数日が過ぎ、月夜の晩。

 白月と星明かりが辺りを薄ぼんやりと照らす。


 普段は闇に紛れるために濃紺色の忍び服を身に纏う彼らだが、このように月が空に浮かぶ日は目立たぬように衣の色を柿渋色に変えている。


 さらに、足音を消す目的で足袋の底に敷き詰めた綿の具合をみるために、軽く飛び跳ねてみる。衝撃も吸収してくれる上に、足音もない。上出来である。


 上半身を捻ったり、前後に体をそらして屈伸運動をする左近と与一に、伝左衛門が腕を組んだまま、じろりと視線をやった。



「いいか? やり過ぎるのだけはやめろ」

「はぁい」

「分かってます。毎度毎度くどいですよ」

「……毎度毎度、そう言っておきながら分かってないのは一体どこのどいつだっ!」



 ぴしゃりと落ちる伝左衛門の雷に、左近と与一はまた始まったと、お決まりの左耳から右耳戦法に打って出た。



 それから一刻が過ぎた頃。

 山中では部之竹の六人が夜営を組んでいた。


 今回、部之竹が行なっている山中耐久訓練とは、哨戒任務中の八咫烏の監視のもと、文字通り山中において長期間隠れ忍んでいなければならなくなった時のための訓練である。

 その訓練内容の中には、野外での調理はもちろん、夜襲を想定した不寝番の実施など、忍びの技とは直接的には関係のない事も含まれている。


 さらに、今回は実施する場所を分け、部之松や部之梅も同時にこの訓練を行っていた。


 採ってきた木の実や兵糧丸を食べ終わり、皆が一息ついていた時だった。



「……ん?」



 瀧右衛門の耳に、微かだが悲鳴にも聞こえる声が届いた。



「どうした、瀧」

「あ、いや。今、悲鳴が聞こえてきたような」

「部之松か部之梅の連中か?」

「分からない。ちょっと様子を見に行ってもいいかな?」

「待て、俺達も行く」

「うん」



 夜営地を空にするわけにも行かないので、三人が残り、瀧右衛門と残り二人が向かうことになった。


 必要最小限の荷物でと言われているため、あまり量はないが、傷薬も用意してある。


 使わなくて済むのが一番だが、必要とされる事態になっていた時のため、瀧右衛門は走る速さを緩めることはしなかった。


 勘ではあるが、悲鳴が聞こえた辺りに到着した三人は辺りを見渡す。

 暗がりには目も慣れたとはいえ、誰もいないし、そのような気配もない。



「ここら辺だったと思うんだけど」

「誰もいなさそうだな」

「うーん。気のせいだったみたい。夜営地に戻ろう」

「あぁ」



 瀧右衛門達が踵を返し、元来た道を戻ろうとした時。


 かさり、と。葉擦れの音が小さく鳴った。


 三人は一瞬互いに目配せし合い、そちらへさっと目を向ける。



「……侵入者?」

「しっ!」



 半蔵が、音がした方に落ちていた小石を投げつけた。



「そこにいるのは誰だっ!」



 返事はない。


 ようく目を凝らしてみると、茂みの下辺りにぽつんと市松人形のようなものが立っていた。



「……人形?」

「瀧、待てっ」

「え?」



 近寄って手に取ろうとする瀧右衛門の肩を強く引き戻し、半蔵は代わりに前に出た。その手には手甲に忍ばせておいた棒手裏剣が握られている。



「なんでこんな所に人形が置いてあるのか、考えてもみろ」

「どう考えても怪しいだろ。左近先輩の罠かも……」



 因幡いなばも同じように脚絆きゃはんの中に忍ばせておいたものを取り出した。


 警戒度が時間と共に増していく中。


 かたり。何かが動く音がした。


 そして、次の瞬間。


 カタカタカタカタカタカタカタ


 人形の首が前後に揺れ始めた上に、こちらに向かって滑り寄ってくる。



「「……っ!」」



 あまりの衝撃に声も出ず、三人はすぐに回れ右をしてその場から逃げ去った。


 走る間にも、先ほど見た光景が頭から離れない。



「いやいやいやいやっ! なに!? あれ、なに!」

「にんぎょ、うごっ!」

「口より足を動かせっ!」



 半蔵の激に、二人もそれから口をつぐんで言われた通り足だけ動かすことに専念した。


 そして、彼らが逃げ去った後の場に残った人形。もう動いてはおらず、首も元の位置に戻っている。


 その人形を拾い上げたのは、もちろん左近であった。隣には与一もいる。



「人形が動き出した瞬間に声を出さない分、忍びとしては厳太夫達よりもましかな。ま、及第点ってとこで」

「りょーかい。三人分っと」



 瀧右衛門達の名が書かれた紙に、与一がそれぞれの名の上に丸をつける。


 こうやって雛達を試験的に見ることで、伝左衛門達、師側の協力も取り付けることができた。



「あいつらの時はほんと、君ら将来何になるか分かってる?ってくらい絶叫して逃げ回ってたからねー」

「あれは絵に残しておきたいくらい傑作だったよね」

「ほんとほんとー。……それじゃあ、次にー」

「行きますか」

「行きましょー」



 人形が滑りやすくするため、整地した場所は他にもいくつかある。やり始めた以上、全員完了が求められる。


 部之竹の残りは一旦置いておいて、次に目星をつけられた帯刀達のいる部之松の夜営地近くへと、二人は笑みを浮かべながら走っていった。



 その頃。

 逃走した三人は、先程の地点から少し離れた所で息を整えていた。



「はぁはぁはぁ。もう、ここまで来ればっ」

「……うん、大丈夫。もう追って来てはないみたい」

「まったく! あれ、絶対、左近先輩の絡繰りだろ! ほんと迷惑極まりない人だな!」



 恐怖が怒りに変わり、因幡はそう吐き捨てる。


 最近、以之梅の事で付き合わされることが多い瀧右衛門は苦笑いを浮かべ、まぁまぁと宥めた。



「そろそろ戻るか。えっと、夜営地は……あっちだ」

「あぁ。だいぶ離れちまったな」

「早く戻らないと皆心配するよね」



 三人がそちらへ向かおうとすると、横から声をかけられた。



「もし、もし」

「……え?」



 石段からは外れた山道となっているけれど、通れないこともない。


 感じた違和感の正体に気づかぬまま、三人はその声の持ち主である女と向き合った。



「こちらで今宵こよい、よい食材が大量に入るとお聞きしました。申し訳ないのですが、少々分けていただけないでしょうか」

「えっと……ごめんなさい。何の話だか」



 女の言う話にはもちろん皆覚えがなく、瀧右衛門自身とて食べたのは木の実と兵糧丸だけである。


 すると、ふと、因幡が女の足元へと目を向け、途端に顔から血の気をなくした。



「お、おい……」

「ん?」



 瀧右衛門と半蔵は、何かに釘付けになっている因幡の視線の先を追いかける。


 女の足元には、本来あるべきはずのものがなかった。



「「……」」

「どうかなさいましたか?」

「い、いえっ」

「すみません。私達はこれで失礼します」

「あら」



 踵を返そうとする瀧右衛門達に、女は急に顔を近づけ――。



「……気づいたか」



 女は、まるで地の底から響いてくるような低い声を出した。


 その後は死に物狂いだった。三人は先程の比ではない程に全速力で地を駆けた。

 途中、何度も足がもつれそうになるのを、自前の運動神経でなんとか体勢を整える。


 もう少しで追いつかれる。そう半ば覚悟した時だった。



「こちらへ」



 女の声とも違う声が横道から聞こえてきた。

 この極限状態の最中、瀧右衛門達にとって、声の主が誰かなんてどうでも良いことだった。


 とにかくその声に導かれるがまま、導かれるように山道を進む。


 すると、今は亡き八咫烏達が数多く眠る高台へと出た。



「あな、口惜し。ここへは入れぬ。口惜しや……口惜しや……」



 後ろから聞こえてきた声に、恐る恐る三人が振り返ると、髪の毛を逆立てた女がこちらを睨み付けている。かと思えば、ずりずりと後退していき、そのまま姿を消した。



「た、助かった、のか?」

「たぶん」

「なぁ、さっき、こちらへって声、聞こえたよな?」

「うん」

「聞き覚え、あったか?」

「僕はない。ある?」

「いや」



 三人とも知らない者の声。

 しかし、何者かは分からないけれど、あの声のおかげで助かったのは事実である。


 気づけば皆、へなへなと体の力が抜け落ち、地面に座り込んでいた。


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