過去の先へ

 千奈美は伏せていた顔をあげた。歯を食いしばる瞳には涙。舞い上がる水滴を前に、慧は直刀を握る手に力を込める。

 殺気に彼女はナイフを引き抜く。

 頭上に掲げた凶器を振り下ろす理由はひとつ。

 千奈美が直刀の間合いに入った。

 瞬間、彼女は前のめりに倒れるように踏み込んだ。鋭利な刃先が慧の身体の急所を捉える。


 それだけだった。

 相手を殺そうとしただけの気迫。殺そうとしただけの凶器。

 千奈美のナイフは彼の肉体を貫く寸前で静止した。

 凶器を握るだけで振りもしなかった男を、彼女は至近距離から見上げた。


「……私を殺すつもりじゃなかったの?」

「できるわけないだろ、そんなこと」

「じゃあ、私に殺させようとしたの?」

「それも違う。俺を選んでくれることに賭けたんだ。命ぐらい張らなきゃ報酬に見合わないだろ?」


 千奈美は唇をきつく結んだ。前のめりだった体勢を整える。

 彼女の手から、ナイフと拳銃がこぼれ落ちた。


「選んだわけじゃない。……けど、どちらかを選べなかった私の負けだ」

「――終わったんですね」


 他には誰もいないはずの広大な部屋に、淑やかな声が響く。

 階下を繋ぐ階段から、青色の制服を着た人物が鷹揚とした足取りで現れた。その長髪は梳ったばかりのように滑らかで、両手には身長より長い薙刀の柄を握る。

 窓から差し込む月明かりを浴びた鏡花は、心底嬉しそうな微笑みを浮かべていた。

 

 ◆

 

 背後から現れた鏡花に千奈美が振り向く。彼女は別段驚いたりはしなかった。

 慧はふたりが争う可能性を憂慮したが、千奈美は観念した様子で気だるそうにしている。剣呑な雰囲気は感じない。

 無気力なまま、千奈美は新たに現れた敵を眺めた。


「下にいた奴らはどうしたの?」

「片付けました。ほとんど吉永さん――私の仲間が倒したんですけどね」


 確かめるように慧は鏡花を見る。


「あの魔術師の傭兵連中もやったのか?」

「あの人たちは逃げました。ちょっと戦っただけで吉永さんの強さがわかったようです。流石に傭兵だけあって、実力を見極める能力が違いますね」

「そんな簡単に尻尾を巻いて逃げる奴らには見えなかったが、見かけではわかららんものだな」

「でも、全部がそうというわけでもないと思います」


 鏡花は千奈美に視線を注ぐ。幸せそうな顔を作る。


「な、なにその顔。わけがわからない」

「嬉しいんです。九条さんが上倉くんを選んでくれたので」

「……お前は、私がいないほうが都合いいんじゃない?」

「どうしてでしょう? 私はこういう結末を迎えることができて、心の底から良かったと思ってますよ?」


 首を傾げる鏡花。

 千奈美は渋面を浮かべた。目を逸らして、誰もいない方角を向く。


「というか、まだ終わってないってわかってる?」

「頭目の藤沢智弘が残っていますね。彼を放ってはおけません」


 当然のようにくるりと振り返り、鏡花は屋上に続く階段に向き合う。

 もはや気力が底をついたはずの千奈美が、残る活力を振り絞り立ち上がる。歩き出した鏡花を追い越し、彼女は階段の前を塞ぐ。


「ここを通すわけにはいかない」

「私としても、藤沢が私たちに敵対する以上は見逃せません」

「べつに、ボスと会わせたくないわけじゃない」

「どういうことでしょうか?」


 足を止めたふたりの後ろから、片手にだけ直刀を握った慧が歩み寄る。

 彼は全てを承知していた。千奈美の眼差しに、正面から応える。


「俺に行けと言うんだろ?」

「最初からそのつもりだったんでしょ?」

「そうだな。千奈美が鏡花を止めなかったら、俺がそうしていた」


 道を譲る千奈美。鏡花は構えていた薙刀をおろし、地面に突き立てた。


「無粋な真似をしてしまいました。たしかに、これは上倉くんの役目ですね。お身体は大丈夫ですか?」

「ケジメをつけるのに、体調を言い訳にはできん」

「やり遂げられるように、努力してきたんですよね?」

「真面目な奴だけが最後に笑えるってわけだ」


 口角をあげる慧。千奈美は目を伏せる。


「ぎこちない笑い方」

「慣れてないだけだ。こんな表情かおとは無縁の生活だったのでな」

「ボスはこの先にいる。だけど、彼だけじゃないよ」

「俺だってひとりじゃない」

「慧……信じていいよね?」


 縋るような瞳に、慧は藤沢が拾ってきたばかりの頃の彼女を思い出す。

 大人ばかりのフリーフロムで誰を信じていいかわからず、彼女は歳の近い男の子に今と同じように尋ねた。

 その結果がこうして繋がっている。

 ならば、答えに迷うはずもない。


「任せろ」


 千奈美は息を呑む。彼女の脳裏にも、いつかの風景が重なった。

 悠然と進む背中に、鏡花は慇懃いんぎんに頭を下げた。

 慧の胸の内側に、晴れやかな感情が広がる。

 自分の過去を清算するがため、彼は屋上に続く階段に足をかけた。

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