知っていれば
助手席の窓から駐車場を出入りする車を眺めていた鏡花が、突飛なことを言った。
慧は耳を疑った。
聞き間違えにしてはあまりに鮮明だった。訝しげに、ルームミラー越しに映る鏡花を窺う。
彼女は優しげな微笑みを浮かべていた。
「昨日初めて会った人間にいう言葉じゃないだろ。どういうつもりだ?」
「純粋にそう思っただけですよ。私は上倉くんが好きで、尊敬できる人だと思ったんです」
まったく説明になっていない。慧は思わずため息を漏らす。
「意味がわからんが、お前はそういう性格だったな。高評価してくれるのは嬉しいが、俺はどこにでもいる人殺しの大罪人だ。侮蔑をされども、賞賛されるような人間じゃない」
「でも、暗い過去と真面目に向き合って、人のために生きようとしていますよね?」
「そんなもの、口先で綺麗事を並べてるだけで、何をすべきかなんてわかっていない」
「いいんじゃないんですか? いま考えていることで」
「考えていること?」
「上倉くんは、九条さんを助けることを諦めてませんよね?」
不意打ちに、慧は両目を見開く。
鏡花には彼の反応を気にした様子はない。まるで昨日の晩ご飯が何だったか尋ねるくらいの気軽さで、慧に質問したのだった。
訊かれた側としては冷静でいられない。
言うまでもなく、その指摘が図星だったから。
当惑する彼の心境に、鏡花は気づかない。
「昨日は吉永さんや私たちから逃がすために嘘をついたんですよね? わかりましたよ、私は。九条さんが去ったあとの上倉くんの瞳は、屋上で私と出会ったときと同じ色をしていましたから」
またも助手席から振り返って、鏡花はにこやかに慧を見る。
ルームミラーに映りこむ後部座席に、ひどく動揺した顔の男が座っている。
頭が真っ白になり返答ができない。慧は黙したまま鏡花を見つめ返すしかできない。
ふと、鏡花は人差し指を顎に当てて首を傾げた。
「でも、どうして私たちの組織に入る必要があったんでしょう? 裏切るにしても、九条さんを置いていく理由がわかりません。初めから一緒にAMYサービスに入れば、それで解決するように思いますけど、違うのかな?」
心の底から不思議に思っているらしい瞳に解答を求められる。
慧としては、AMYサービスに居座るつもりはなかった。フリーフロムを潰して千奈美を説得さえできれば、それでいい。本心を伝える意味はない。目的を達成したら消えようと考えているのだから。
しかし、看破されるとは予想しなかった。
虚言を吐くか、真実を告げるか。どちらに益があるのか思案する。
――馬鹿馬鹿しい。
すぐに自己嫌悪に陥り、思考を放棄した。
隠せなかったのは自らの手落ちなのだ。知られてしまったのなら、しかたがない。
そもそも鏡花には、慧を仲間に加えたときのような得体の知れない本質を見抜く能力がある。偽っても騙しとおせるとは思えない。
慧はごまかすのを諦めた。観念して脱力すると、窓から駐車場を歩く人々の流れを眺めた。
「千奈美も誘ったんだ。組織を裏切り、終わらせようと。だが、断られた。フリーフロムというより、ボスである藤沢を裏切れないとな。もう二年も前の話だ」
「九条さんは、自分の命を救った藤沢智弘に恩義を感じているわけですね」
「恩義なら俺だって感じている。だとしても、間違っていると気づいてしまったら、もうついていけない。だから千奈美を説得して抜け出そうとしたが、拒まれた。聞かなかったことにするとまで言われてな」
「それでも、悪人として生きようとする彼女を救いたいんですか」
「千奈美だって好きで悪事をしてるわけじゃない。千奈美に限らず、好きで犯罪者の汚名を背負っているわけじゃない奴らは他にもいる。逆のほうが多いがな。ただ、そうしなければ生きられないから手を汚す。巨大な組織となったフリーフロムは、全員を食わせるには犯罪にでも手を染めなければ無理なんだ」
「他の誰かを犠牲にしてでも、ですか」
「もう平和な世のなかって時代じゃない。強くなければ、生きられない。誰だって死にたくないが、気合だけで生きられる甘い世界じゃないんだ」
鏡花は会話を続けなかった。監視の任務に戻ったと解釈した慧も、客の往来を注視する。
「もしも……」
鏡花は背を向けたまま声を発した。
「もう一度九条さんを説得して、それでもついていけないってなったら、上倉くんは彼女をどうするつもりですか?」
鋭い質問だった。暢気な性格をしているのに、妙に察しがいい。
慧も、彼女が訊いたことを何度も考えた。
それこそが彼の計画の抱える欠陥だった。
フリーフロムを壊滅できたとしても、千奈美を味方に引き込めなければ破綻する。確実に寝返ってくれる案でもあれば理想だが、そんなものは在り得ないというのが彼の結論だ。
実行したくはないが、千奈美が信用してくれなかった際の対策も慧は用意している。裏切りを決意した二年前から、その最悪の展開を何度も想像した。
もしも彼女が説得に応じず、フリーフロム壊滅後も敵対する道を選ぶなら、
「そのときは――」
回答しようとした瞬間、運転席のドアが開いた。
食欲をそそる匂いを振り撒く紙袋を両手に持った俊平が、座席についてドアを閉めた。
「どうやら敵は現れていないみたいだね。ん? ふたりはどうして向かい合っているのかな? 相談が必要なら僕も共有しておきたいね」
軽々しい物言いに、鏡花がかぶりを振った。
「違うの唐沢くん。上倉くんの話がとても楽しくて、つい聞き入っちゃってたんです」
「上倉が? それは残念だね。僕もその楽しい話とやらを聴きたかった。一応訊くけど、異状は発生していないんだね?」
「そうだな。どいつもこいつも平凡な顔をした連中ばかりだ」
「嘆くことではないさ。でも確かに、僕たちにとっては芳しくないね。日中のピークは過ぎたから、次に現れる可能性が高いのは夜か。目立ちたくないなら、人の多い時間帯を選ぶだろう。楽しい任務になりそうだね」
俊平は手にしていた紙袋から紙コップを取り出すと、ストローを刺して慧に手渡した。続けて丸まった包みを寄越す。
受け取った慧が包みの印字に目を落とすと、〝フィッシュバーガー〟と書いてある。ステーキが苦手だと言った彼に配慮したのだ。気が利く奴だと思うが、慧は〝ハンバーガー〟と書かれた包みを受け取る鏡花が少し羨ましかった。
これも身から出た錆か。慧は諦めて包みを広げ、一口目を頬張ろうとした。
そのとき、フロントガラスが白く光った気がした。
直後、空気が圧縮する爆発音。大型スーパーの一部から火柱が上がった。
黒煙をまとい、橙色がかった巨大な炎が風にゆらめく。店内にいた客は悲鳴を叫び逃げ惑う。駐車場にいた警備員は動揺した足取りで入口付近に集まり、無線で指示を仰ぐ。
禍々しい色が青空を侵食する。誰もが呆然と、その光景を眺めていた。車内にいた人々もドアを開け、驚愕に目を見張る。
混乱の最中、慧は視界の端に駐車場を出て行こうとする車両を見た。運転手の俊平に報告しようと口を開く。声を発する前に車は走りだした。
「天谷悠司の読みどおりか」
後部座席からの呟きに、表情を引き締めた鏡花が小さく首を振る。
「こんな大胆な犯行までは、予想していませんでしたよ」
「そうだね。あの人なら、知っていれば許さなかった」
声を荒げているわけではなかったが、慧はふたりの底知れない怒気を感じた。
この犯行に、千奈美は絡んでいるのか。
そうでないことを、慧は願わずにはいられなかった。
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