苦手な料理

 鏡花が食卓と案内した部屋には、机が一卓しかなかった。

 ただしその一卓は馬鹿馬鹿しいほどに長く、向かい合って三〇名は座れる大きさだ。椅子ももちろん三〇脚。しかし純白のテーブルクロスの敷かれた巨大な机を囲んでいたのは、奥のほうに座る数名の男女のみ。大半が空席だった。


「上倉くんの席はあちらです」


 鏡花が示したのも、人の密集している奥の席。慧としては座る位置にこだわる理由もない。言われるがまま先客たちに寄っていく。

 先客は三人いた。彼らの注目を浴びながら背もたれの長い椅子を引き、慧は腰をおろした。机に並べられていた夕食に目を落とす。


「これは……」


 彼は正式な名称は知らないが、とにかく華やかで豪勢な、飾り物にも見える様々な料理が食卓を彩っていた。目の前には一枚の取り皿があり、皿の両端にナイフとフォークが置かれている。

 慧が座るのを待ってから、隣に座る俊平が食事を再開した。


「車も人間も、燃料の質によって性能に顕著けんちょな差が生じると僕は考えている。人間にとって燃料とは食事。働かせるなら、質は高ければ高い方がいい。上倉、この家の燃料は最高さ。断言してもいい。ここの味を知ったら、外の食事では満足できなくなるよ」

「それほどか」

「それほどのシェフを何人も集めたらしいからね。おかげで、僕たちもすっかり舌が肥えてしまった」

「……そうか」


 与えられた料理の価値を知れば知るほどに、慧の食欲は失せた。

 それは理性による反応だ。

 彼の本能は、夢にまで見た豪勢な光景を前に抗いようもなく喉を鳴らす。

 物心ついた頃から、慧は粗末な食事を生きるためだけに摂ってきた。マナーなど厭わず、ただひたすらに貪りたいという欲求が荒波となって押し寄せる。


 その興奮を、冷静さを保つ理性が諭す。

 自分だけが贅沢して良いのか。


 ――〝彼女〟に対して申し訳ないと思わないのか?


「どうしたのよアンタ。食べないの?」


 向かい側にいた琴乃が、不機嫌そうに尋ねる。


「いや、そういうわけじゃないが……」

「世話の焼ける奴ね。こういうときは変に遠慮するほうが失礼ってわからない? わからないなら学びなさい。はいコレ。黙って食べなさい」


 琴乃は慧の取り皿を強引に奪い、頼んでもいないのに勝手に料理を盛った。

 彼女が選んだのは最も値が張りそうな、やたらと厚みのある焼き目のついた肉料理だ。


 ――ああ、そうか。きっとこれが、ステーキと呼ばれる料理なんだな。


 実物を見るのは初めてだったが、慧も存在は知っている。アジトで読んでいた多くの本で、大層美味であると語られていた。

 コレが幻の料理であると知るなり、彼の本能が耳の内側で誘惑を囁く。

 慧が人間である以上、食欲からは逃れられない。コレ以外に食料を与えられないのであれば、生きるためにはコレを口にするしかない。琴乃のいう礼儀上の理由ももっともだ。

 言い訳めいた決断には嫌気がさした。

 だが、盛られた料理に手をつけないのも不審だ。それを道理が通っている理由だと理性を説得して、慧は手にしたフォークを一口サイズに切られた肉に突き刺した。


 泡に触れたかのような軽い感触。フォークの先端が、すんなりと肉を捕まえる。

 少しの迷いに、手を止めた。

 ここにはいない彼女に、心中で断りをいれるための間だった。彼はフォークを口に運ぶ。

 口内に広がる未知の味を堪能する。飲み込むのも惜しいと感じて、何度も何度も繰り返し咀嚼する。溢れる旨味を舌先で感じ取る。


 生まれて初めて食べたステーキは、涙が出てしまいそうなくらいにうまかった。

 だからこそ、もう食べられない。

 慧はフォークを取り皿のふちに優しく置いた。


「すまないが口に合わない。実は肉料理は苦手なんだ。琴乃、せっかく取ってもらったんだが、残りは片付けてくれないか?」

「だから馴れ馴れしく……はぁ。まぁいいわ。あたしこそ、無理に食べさせちゃって悪かったわ。肉が嫌いだなんて、変わってるのね」

「……まぁな」


 残りのステーキを琴乃が回収すると、空になったばかりの皿に俊平が新たな料理をのせた。


「そういうことなら、このフィッシュフライを勧めよう。ステーキに比べると安価ではあるけどね」

「魚なら問題ない。頂こう」


 サクッと爽快な音を立てて、慧の口内に甘みのある油と肉厚な魚の味が広がった。それも充分に脳が狂喜する美味さだった。

 再び脳内で申し訳なさと遠慮の感情が入り乱れるが、野菜を除けばフィッシュフライより安そうな料理は見当たらない。慧はしかたなく、本当にしかたなく、若干の後ろめたさを背負い、今晩はその揚げ物で栄養を摂ることにした。

 ひたすらフィッシュフライと付け合せのポテトフライを食べ続ける慧を見て、対面に座るメイド服の鏡花が嬉しそうに顔をほころばせる。


「上倉くんはお魚が好物なんですね。昔からそうなんですか?」

「俺の生まれた家庭は貧乏でな。魚も肉も安物しか手に入らなかったが、同じ値段なら、どちらかといえば魚の方が美味かった。その頃の味覚だろうな。フリーフロムに入ってからは碌な食料を与えられず、食パンと豆とサプリメント、それと水ばかり飲んでいた」


 話した途端、食卓に流れる空気が重くなったことを慧は感じた。

 何か異状でも見つかったのか。慧は食事を中断して琴乃と俊平の顔色を窺う。

 ふたりとも彼を見ていた。瞳には一様に、色濃い憐憫が湛えられている。

 憐れむ眼差しを向けていた琴乃が、慧の取り皿を奪うように引き寄せた。フィッシュフライとポテトフライを山のように盛って彼に返す。下手に動かせば土砂崩れを起こしかねない揚げ物の山を見て、俊平はしきりに首肯した。


「どうせ余るくらいあるから、たくさん食べるといいわ。さっきも言ったけど、遠慮するのは失礼だから」

「吉永さんの言葉に従ったらいい。上倉、ここは君の生きてきた環境とは違う。好きなものをいくらでも食べられる。それが君の選んだ場所なのさ」

「よければ私の分もどうぞ」


 鏡花に至っては自分の皿を差し出してきた。端を齧っただけの、食べかけのフィッシュフライが一つだけのっていた。

 慧は困ったように小さく吐息をつく。


「勘違いしないでくれ。別に同情してほしいわけじゃない。俺のことを知ってもらおうと思って、過去の食生活について話しただけだ」


 重くなった空気を換気するために弁明したつもりの慧だが、どうにも意図した効果は得られない。食卓を囲む鏡花、俊平、琴乃の全員が、葬式の最中であるかのように俯いている。

 慧はさらに大きなため息をわざとらしくついた。受け取りを拒まれた皿に影を落とす鏡花を、彼は見据えた。


「ところで鏡花。お前はそんな格好をしているが、俺はお前をどう扱えばいいんだ?」

「それは、どういうことでしょうか?」

「メイドというんだろ? その格好をしてるなら、俺はお前をメイドとして扱うべきか? それとも、同じ会社の同僚として扱った方がいいのか?」


 鏡花は硬直を崩して、自分の取り皿を机に置いた。

 悩むように、彼女は下唇に人差し指を当てる。


「でしたら、私がメイド服を着ているときはメイド。制服を着ているときは同僚と思ってください」

「つまりメイドである間は、俺が命じれば身のまわりの世話を焼いてくれるという解釈でいいか?」

「はい。その代わり、メイドでいる間は上倉くんのことを御主人様と呼ばせてもらいます」


 純朴に微笑む鏡花を眺め、慧は彼女に『御主人様』と慕われる風景を想像する。

 あまりの異物感に、胃の奥から魚が滝登りしてきそうだ。


「キモいわね」


 端的に感想を呟いたのは琴乃だ。


「まぁそう言うな。鏡花も冗談で言ってるんだろ」

「アンタに言ってんのよ」

「俺に……?」


 それこそ冗談かと思ったが、琴乃は何も付け加えなかった。慧は琴乃の反応を見て、鏡花が本気で彼の要求を受け入れようとしている可能性に気づく。

 鏡花は裏表のない人間だ。だから嘘はつかない――というより〝つけない〟のだ。


「鏡花、いまのは無しだ。聞かなかったことにしてくれ」

「はい。わかりました」


 本当に『御主人様』などと全身が粟立つ呼び方をされては、邸宅内で落ち着ける時間が無くなりかねない。

 念をいれた慧の要求に機械のような返事をして、鏡花は食事を再開した。

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