ライアー、花をちょうだい

雨傘ヒョウゴ

プロローグ。そしてエピローグ

 

 私のことを、様々な悪さをしでかした悪の塊のような花であったと言う人は、きっとたくさんいるのだろう。けれどもこうして窓の枠に肘をついて、格子越しに空を見上げるようになると、そんな噂はてんで耳に入らなくって、人の話し声すらもきいた覚えがない。時折高く飛びすぎた鳥達が羽休めに軽やかに足を置いて、ゆっくりと飛び立ち去っていく。


 いつしか雲が流れ、雨が降って、かじかむような冷たさに指先を震わせてただただ窓の外を見つめた。それくらいしかすることがなかったのだ。出てくる食事は硬いパンと水ばかりだったけれど、それでも両手を合わせて、日々の糧に感謝を祈った。


 刻まれていく月日を数えることはもうやめた。名前すらも呼ばれることがなかったから、ふとしたときに忘れてしまいそうになる。ただ細く小さな隙間から、すっとさしこまれる食事だけが私にとっての鳩時計だ。



「神の思し召しに、感謝を」


 そう呟いてから、パンを水にひたしてゆっくりと引きちぎった。おいしい、と言うには難しいけれど、固さが空腹を和らげてくれる。咀嚼を繰り返して、こくりと一つ飲み込んだとき、「なあ、あんた」 男の声がきこえた。今日は、立ち去る音が聞こえないので、不思議に思っていたのだ。「どちらさま?」 わかっていながら、おっとりと問いかけてみた。彼は顔も見たことがないけれど、私の世話役で、城の兵士に違いない。私が逃げ出さないようにとする監視役なのだろう。


「誰でもいいよ。なあ、あんた。こんなとこに閉じ込められるなんて、一体何をやらかしたんだ? 毎日毎日食事を運んで、生きているか確認して。まったくもって、暇で仕方がねえ」

「ふふふ」


 思わず笑ってしまったことには他意はない。ただ、以前の私の周囲にはあまりいなかった口調だと思っただけだ。すっかりと違う環境になってしまったことを改めて感じて、なんだか面白くなってしまった。そうして口元を押さえて、壁越しで顔も見えない相手に笑って、返事もせずにひどく失礼なことをしていると感じたとき、首を振った。そうしたあとで、向こうには見えやしないと気づいて、ごめんなさい、と謝った。


「何も」

「なにも?」


 不可解な声だ。私の答えにかぶせるように彼は声をのせた。「何も、していないわ」 てっきり周囲には私の悪事が花のように咲き誇っていると思っていたのに。もしかすると、王子やその婚約者達はあまりにもことを大きくして、彼らの行いが露見してしまうことを恐れたのかもしれない。あの日、学園のダンスホールで私を断罪した彼らは、ひどく楽しげに笑っていたのに。「そんなわけないだろ」 不満げな声だ。


 なにかしたというのなら、不器用すぎたというところだろうか。私を蹴落とそうと画策する彼らに対して、うまく立ち回ることができなかった。そうして様々な知りもしない罪と責任をかぶって、こうやって閉じ込められることになったのだけれど、それを彼に伝えたところで仕方がない。「ごめんなさいね」 そう言って返答した自分に笑ってしまった。


「なんで笑ってるんだよ」

「だって、私がごめんなさいって」


 貴族たるもの、やすやすと頭を下げてはいけないと。自身の非を認めてもいけないと、そうお父様は言っていた。正しい貴族になるべしと厳しくしつけられてきたというのに。なのに今の自分の口調を、案外嫌に思っていない自分にも気づいて、からからと声をあげて、こんな笑い声を上げるのも初めてだと知ったのだ。


 何を言っているんだと訝しげな声が聞こえるのに、それが少しおもしろかった。格子のある窓が一つと、開きもしない重たい扉のその下に、食べ物を入れる薄く細い隙間があるくらいの、夜は冷えるし床は硬くてたまらないその場所の中で、私は残りの人生を過ごした。お節介の兵士の小言のような言葉をきいて、時折空を見上げた。神様。今日も良き日ですよ。




 ***





「と、いう物語が、私の前世なんですけどねぇ」

「あんた絶対、他のクラスのやつに言うんじゃないぞ。やべえからなそれ」



 果たしてどこまでかっとべるか。限界に挑んだブランコをぶんぶん揺らしつつもクラスメートの男子に話してみた。いやもうね。この話は私の中のキングオブザ秘密であって、一生人に言うわけもなくひっそり胸にしまいこんで生きていこうと思っていたはずなのにこれですよ。ところで前世の私は巨乳だったのだけれども、今世も期待していいのだろうか。無理だろうか。


 なんやらの補正がかかっていないかなと無心にブランコを揺らす私の隣では、どこかタレ目がちな少年が呆れたようなため息をついている。こちらはおざなりに鎖を握っていて、クラスではときおり話す程度の、大してそこまで仲良くもない少年だったのだけれども、入学式のその日、彼の顔を見たときに、すぐにわかった。お節介な兵士さんだ。こんにちは、と声をかけると、眠たげだった彼の顔は、そのときばかりはパチリと目を見開いていたのに、数秒後にはあくびをされた。そんな仕草も、きっと“彼らしい”んだろう、と顔を見たこともない相手なのに、勝手にそう思ったのだ。


「ちなみに隣のクラスの噂の人たちは、私を陥れた張本人たちですよ」

「あの馬鹿なことしでかしたやつらかよ?」


 設定がこみいりすぎだろ! と話半分にききながらもきちんとツッコミを入れてくれる彼が好きだ。うふうふニコニコしつつ、こんな日が来るなんて、と今度はゆっくりとブランコをこいでみた。それから鎖をにぎって、後ろに倒れた。「うわっ! なにやってんだよ。お姫様」 びっくりした彼の声がきこえる。


「楽しいなって」


 真っ青な空が見える。ゆっくり流れる一面の雲がふわふわとしていて、あの部屋の、切り取られた窓とは違う。あの場所も、あの場所で好きだったけど。「でも、私が弱すぎたんですよね。だからすぐに死んでしまったんだけど」 その続きがあるとは、思ってもみなかった。でも、やっぱり続きではない。今の場所は、今の場所で、昔とは違うのだから。それでも、また出会うことができてよかったと、そう神様に感謝した。


「あっ、でも私、お姫様じゃないですよ。公爵令嬢ではありますけど、そこはお姫様とは違いますから」

「同じだろ。俺にとっちゃ全部おなじ。いいだろ、お姫様で」

「よくないですったら!」






 ***






「よくないですったら!」


 俺のお姫様がぷっくりと頬を膨らませている。いつの間に、こんなに世間ずれしてしまったのか。これじゃあただの女の子だろ、と思ったあとで、ただの女の子だったと思い出した。あの神様に祈って、ことあるごとに感謝を告げたあの少女はもういなくて、いつのまにか俺もこんななりになってしまった。


 ライアー、なあ、お前、あの悪花のところに、飯を届けてやってくれ。


 そう呼ばれたのは記憶の中の前世の名だ。悪花と呼ばれる女は、何でも王子とその婚約者に無礼を働いたとか、そんな噂をきいたが、王子たちがさっさと忘れてしまいたいのか、城では彼女の名前を言うことも許されなかった。閉ざされた扉の向こう側にいる女の顔を見ることもできないけれど、時折聞こえる鳥のような歌声があんまりにも綺麗だったから、きっと毒のような美しい女なのだと誰かが言い始めた呼び名だった。まあ、不便で仕方なかったから、適当なあだ名が欲しかったのだ。



 はじめこそは悪花と呼ばれる女の部屋に飯を届けて、聞こえるかすかな音に耳をすませた。万一死んでいたときは、一番に報告をしなければならない。臭くなってはかなわないからだ。『神の思し召しに、感謝を』 悪花は、まいどまいど、そう呟いてまずいパンを食っていた。こんなところに閉じ込められて感謝もクソもないだろうと、幾度目かの声をきいたとき、気づけば声をかけていた。それから少しずつ、彼女と話すようになった。


 何もしていないと言う悪花は、自身の弱さを語った。それは今もとつぶやく彼女は、日に日に声を弱らせていた。そんな彼女を叱咤して、声をかけて、明日もあんたは元気に違いないと自身に言い聞かせるように叫んだ。顔も見たこともない女なのに。


 食事を届けることが怖かった。もし、悪花の声が聞こえなくなっていたら。今日が最後の会話だったら。人から仕事を取り上げてでも、バカみたいに高い塔を登って食事を届けた。ありがたいことにも、足腰が強靭になるばかりの高すぎる階段を好んで求める同僚も少なかった。


 ふとしたとき、彼女の顔を見たいと、そう願う自身に気づいた。重たい扉の鍵は、いつも腰元に揺れている。この鍵束の中の、一本の鍵を扉に差し込むだけで、彼女と顔をあわせることができる。そう思うのに、様々な恐怖が足を重たくさせた。自身の責務よりも、それよりもずっと重たいなにかが胸の奥にあるような気がした。


 そう思う俺に気づいたのか、たまたまなのか、悪花は俺に問いかけた。「あなたは一体、どんな顔をしているの?」 鏡なんてあまり見たこともないから自分の頬を触りながら考えた。



「人からは、眠そうな顔をしていると言われる」

「あら、私は性格が悪そうな、きつい顔をしていると言われたことがあるわ」

「どんな顔だよ」

「ねえ身長は?」

「背は普通かな。高くはない」

「私は女性にしてはちょっと高いわね。あなたよりも高いかも」

「それはないだろ。力はある。これは自慢だ」

「私は全然よ。むしろそんなもの、ないほうがいいと言われてきたもの」



 どこのお嬢様だ、と言おうとして、それ以上はやめた。お前は一体何をしたんだと聞いたその日、彼女があんまり苦しそうに謝って、けれども楽しそうに笑ったから素性がわかることを問いかけることは避けていた。「ねえ、あなたはどんな手をしているの?」 力が強い手って、どんな手? そう聞かれたときに、細い隙間に目をやった。いつもは食事を運んで、入れるだけの空間だ。そのとき、なぜそんなことをしたのか今でもわからない。


「見てみればいいだろ」


 ほら、手を伸ばそうとしたけれど、俺の手はどうにもごつごつしていて、入りづらい。扉の向こうで、息を飲む音がきこえた。しまった、と引っ張り出したとき、「待って」と小さな声がきこえた。ほっそりとした白い指が、こちらを追って覗かせていた。彼女の指だ。細くて、折れてしまいそうな、気の毒にも思える小さな手だった。彼女も自分の行動にびっくりしたのか、すぐにその指もひっこんだ。でも、次に互いに恐る恐ると近づけたとき、彼女の指に手のひらを重ねていた。びっくりするくらい冷たいことが妙に胸に残って、そのくせこちらの指先は熱くて、心臓が苦しいくらいに跳ね上がった。声なんて出なかった。

 逃げるように去ったその日、馬鹿みたいに顔が熱くて、人に顔を合わせることもできなかった。



 そのとき、俺は彼女の名を聞かなかったことを後悔した。彼女は弱かったのだ。心はきっと弱くなんてなかった。けれども体はだめだった。食事を届けたある日、彼女の声が聞こえないことに気づいたとき、嫌なくらいに心臓が静かだったのに、指先が震えていた。鍵束の中から鍵を探す自分の指が震えて、簡単な鍵穴でさえもひっかかりもしなくて、やっとこさ両手でささえて鍵を回した。言葉にもならない悲鳴が口から漏れていた。


 性格が悪そうな、なんて嘘じゃないか。可愛い顔をしているのに。抱き上げた体はやせっぽっちで、軽くて、折れてしまいそうで、あだ名に似合いもしない女だった。じゃあじゃあと雨が降っているのかと思ったら、自分の声が、バカみたいに溢れているだけだった。あんなにこいつは神様に祈っていたのに。感謝の言葉を告げていたのに。なんでなんだと。


 何もかも、遅かったのだ。




 もし神様というものがいるのなら、どうか彼女に幸せを与えてほしい。そんなことを祈ることすらも、許されないはずだと思っていたのに、俺のお姫様は力いっぱいにブランコをこいで、どうやら少々お転婆になったらしい。自分の記憶の過去を語る姿を見ながら、素知らぬフリをした。どうかこんな、冴えない嘘つきな兵士のことは忘れてしまって、明るく前を向いてほしい。だからどうか。



(今度こそ、誰にも邪魔されることなく、生きてくれ)


 君にとっての王子様と、いつかどこかで出会いますように。










 これはまだ、彼らが互いを知らない話。

 まだ物語は始まらない。



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