逆襲のシシャ28
かくしてリャンバとエシファンとで交わされた密約により両国間での交易が行われる事が取り決められたのだった。とはいっても誓約書などが書かれたわけでもないし、エシファンの代表とやり取りしたわけでもないのだから、やろうと思えばいくらで反故にする事が可能であり、強制力のきょの字もない約定にどれだけの効果が期待できるのかというのは未知数のところであった。
だが、キシトアもバンナイ、もといハンナの間には硬い絆と結束が生じているのは確かなようで、キシトアがエシファン滞在中、ハンナはそれはもう甲斐甲斐しく世話を焼いていたのであった(ハンナはわざわざ休暇を取ってリューイに留まった)。それに対して国家統治本部の長であるシュンスィに幾らか苦言を呈されていたのだが、ハンナはムカーム将軍にキシトアの為人を伝えるためであると丸め込んでしまった。随分と強かなものである。ちなみに結婚条件として出したキシトアとの結婚についてはお互いよき機会にという事でまとまった。社会情勢を鑑みてハンナが弁えたのである。健気ではないか。これにはキシトアも同情的な感情と罪悪感を催したようで、「すまない」と心底申し訳なさそうに述べていた。
それにしてもキシトアにとってこの外遊は大成功といっていいだろう。目的は達成ほぼ達成。エシファンとの今後の関係性の強化と貿易の約束。そして対ドーガへの意識共有と賛同。ハンナとの交渉はそれら全てを内包したものであり、成果としては上々ともいえる。
しかし、これだけでは足りない。まだ不足している点がある。
ドーガ。いや、ムカームという強大な存在を相手にするには未だカードの数が少ない。エシファンとの契約が無事守られたとしても、それだけでは今まで通り負けない戦いをする外なく自身から攻める事ができない状態。より優位に立つには、もっと手早く、かつ
「おい」
「はい。なんでございましょうか」
キシトアの呼びかけに対して怪訝な表情をしてワザッタが答える。これまで散々こき使われてきたのだから嫌な顔の一つもするだろう。
「ちょっと付き合え」
「はぁ……それはいいですが、いったいどこへ」
「散歩だ」
「こんな夜分にですか? 雨も降ってますし、今日は止めた方が……」
「こんな夜だからいいのだ。いいから付き合え。あぁ傘はいらんぞ。レインコートで行くのだ。雨の中、何も持たずに水に打たれるのも趣があるからな」
「はぁ……」
ワザッタは再び嫌そうな顔をしたがキシトアはそれをあえて無視して連れ出した。リューイの雨は冷たく、風も強い。いくらレインコートがあるといっても軍用品でもなければ浸水は防げない。このような日に傘もなく外へ出る者など余程の変人かキグルイだけだろうし、端から見れば間違いなく眉を顰められる。国家の要人である二人が行うべきものではないが。だからこそ、キシトアは決行したのである。
「いやはや寒い。酒を飲んでくるべきだしたかな」
「いや、今日は酒はなしだ」
「……何かございましたか? そういえば、パーティーの際もお酒はお飲みになっていられなかったような」
「あぁ。酒が入るとどうにも羽目を外してしまいがちだからな。話をすべき時はなるべく飲まないようにしている」
「左様でございますか……という事は、私に何かお話しが?」
「そうとも。大切な話だ」
「だからこんな雨の日に……」
「そうだ」
雨風の音で声は遮断される。潜めればなお聞き取る事は困難となるだろう。二人の会話は、キシトアを監視している人間達の耳に入る事はない。
「単刀直入に言う。貴様、リャンバと貿易をしろ。時が来たらリャンバの商品を買い、エシファンの商品を売れ」
「……それは、ムカーム将軍の許可がなければ」
「交渉はする。しかし、駄目でもやってくれないか。如何にムカームが実質的な権限を握っているとしても、実際に事に及ぶのは貴様だ。できない事はないだろう」
キシトアはエシファンの経済と市場の中心を握っているワザッタを引き入れる腹積もりであった。それは、ハンナとの契約が実行されなかった際の保険ともなるし、成功すればより強力な影響力を得る事ができるからである。
「それはちょっと……」
「……貴様は、ムカームが行ってきた事を、どう思う?」
「立派であり、尊敬もできると」
「国を滅ぼし、支配し、略奪し、多くの人間を苦しめてきた所業に対して、貴様は本当にそう思うのか?」
「……」
「貴様の立場は分かる。しかし、貴様という人間に覇道は向いていない。これまで貴様の行動や人付き合いを見てきたが、他者から搾取し、不幸の上に立つような人間ではない。血に塗れた道を征くのは止めろ」
それはキシトアの本心であっただろう。彼はワザッタを顎で使いながらも彼の尊厳を尊重し認めてきた。彼の行いに対して、幾らか感心していたのも見ていて分かった。
「しかし、こればかりは何とも……私はあくまでムカーム将軍に仕える人間に過ぎませんので……」
「何故そうまでムカームに肩入れする。もし何かあれば、リャンバの全てをもって貴様を保護する。地位と金も約束しよう。それでは不足か?」
「……確かに私とて、ムカーム将軍の全てを崇拝しているわけではございません。しかし、私の故郷はドーガなのです。それを捨てて自らの栄進を望みたいとは思いません。ドーガの支配者がムカーム将軍である以上、私は故郷のために、ムカーム将軍に尽くさなければならないのです」
ワザッタの言葉は雨に染まっていた。悲壮な告白は彼の持つ人間性の根幹を表したものであり、また、今の立場を明確に示したものであった。
「そうか。なるほど分かった。無理強いはしない」
それに対してキシトアは直ぐに手を引く決断をした。ワザッタの意思が変わらないと判断したのだろうが、それ以上に、個人的な感情が大きく作用したように俺は思う。
「だが、もしムカームが許したのであれば、その時は……」
「はい。是非とも協力させていただきます」
その後、雨の日の散歩は続いたが二人とも言葉を交わさず、響く夜の音に耳を澄した。キシトアがコニコに渡ったのは、その数日先の事である。
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