解錠
敵の姿は見えないが、慧は腰の両端にある直刀を引き抜く。
右を順手、左は逆手。心を鎮め、精神を研ぎ澄ます。
彼が守りたいと願うものを守るには、それ自身――彼が九条千奈美より強くなくてはならない。
本気で殺しにかかってくる
そのために必要な力を、慧は会得していた。
AMYサービスの襲撃をきっかけにしたのは、彼が弱かったからではない。
悠司に話したように、彼の得た能力は宝典魔術とは違う。
宝典魔術師になる条件は、未成年であり他人への強い願望を抱くことだと悠司は伝えた。
慧としても納得の理由だった。
事実、未成年であり千奈美を救いたいと強く願った慧のもとにも、過去に宝典魔術師になるチャンスが訪れていた。
ある日見た夢で、慧の身体は暗闇に浮遊していた。それは明晰夢のように、夢とは思えないくらいに意識がはっきりと覚醒していた。夢の世界で当惑する彼の前に、突如として緑色の粒子が集まった。
出現したのは一冊の本。
手に取れば、世界を滅ぼした絶大な力が手に入る。無意識にそう理解した。触れるだけで他者を圧倒する超越者となれる。その能力があれば、大抵のことは難なく解決できるのだと。
だから、慧は本を手に取らなかった。
しかたのないことだと悪事に加担している自分。間違っていると思いながらも藤沢に協力している自分。
せめてもの矜持として、宝典の力に頼りたくなかった。
他人から与えられるだけでは本質は変わらない。両親を犠牲にして生き残った慧は、父と母に恥じない生き方をしたかった。すぐには無理でも、いつか誇れるように生きたいと願った。楽な道は選びたくなかった。
まずは、腐った性根を叩き直さなければならない。
もしも無能力者が宝典魔術師を倒せるほどになれたら、どんなことでも遂げられる。誰かに影響されるばかりではなく、誰かに影響を与えられる。そう信じた。
彼は魔人の誘惑を断った翌日から鍛錬を始めた。それから八年間、一日も欠かさず鍛えあげた。
そして、手に入れた。
異常者を超えるには、自身も異常者になるしかない。
世界を混沌に陥れた魔人も、その魔人を倒した英雄も、元々は特別な能力のない凡人だった。
つまり、そういうことだ。
他人に頼らずとも、境地に至ることは不可能ではない。
慧は、神に最も近づいたと評される怪物と同等になる道を選んだ。
身体の正面で交差した手首。順手と逆手に持った二本の刃の剣尖が、天と地を睨む。
全身を循環する気流が、左腕と右腕を伝う。指先まで満たす。
「――
それは暗示。特定の言葉と構えを合図に、己の内側が塗り替わる。
視界が黒く染め上がる。瞬間、鮮烈に覚醒する意識。暗黒の世界が晴れ渡る。
慧の右側の瞳が、翡翠の色に変わっていた。
彼が人間として保有するあらゆる感覚が、壊れたように振り切った。
電気の通わない室内が、晴天の下であるかのように鮮明に映る。無論、暗視ゴーグルなど介していない。視力自体も異常だ。目に届く範囲なら、床に落ちている髪の毛ですら視認する。
沈黙を聴いていた耳が、微かな呼吸音を捉える。息を潜め、鼻で呼吸を繰り返す音。天井を二つ隔てた先が発信源だ。音量で距離を測り、方角を加味して推察する。それで敵の居場所は突き止めた。
人間に備わっている五感――視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の異常なまでの鋭敏化。それが鍛錬の末に手に入れた彼だけの異能。守りたいものを守り抜くために生み出した能力。
間違え続けてきた彼だが、その努力だけは恥じることなく胸を張れる。
「始めるか」
夕日の茜色が薄く差し込む薄闇。
慧の右目が怪しく光った。
◆
標的が三階にいることを慧は確認した。
確信ではなく確認。見えないモノは推測するしかないが、それとは違う。彼には待ち受ける敵が一人であることも、その場所もわかってしまう。
いくら気配を殺そうと生物は呼吸をする。生物でなくとも、例えば兵器なら熱を持つ。
常識であれば、そういった物体の鼓動は触れるか、触れられるくらい接近しなければ感じられない。ところが覚醒した慧は違う。同じ建物内であれば、見えずとも鮮明に感じられる。
まるで、建物全体のコンクリートが彼の肌であるかのよう。肌に虫が止まれば違和感を抱く。それと同じ。指先が何かに触れればわかるように、微弱な鼓動も建物を介して慧に伝達される。
目的の階に辿り着く。わざと靴音を鳴らして標的の元へ歩いた。
敵の鼓動が早くなる。呼吸音も荒くなる。
待ち受ける敵は近い。
伏兵からすれば、困惑するなというほうが無理な話だ。
三階建てかつ、各階には複数の部屋がある。なのに、潜伏先を探す侵入者には迷いがない。それも的中しているのだ。隠れている意味がないわけだが、バレた理由にも見当がつかない。潜伏先を知られたと確信できないから、下手に動くこともできない。
慧は敵の潜む部屋の手前で足を止めた。
部屋といってもドアはない。踏み出せば姿を晒すことになる。
そこは三階のなかでは最も広い部屋だった。元々が何に使われていたかは不明だが、身を隠せる作業台がいくつも置いてある。待ち伏せるなら悪くない場所だ。
慧は待つが、敵はしかけてこない。
廊下に手榴弾の一つでも投擲してくるのかと警戒した。けれども文字通り何事もない。となれば、部屋の入口に向けてライフルを構えているに違いなかった。敵が慧の登場を心待ちにしている様子が容易に想像できる。
――まったく、憐れな男だ。
相手は年上のはずだが、慧は壁の向こうにいる敵に過去の自分を重ねた。
「気を利かせてやれなくてすまんが、そこにいるのはわかっている」
「な、なに……ッ」
せめて黙っていればいいものを。伏兵は自らを
紛れもなく、慧が長年を共に過ごした男の声だった。聞き間違えるはずもない。
「阿久津だろ? こんなところに俺を呼び出して、昔話でもしたいのか?」
「……慧。お前が裏切らなければ、こんなことにはならなかった」
夕日が沈む。差し込む赤色が段々と薄くなり、暗闇が侵食する。
辺りは静寂。壁を隔てていても、阿久津の声がよく聞こえた。声色には負の感情が滲む。
「そうだな。俺は行動を起こした。俺より先にフリーフロムに入ったお前が、何もしなかったからな」
「俺たちは裏切るわけにはいかねぇんだよ。ボスに自分の正しさより、俺たちの命を選ばせちまったからにはな。決心した後で入ったてめぇにはわかんねぇだろうが」
「だからこうして対立している。目的のために手段を選ばなくなるとはな。手を切って正解だった」
「昼の爆破事件のことか? アレを俺がしたくてやったとでも思ってんのか?」
「些末なことだ。犠牲者からしたら動機なんてどうだっていい。結果が全てだ。許される殺人はない」
「てめぇだって大勢殺しただろうがッ!」
「もちろん、許されるつもりはない」
会話が途切れる。感覚が異常なほどに向上している慧には、阿久津の心拍数の変化が感じ取れた。
どんな質問をして、どんな返答をしたら動揺するか。検証して導き出した。
彼にはまだ、迷いがある。
迷えるだけの理性があるなら、まだ戻れる。
「阿久津、ここで俺と戦うか、投降して罪を償うか、どちらか選べ。いますぐに」
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