013 人妻の事情を聴かされています。

 ゴロウから紹介された男は、自分をクロだと名乗った。

 理由は知らないし、余計なことを知る必要もない。だから公彦は依頼した内容を、未晴が抱えている事情をじっと聴くことにした。

「最初に言っておくと、調査対象である柄澤未晴の夫、柄澤誠人は既にこの世にいない」

 以前未晴と行ったクラブよりもさらに数駅離れた場所、そこからさらに歩いた所にあるひと気のない喫茶店のテーブル席で向かい合って座っている公彦の前に、詳細の書かれた資料が広げられた。

「今から数ヶ月、いや、そろそろ半年か? それくらい前に通り魔だか暴漢だかに襲われて死亡。警察も調べているけれど、手掛かりがない上に一過性の犯行と判断されているから、捜査規模はかなり縮小されている。犯人を見つける可能性はほぼ・・ないとみていい」

 実際、襲われた場所が最悪過ぎた。

 未晴の旦那である誠人が襲われたのは、以前公彦も覗きに行った、アダルトグッズの自販機が立ち並ぶ場所の近くだった。そこはすでに自販機の墓場と化しているので人の気配もなく、また売られている物も物なので、監視装置の類は設けられていない。

 今でこそ公彦は思い出したが、あの時立ち寄った際に張られていたビニールシートはおそらく、凄惨な事件現場を覆い隠すために張り巡らされていたものだろう。立ち寄った時にはすでに捜査が行われていなかったので、立ち入り禁止の警告や警官が近くに張り込むこともなく、かえって気づくことができなかったのだ。

「未晴さんは、そのことは……」

 おそらく知らないのだろう、公彦はそう考えていた。

 でなければ自らの夫のことなのだ、『単身赴任している』なんて、笑って言えるわけがない。そう考えていた公彦だが、その思考は、クロと名乗った男に否定された。

 いや、気づいてはいたのだが、その考えに持っていくことを内心で拒絶していただけだ。

「……精神的ショックによる記憶の混濁。元々単身赴任の話があったから、都合よく辻褄が合ってしまった。公共住宅で近所付き合いもなく、丁度アルバイトの勤め先を替えたこともあって、指摘する人間が周囲にほとんどいなかったんだ」

「いや、でも、そんな都合よく……」

 いくのか? そう問いかける公彦だが、それ自体を否定する要素があちこちにちりばめられている。それに、おそらくは本人も、無意識下では理解しているのだろう。よほど愛していたのか、そのショックを拭いきれずに、記憶を混濁させて精神を守ろうとするくらいに。

「ある意味では、奇跡的に偶然が重なった結果だと言える。法的な手続き等は他の親戚が行い、彼女を一人にして気持ちの整理をつけさせようとしたけれど、さらに偶然を重ねることになってしまった」

「しかも……今でも、記憶を混濁させている節がある」

 実際、萌佳から誠人のことニュースを聞いた後、未晴に電話したのだ。しかし旦那のことを口にした途端、

『さっきもメッセージ送ったんだけどさぁ~まだ返事が来ないよ~。困った旦那だよ本当に』

 そう返されてしまったのだ。

 いつ記憶が再び混濁したのかは分からないが、それでもアルバイトを理由に断ったのは裏のない本心だと気づいてしまった。そして、旦那の携帯が解約されていることも記憶から消えてしまったのだと、理解できてしまった。

「……どうしたらいいと、思いますか?」

 本来ならば答える義務なんてないだろうに、クロと名乗った男は、コーヒーを一口飲んでからこう答えた。

「忘れていれば幸せなこともあるだろうし、思い出さなければいつまでも同じ場所に留まってしまうこともある。結局は本人次第だから、記憶がどうなろうと周囲の人間には何の関係もない。いや……何も・・できない・・・・、というのが正しいかな?」

「…………」

 そう、結局は未晴自身の問題だ。誰であっても、わざわざ藪をつつかなければならない理由はないし、全部が全部うまくできるとは限らない。

 けれども、それでも誰かが何かをしなければ、未晴の記憶が晴れることはないのも確かだ。

「……未晴さんの親戚の方々は、あの人の記憶に関しては?」

「知っている。まだ一年も経っていないから、今は様子を見ているみたいだけどね」

 広げられた資料の一つを指差して、クロと名乗った男は答えた。

 どうやら調査の段階で、すでに親戚から必要な情報を聞き込んでいたのだろう。聴取結果には、公彦らしき『年下の友人』のことも書かれていた。

「電話とかで聞いていたんだろう……親戚の人、いや彼女のお母さんも、君という『年下の友人』と遊んでいるのを聞いていたから、そこから記憶が戻るのを期待している節があった。でも……」

「……俺のことは、記憶から消えて・・・いない・・・んですよね」

 未晴が記憶を誤魔化している対象は、あくまで『柄澤誠人』のことについてのみ、だ。

 つまり、未晴にとって記憶を混濁させるほどの人物は、彼女の旦那たった一人だけ、ということになる。

「正直に言って、記憶を元に戻すのは相当以上のショックが必要となる上に、一歩間違えばさらに混濁させかねない事態に陥ることにもなる。しかも犯人が見つかっていない以上、無暗に行動することは避けた方がいい」

「……でも、犯人はまだ見つかっていないんですよね?」

 公彦の拳に、思わず力が入ってしまう。しかしそのぶつけどころがなく、ただ指を痛めるだけに終わってしまうが。

「かといって犯人がいなければ、再びショックを受ける可能性もある。似たような事例ケースも知っているけれど、記憶が戻った時に丁度精神的苦痛トラウマの原因も近くにいたから、まだ『正常でいられた』とも解釈できる。だから、これ以上彼女の記憶に関わるというのなら……」

「ショックを繰り返させないためにも……犯人を見つけなければいけない」

 結局は、そこにつきた。

 もし犯人が捕まって、そのニュースが未晴の耳に入れば、比較的安全に記憶を正常化することも可能かもしれない。実際、そのニュースが流れないからこそ、現状を解決することができずにいたのかもしれないのだ。

 解決する方法が分かっても、その手段がなければ何にもならない。だからこそ公彦は迷い、そしてクロと名乗った男にこう切り出していた。

「あの……犯人とかって、調べられますか?」

「すでに調査済み」

 そして示される別の資料。

 そこには事件のあらましと犯人らしき者の情報、そして、逮捕にまで至らない理由が記載されていた。

「自販機が機能していないことを知らず、買い物か何かで偶然通りがかった柄澤誠人は、そこで彼らの非合法な取引現場に遭遇した。それが殺された本当の理由。警察が調べていないのは、担当者が顧客の一人だったから、あえて無能の振りをしているんだろうね」

「そんなことが……」

「『ばれなければ犯罪じゃない』、よくある話だよ。そして犯罪も、よくある内容だった」

 その犯人達は、公彦にも心当たりがあった。

 顔を知っているわけではないし、共通する特徴にも見覚えはない。ただ、以前未晴から聞いたことのある者達だと予想はついた。

「『麻薬マリファナの取引中だったタトゥーギャングに襲われた』、それが真実ですか。まさかあいつらが……」

「……君、この犯人達知っているの?」

 公彦はその問いかけに、クラブに行ったあと未晴から聞かされた話を伝えた。

「偶然か、はたまた活動範囲が重なったままだったか……まあなんにしても、以上で仕事は終わり」

 資料は手早くまとめられ、書類用の封筒に全て仕舞われた。

 その封筒は公彦の前に置かれたが、彼自身、その封筒を再び開くことはないだろう。

 その理由がない限りは。

「あの、すみません……犯人達を捕まえる方法、何かありませんか?」

 場合によっては、公彦はアルバイトの商品に手を出すことも辞さない。

 そのつもりでの問いかけだったが、

「さっき言った通り……仕事は・・・もう・・終わり・・・だよ」

 クロと名乗った男は、公彦の覚悟を否定した。




「……もう犯人達は、二度と日の目を見ることはない」




 その言葉を公彦が理解したのは、翌日のニュースを萌佳から聞かされた後だった。

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