ひとつだけ、エゴ
屋上へ繋がる階段の終点に遮蔽物はない。
夜空の湛える微かな月明かりが慧を照らした。階段の最後の段差を前に、慧は空を仰ぐ。
昨日も聞いたローターの回転音が鼓膜を揺らす。その気になれば飛びたてるはずだが、回転音は一定のリズムを刻む。
状況を確かめるには、屋上に立つしかない。
両手に愛用の直刀を握る。千奈美との戦闘で気力を使い果たした彼に、宝典魔術に匹敵する〝解錠〟を発動できるだけの余力はない。
けれども、己の信じる結末に辿り着けることを疑おうともしなかった。
階段をのぼりきり、屋上に出る。
飛翔直前のヘリが放つ風圧に、青色の制服の裾が踊る。怯む様子もなく、彼は歩みを進める。
藤沢が待っていた。
フリーフロムの頭目はヘリに搭乗せず、転落防止の欄干さえない平坦な屋上の中央にいた。敢然と、階下より現れた慧を見据える。
瞬間、機体後部の扉が開いた。
開放された機内から、大口径機関銃の銃口が覗く。
ヘリが床を離れる。六つの銃口を束ねた機関銃が緩慢に回転する。しだいに加速し、破壊的な音に豹変する。
間一髪、咄嗟にのぼりきったばかりの階段を滑り降りる。
ローターの回転音を凌駕する銃声。あまりに激しく、小型の爆弾が秒間に数十発と炸裂しているように錯覚する。機関銃の猛攻は屋上を抉り、階段室の壁を削り取る。破砕された欠片が、慧の傍らを転げ落ちる。
乱射は数秒で収まった。
再び屋上に歩み出る。藤沢は同じ位置に立っていた。
「千奈美とは決着がついたか」
「逃げるつもりじゃなかったのか。あんなものを用意して、殺すためだけに使うとは贅沢だな」
「冗談がうまくなった。そんな安い代物ではないぞ」
「他の道もあっただろうに」
「道を見つけるだけなら難しくはない。選べるだけの余地がないだけだ」
堂々たる立ち姿ながらも、諦めた口調。藤沢は暗い空を見上げた。
彼の視線の先に、夜空に紛れ込んだ異物がある。慧も目で追いかける。
アジトの広場を掃射して、ヘリは高度をあげて大きく旋回する。ヘリが狙う本命の標的は、敵の総大将の状況を鑑みれば明白だ。
慧は胸ポケットからイヤホンマイクを取り出す。右耳に装着して、通信回線の先にいる相手に語りかける。
「見えているか、俊平」
《ああ。よく見えているよ》
「どうやら俺を狙うつもりらしい。頼まれてくれるか?」
《答えるまでもない。他でもない友人の頼みならね》
「言っておくが、余計な気遣いは無用だ。俺たちの標的は目の前にいる」
《もうひとりはどうなったんだい?》
「解決済みだ。こちらで合図を出す」
藤沢にも聞こえているはずの会話。だが彼は唇を結ぶだけ。黙して部下の搭乗するヘリを凝視する。
ヘリが旋回を終える。遥か上空から、
慧の立つ屋上に墜落するがごとく加速する。
五感の覚醒をしていない慧に、銃撃の予備動作を知る術はない。
音量のボリュームを一息に上げたように、ローターの回転音が急激に喧しさを増す。
「――やってくれ」
《了解》
ヘリから銃弾の豪雨。初めは慧から大きく外れていたが、無数の弾痕は地を這うように彼に寄る。
慧は号令を出すだけで微動しない。
当たるはずがないのだと、そう確信していたのだ。
不意に地表の森林から一筋の流れ星が発生し、雲間を貫く。暗闇に支配される地点から放たれたのは、橙色の閃光。比類なき燦然とした輝きが、銃声を撒き散らすヘリを貫通した。
最も警戒していた兵器の結末にしては、あまりに味気ない。
機体の爆発と共に、アジトに響いていた騒音がぴたりと止む。夜空に溶けていた怪物は巨大な火の玉と化し、不自然に傾いたまま落ちていった。
藤沢は部下の死に際を見守っていた。
敵の背中を眺める慧の耳に、協力者の報告が届く。
《第三六宝典魔術、カーネリアン・エッジ。カーネリアンの石言葉は勇気だ。君の夢を叶えるに相応しい流星といったところかな?》
「ああ、これで俺の目的は」
《なにいってるんだい上倉。君の願いはまだ叶っていないだろう?》
守るもの全てを失った男の後ろ姿に、慧は友人の言葉の意味を悟る。
「……そうだな」
呟くような返事。反応はないが、待つつもりもない。
ヘリが落下して黒煙を上げた後も、藤沢は硬直していた。機体が見えなくなってからは、残骸から立ちのぼる煙を眺める。
呆然自失の男に、慧は一歩近づいた。
「終わりだ、藤沢智弘」
暗に投降を促す言い方に、フリーフロムの最後の生き残りであり、頭目でもある男は振り返る。
慧にとっては親と同等なほど見飽きた顔。数日前に見たときより何年分も老けているように感じた。そのせいか、全てを失ったにも関わらず、藤沢の表情はどこか穏やかそうだった。満たされた者のソレといってもいい。
「慧、お前は死ぬことが恐いと思うか?」
「恐い。まだやらなくちゃいけないことが山のようにあるからな。それができなくなるのは、恐怖と表現するより他にない」
「俺も同じだった。たとえ秩序に背く行為でも、自分のやりたいようにやって生きてきた。だからかわからないが、俺はもう死ぬことが恐くない。どうせいつか死ぬのなら、終わり方としては悪くない」
「大勢の人を犠牲にしておいて……というのは、俺に許された台詞じゃないか。最後まで勝手な男だな」
「後悔することも少なくないが、全てが身から出た錆というのは気楽なものだ。存外、間違いだらけの人生でもなかったらしい」
「お前は、俺にその役目を――」
動揺する慧の隙を突くように、藤沢は着ていた作業着のポケットから素早く拳銃を引き抜く。
銃口は真っ直ぐに慧の額を捉える。
引き金に、指がかけられる。
「――銃をおろして」
凛々しい声が、慧の意識の外から割り込んだ。
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