒れた。周りのサロモンたちの間でどよめきが起った。突然、異国のシャーミーが気を失って倒れてしまったのである。


 ところが当のイェースズは、少し上空を浮遊しながらその光景を見ていた。倒れているのは確かに自分だ。まるで死んだように身動き一つしない。そしてその周りで騒いでる人々の様子も、上から見おろせる。仲間のシャーミーたちもあわてて駆け寄ってきて、倒れているイェースズをゆり起そうとしている。

 それからイェースズは、浮遊している自分の周りに目を向けてみた。昼間にも見た空中を浮遊する物体が、今度は手に取るようにはっきり見える。動物霊やもの凄い形相の人霊が、そこでは所狭しと無数に飛び交っていた。

 その数は、祭りに集まっているサロモンたちよりも遥かに多い。人霊はどの顔も苦痛にゆがみ、怒りに燃えているようだ。その恐ろしさは正視に堪えない。

 いくつかの霊は、どんどんサロモンたちの肉体へと飛びこんでいく。そのサロモンたちが崇めている炎はというと、その中に悪霊の親玉とも思える鬼のような巨大な霊が仁王立ちとなって人々をにらみつけていた。

 これではアグニ神どころか、むしろラークシャサの炎をそのもののようだ。


 空中の浮遊霊たちは、イェースズにも一斉に襲いかかろうとした。そのときイェースズは、浮かんでいる自分の体から黄金の光が発せられているのを見た。襲いかかる霊にとってその黄金の光はバリアのような効果があり、どの霊もイェースズに近づくことができずにいた。


 そのうちイェースズの頭上に目もくらむような閃光が放たれ、体がぐいぐいと上昇する感覚を覚えた。

 気がつくと、辺り一面の光の洪水の中のような所に彼はいた。やや上空には、光のかたまりともいえるような黄金色のようなものがある。しかし、炎の前に立った時のような物質的な熱を感じたわけではなく、魂の奥底から温められるようなやすらぎの熱だった。

 目の前の光の塊の中から、厳かで、それでいて心の安らぐ声が聞えてきた。


 ――汝、イェースズよ。今、汝に示し置くこと、永遠とわに想いて忘るるなかれ……


 心に響くその声にはなつかしさに似たようなものさえ感じられ、イェースズは思わず涙が出そうになった。


 ――今世、汝ら人々の心いよいよ神を離れ行き、悪のみ盛える世なれば、神いささかの懸念ありて、ここに示しおくなり。汝ら本来聖霊聖体なりし神のけみたまを肉身に内蔵しあるも、そを汚し行き過ぎて、これまでは人類気まま許したるも、このままにては神策かむはかり成就なりならせ難ければ、重大因縁のカケラを示しおかん。そは日用のかての中に汝ら見出しるも、日用の糧を得られざるもまた罪と知りおけよ。今はかなに告げ申すことできぬわけある秘め事あるゆえ、神は罪をも許し給うも、天意はまだ今の世になければ、人々また神をも分からぬようなり果てんを神は憂れうるなり。本来神の子霊止ヒトにてありしを、神より勝手に離れすぎていつしか人間となり果て、神のはかりし神の国はますます遠ざかり行くならん。神のまことの名すら、知らざるべし。神は天にします御祖神みおやかむよ。汝まず此事このことサトルこと、肝要なり。それにはまず、汝自らのたま浄め大事中の大事にして、あまりにも穢れ多き身を霊削みそ開陽霊ハラヒすべし…… 。


 次の瞬間、イェースズは地上で目をあけた。心配そうにのぞき込んでいる仲間のシャーミーの顔が、目の前にあった。しばらく放心したように、イェースズはその顔を見つめていた。

 彼らはイェースズの肩と足をかついで運び去り、祭りは何事もなかったかのように続行されていた。


 イェースズたちがシシュパルガルフに戻ってすぐ、イェースズがこの国に来てから初めての雨季が訪れた。イェースズの故国にも雨季はあるか、それは雨が多く湿気がある季節だというにすぎない。しかしこの国の雨季は、そのような生易しいものではなかった。ほかの季節に一滴も雨が降らない代わりに、この時期にはまとめて大量の洪水が空から大地に及ぶ。

 もちろんこの時期、外出などは不可能である。したがって、イェースズたちシャーミーは寺院にこもる毎日が続いた。そんな毎日は、イェースズが山中の火祭りで体験した出来事を反芻するのには十分な時間だった。


 いったいあれはどういうことだったのか、イェースズにはいまだに分からない。彼の知識では、どうしても説明がつかないのだ。人にはない特殊な能力ちからを持つ彼だからちょっとのことでは驚かないが、あの時のことばかり思い出すたびに恐ろしくて夜も眠れなくなることもあった。

 あの時聞いた不思議な声は、内容もはっきりと覚えている。だが、その言わんとしていることについては、何のことだか皆目見当がつかない。ただ、自分に何かしろと、何かしなければならないと告げていたような気だけはしていた。

 この国へ来て、こんな遠い国に来て、自分は今何をしなければならないのか、何ができるのか、イェースズはそればかり考えながら毎日を暮らしていた。

 そしてどうしても気になるのは、この国におけるひどすぎる身分ヴァルナ制度であった。


 雨季は三ヶ月ほどで終わる。そして間もなくいちばん多く花が咲き乱れ、緑が反乱する冷涼乾季が訪れようとしていたある日、イェースズはぼんやり窓から雨の庭を眺めていた。ほかのシャーミーたちは、雨期が終わったら思いっきり鬱憤を晴らそうと雨を忍んでいる。


「イッサ!」


 背後でラマースがこの国でのイェーズスの名を呼んできた。振り向くと講堂の中には、六、七人のシャーミーが円座して菓子を囲んでいた。


「長老の差し入れですよ。一緒に食べましょう」


 イェースズは黙ってうなずくと、円座の中に加わった。


「どうしたんだい、イッサ。最近おかしいよ」


 ラマースにそう言われても、イェースズは表情ひとつ変えなかった。


「おかしいって?」


「もの思いにふけってることが多いし、口数も少ないし」


「そうだよ。みんな心配してるんですよ」


 ほかのシャーミーたちも、菓子をほおばりながらそう言ってくる。ラマース以外はみんな二十歳前後で、年齢的にいっても皆イェースズより先輩だ。


「とした? 故郷が恋しいかい?」


「いいえ、そんなことありません」


 いきなり激しい調子でイェースズが否定したので、そんな質問をした先輩のシャーミーの方がうろたえてしまった。

 しばらく、沈黙が場を支配した。

 イェースズはうつむいてゆかを見つめていたが、そのうち目を上げていちばん年上のシャーミーを見て言った。


「この国の階級ヴァルナ制度について、教えてくれませんか」


 年長のシャーミーは突然立ち上がり、イェースズを指さした。


「君は、ヴェーダをどんな気持ちで学んできたんだ!」


 それは、ほとんど怒鳴り声に近かった。


「いいかね。ヴェーダにちゃんと書いてある。ヴァルナというのは、絶対神のブラフマンがお創りになったんだって。みこころのままに人間をお創りになったその結果がヴァルナなのだから、君はなぜそんなことに不平不満を言うんだ」


「しかし、ぼくの国の教えでは、神様はそんな階級をお創りになっておられない」


「黙れ!」


 立ち上がっているシャーミーはかなり興奮しているようで、肩で息をしている。彼がなぜ突然怒りだしたのかイェースズに分からなかったので、ただ茫然と見上げているしかなかった。


「いいかね。ヴェーダにはこう書いてある。黄金に輝くブラフマンが人類を創造された時に、神のみ言葉により四人の人が現れた。第一の人はブラフマンの口から生まれた赤人あかひとで、その姿もブラフマンに似ていたからバラモンと呼ばれた」


 聞きながら、それは当たり前ではないかとイェースズは思った。神が人をお創りになった時は、神はご自分のお姿に似せて人をお創りになったと、自分たちの聖書トーラーにも書いてある。

 シャーミーはそんなイェースズの心を知るはずもなく、言葉を続けた。


「その赤人は労働をする必要もなく、全くの神の使者であり、神に選ばれた者たちだ。それが、われわれバラモンなのだ」


 ユダヤ人が神に選ばれた民族だという考えにさえ疑問を持っていたイェースズだから、こんな話に同調できるわけはない。

 シャーミーの話は続く。


「次に白人しろひとが、ブラフマンの手から生まれた。それがクシャトリヤで、バラモンを保護するために神から武力が与えられた人々だ。そしてその次にブラフマンの内臓から生まれたのが青人あおびとで、土地を耕すバイシャだ。最後は、ブラフマンの足から黒人くろびとであるスードラが生まれ、この者たちはただ奴隷として苦役をするために創られたのだ」


「ちょっと待って!」


 思わず語気を荒くして叫ぶと、イェースズもそのまま立ち上がった。


「どうして神様がそのように、大元から人間を差別した形でお創りになることがあるんですか。もしそれが本当なら、それは嘘の神様です」


「何ッ!」


 話を聞いていたほかのシャーミーたちも一斉に立ち上がり、イェースズを取り囲む形となった。今にもとびかからんばかりの勢いだ。しかし、イェースズの口調はそれを抑えるのに十分だった。


「考えてもごらんなさい。神様の愛の象徴である太陽の光は、バラモンにもスードラにも平等に注がれているではありませんか。恵みの雨も、平等に降り注がれているではありませんか」


「それは屁理屈だ! 周りを見たまえ。現にバラモンは存在し、クシャトリヤも存在しているじゃないか。人が人をスードラと決めつけてスードラとしたわけではない。スードラは生まれながらのスートラだ。スードラとなるべく定められて生まれてきたんだ」


「確かにスードラがスードラとして生まれてきたのは神様の思し召しでしょうし、それ相応の前世での因縁もあるでしょう」


 イェースズを囲んでいたシャーミーたちは、少し驚いたような表情を見せた。だが、イェースズにとって再生転生は、幼いころから聞かされていたエッセネ教団の教義の一つなのである。

 シャーミーたちの顔色を見て、イェースズはしまったと思った。

 故郷では、人の魂が何度も生まれ変わるという輪廻転生を認めないサドカイ人やパリサイ人とよく議論になったからだ。ここでも同じ議論が繰り返されるのかと、彼は不安を抱いた。しかし、シャーミーたちはそのことで議論を吹きかけてくる様子もなく、皆黙っている。そこでイェースズは、かまわず言葉を続けることにした。


「さっきあなた方は、バラモンはブラフマンの口から、クシャトリヤは手から、バイシャは内臓から、そして、えっと、スードラは……」


「足からだ」


「そう、足から生まれたと言いましたよね。いいですか。だからといって、口の方が手より偉いのですか? 手が足を軽蔑することはできますか? 働きこそ違っても、みんなそれぞれ大切な役割を持った体の部分ではありませんか。足は確かに口にはなれない。しかし、口は足に向かって、お前はいらないなんて言えますか?」


「えい。いつまでごたごたと屁理屈を言っているんだ!」


「そうだ! 新入りの癖に!」


「ましてやお前は、外国人じゃないか!」


 イェースズはもはや彼らの言葉に応えようとはせず、黙って天井を見上げた。天井にも所狭しと幾多の神々が彫刻されている。彼の視線はそれら彫刻よりさらに上に貫かれた空へと向けられ、彼は両手を大きく上に向かって開いた。


「神様。アルファでありオメガである私たちの父なる神様。大愛で人類を平等の魂としてお創り下さった神様を、人類の親神様として讃えます」


「この野郎! いいかげんにしろ!」


 最初にイェースズと議論を始めた年長のシャーミーが、ついに飛びかかってきてイェースズの胸座むなぐらをつかんだ。そのまま力を入れてイェースズを床に転がすと、続いてほかの二、三人が一斉にイェースズに飛びかかった。


「やっちまえ!」


 一人がイェースズの体に馬のりになって、頭をぽかぽかと殴った。イェースズは抵抗することなくただ両腕で頭をかばい、さらに覆いかぶさろうとするものを足をはね上げてかわした。そしてよろめきながら立ち上がると、部屋の隅へと走って行った。シャーミーたちは、一筋に固まって追いかけてくる。そしてイェースズをつかまえては叫び声とともに袋叩きにし、イェースズも、


「わーッ!」


 と、叫びながら体を激しくよじって彼らを払いのけ、また走る。それをまた、シャーミーたちは追いかける。

 いつの間にかイェースズは、部屋のいちばん上座にあるクリシュナ神の像の前まで走り逃げていた。それをさっと囲むシャーミーたちも、そしてイェースズも肩で息をし、イェースズは興奮で真っ赤な顔となって衣服も乱れていた。

 殺気だったシャーミーたちは、一歩うしろに下がったイェースズを囲む輪をじりじりと縮めてくる。振り向いたイェースズは、背後のクリシュナ神を見た。そして彼の足は地を蹴り、クリシュナ神が祀ってある壇上に登った。


「あッ!」


と、シャーミーたちの誰もが声を上げた。


「こんな偶像を崇拝しているから、あなた方の考え方はおかしいんです!」


 イェースズはそう叫んだ後、クリシュナ像を思いきり床に叩きつけた。シャーミーたちがパッと跳ね退いた石の床の上で、石造は粉々に砕けた。そしてイェースズは狂ったように暴れまわり、祭壇の調度を激しく打ち壊した。

 最初は呆気にとられていたシャーミーたちだったが、我に返ると再び一斉にイェースズにつかみかかろうとした。


「な、な、なんてことを!」


「やめさせろ!」


ところが彼らがイェースズをつかまえるその直前に、イェースズの前にかばうようにして両腕をひろげて立ったのはラマースだった。


「みんな、待って下さい!」


「何だ、お前。俺たちを裏切って、こんなローマ小僧をかばうのか!」


「ちょっと待って下さい。僕は知っているんです」


「何を知っているっていうんだ!」


「気をつけた方がいいですよ。乱暴しない方がいいんです、この人には」


「なぜだ。おまえ、頭が狂ったのか?」


「違います。僕は見たんです」


「何を!?」


「彼が神を拝するとき、彼の体は黄金の光に包まれました。それにこの人は、すごい力を持っているんです」


「なにを馬鹿なことを言っているんだ。邪魔するな!」


 シャーミーの一人がラマースの腕を払いのけて、そのうしろのイェースズに手を伸ばそうとしたが、ラマースは必死でそれを阻止した。


「本当なんです。聞いてください」


 あまりのラマースの意気込みに、シャーミーたちもとりあえずは黙るしかなかった。


「彼が崇拝する神様って、とてつもない神様かもしれないんです。もしかしたら、ブラフマンより上かもしれない。だから、本当に彼が祈る神様というのがどんな神様か分かるまで、彼には何もしない方がいいと思うんです」


「じゃ、どうしろというんだ」


「任せてみようではりませんか。この人の言うことが正しいのなら、私たちはこの人に何もできないはずです。でも彼の言葉が嘘ならば、放っておいてもこの神様はこの人を罰するはずだ。私たちが今、何もしなくても」


「しかしだ」


 いちばん右にいたシャーミーが、声を張り上げた。


「この壊れたクリシュナ神を見ろ。こんなことをした者は、死しかないとヴェーダには書いてある」


「しかし、この人を殺してはいけない!」


 ラマースは肩を激しく上下させながら、叫び続けた。その肩に、イェースズは背後から軽く手を置いた。


「いんですよ、もう。ラマース。ありがとう」


 イェースズはひとつため息をついて、ゆっくりと言った。


「僕は、出て行きます。バラモンでいても、この国では真理はつかめないようだ」


「え?」


 驚いてラマースは振り返った。そのすきに、再びシャーミーたちは塊となってイェースズにとびかかろうとした。ラマースは必至でそれを防御しようとしたが、いくぶん小勢に多勢だ。激しくもみあっているうちに、イェースズはいつの間にかすり抜けて講堂の出口の方まで走って行ってしまった。


「あ!」


 シャーミーの一人が気づき、皆でそれを追おうとした時、イェースズはすでに雨の庭へと飛び出していた。

 すぐに、門前の広場へと出る。もう誰も追ってはこない。広場は雨にすっぽりと覆われており、その中央でイェースズは一度だけ雨に煙るジャガンナスの寺院を振り返ってみた。一段と高くそびえるシカラの手前のデウル(本殿)、ジャガモハン、アト・マンディラ(歌舞殿)、ボーグ・マンディラ(供物殿)と、縦に一直線に巨大な建物が並んでいる。それらはすべて雨の中でひっそりと息をひそめてたたずんでいた。

 イェースズは前方に向き直し、一目散に駆けだした。もう二度とここへ戻ってくることはないだろう……そんな訣別の情とともに、とにかく早くここから立ち去りたいという焦りが彼の足を速めた。すべての世界が雨の中で、全身に水滴を激しく受け、ずぶ濡れになって彼は走り続けた。

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