峠越え


 早朝の空気は冷たく、草葉には露が降りていた。くたびれたトレッキングシューズの具合を確認し、峠道に踏み入ろうとすると朝日の輝きで化粧した草が道を塞ぐように繁っていて、避けようにも、どうしようもなくズボンを濡らした。


「ここも刈らなければならないか」


 来週くらいにケンさんを誘って来よう——。

 思ったよりも大きな声が出て驚き、尻すぼみに独り言を言い終えた。独り言を言うのは熊が恐ろしいからで、一人の寂しさを紛らわすためじゃない。

 今日、一人で峠に来たのは峠道のパトロールのためであって、何か問題があれば何人か誘ってまた来ることになる。道路が、トンネルが整備されて峠道を通る人が減り、すっかり寂れてしまったとはいえ、この峠道は大切な生活道路なのだ。


 ——おれが若い頃は人の行き来も盛んで野生動物の心配などせずに済んだのに。


 リュックサックにぶら下げた鈴が一歩ごとにチリチリと音を鳴らす。ポケットラジオの音量を上げると、ちょうど天気予報が流れていた。


「——、晴天となるでしょう」


 落ち着いた声のラジオパーソナリティの言葉のとおり、空を見上げると木々の隙間から吸い込まれそうなほどの青空が見えた。天は高く、薄く刷いた白い雲筋が途切れ途切れに浮かんでいた。


 ——このパトロールだって、以前は一人で来ることなんかなかった。運動も兼ねて、と言ってみんなで集まることが数少ない楽しみだった。

 足が悪い。腰が悪い。病気があって遠方の医者にかからなければ。入院するからしばらく行けない。

 どんどん集まりが悪くなっていった。


 ——もう、こんな道いいじゃないか。誰も通らんよ。みな若くないんだ、ここいらがやめ時さ。


 気がつくと、視線は足下に落ちていた。パトロールのはずなのに。

 周りを見渡すと、峠の頂上まであと少しといった所で、坂の向こうに東屋の屋根が見えた。確か東屋には椅子があったはずだ。

 太陽は中天に昇っている。ズボンはすっかり乾いていた。


 東屋についてすぐ荷物を下ろす。リュックサックから水筒と、小さなおにぎりをふたつ取り出した。お茶は常温程度に保たれていて、口から喉、胃へと違和感なく流れていった。

 

 昼食を食べながら、東屋からの景色を一望する。

 思わず息が漏れた。


 天高く、眼下には古さを残した街並みと、田んぼが広がり、収穫を待つ稲が風に揺れている。風の行き先を追い、顔を上げると遠く山々が連なっている。風の果てでは稜線が空と溶け合っていた。


 びゅう、と風が吹き抜けるたびに、ざあざあ、と草葉の音が響く。ラジオの音はすっかり聞こえなくなっていた。


「確か、押し入れにカメラがあったはずだ」


 おにぎりの最後の一口をお茶で流し込んだ。

 真下にあった影は後ろに伸び始めている。

 あとは降るだけだ。

   


 

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