満開であった桜が散り、葉桜へと変わった、とある日の昼下がり。

 左近は大陸から伝来した『孫子』など武経七書と呼ばれる兵法書を簡単につまんで子供達に教えていた。


 ただでさえ昼飯後の眠い時間。先程から船をいでいる三郎をそろそろ起こすべきかと時期を見計らっていると、廊下の向こうから誰かが駆けてくる気配がする。言葉を続けつつ、部屋の隅に座る隼人へ視線を寄越した。それに無言で応えた隼人は静かに立ち上がり、部屋の戸の方へ歩み寄る。



「失礼します!」



 隼人が戸を開けるのと、向こうから声をかけつつ開けてこようとするのはほぼ同時であった。


 その闖入者ちんにゅうしゃが戸を開けてすぐ近くに立っていた隼人に驚いたのが、寸の間詰まった息遣いで分かった。座っている位置からは顔が見えないが、左近は声で八咫烏の後輩の一人だろうと見当をつけた。

 しかし、それができない子供達は身体を反らし、隼人の背が邪魔となって見えない訪問者の正体を見極めようとしている。



「……あ、その。急に乱入してすまない」



 息を切らしてはいないものの若干の焦りが見えた表情は、子供達の顔を見て、すっと押し隠される。



「隼人先輩、それと左近先輩も」

「うん。えっと、君は確か」

厳太夫げんだゆうです! ……ではなく!」



 名前を忘れられていたことに思わず声を荒げてしまったが、ここまで急いで来た理由はそんなこと――名前を思い出してもらうことのために来たわけではもちろんない。


 本来の役目を全うすべく、厳太夫は一度大きく溜息をついた。



「一緒に来ていただいてもよろしいでしょうか」



 厳太夫はそう言うが、他にも非番中の八咫烏はいる。そちらに話を持っていけばいいのに、わざわざ左近達に話を持ってくるのはいささか不自然である。

 厳太夫の固い表情や声音から考えるに、部屋まで来た用とやらはあまり歓迎できない事柄のようであった。



「今、見ての通り、講義中なんだけど。何かあったの?」

「とにかく早くお願いします」

「……分かったから、ちょっと待って」



 一緒に行ってくれるまでここを梃子てこでも動きそうにない厳太夫に、左近は早々に根負けした。



「ちょっと行ってくるから、君達は僕らが戻ってくるまでそれ読んでてね」



 そう言って、子供達の机の上に広げてある『孫子』の巻物を指さす。


 幸い、子供向けに仮名文字や分かりやすい記載に直してあるので、彼らだけでも読むのに支障はないだろう。その上、一つの巻物でもなかなかの量であるから、待っている間手持無沙汰になるということもない。



「早く!」

「分かってるよ」



 厳太夫に急かされ、左近はようやく腰をあげた。

 部屋を飛び出す厳太夫の背を追い、左近と隼人もその後に続いて部屋を出ていった。


 後に残された子供達は、最初はきちんと言いつけ通り皆で読んでいたが、やがて一人二人と夢へ誘われていく。そして、最後まで残った宗右衛門も半分もいかないうちに机に突っ伏した。






 一方の左近達は、建物を出て、門を出て、山中にまで足をのばしていた。


 とはいえ、慣れ親しんだ山中を進む足は軽やかに地面を蹴る。厳太夫が目指していた場所まで四半刻もかからずに到着した。


 そこには数人の八咫烏、そして伊織の姿もすでにあった。

 近づくと、地面にぽかりと開いた穴が姿を見せる。これは左近が掘っていた穴。対侵入者用の底に竹槍が仕込んである本物の罠である。


 その中に、すでに事切れた男のむくろが落ちていた。うつ伏せになった格好で、先端のとがった竹槍が身体を複数個所貫通している。竹槍についた血の渇き具合から落ちてそこそこ時間は経っているようだが、まだ鉄臭い臭いが土にこびりついていた。



「本日の哨戒しょうかい班が見つけました。今、他にもいないか引き続き山中を見回っています」

「ふぅん」



 厳太夫が状況を簡潔に述べてきた。


 足を抱え込むようにして座り、中を覗き込んでいた左近は背後から名を呼ばれ、顔を上げてそちらへ視線を向ける。左近の名を呼んだのは、厳しい表情を浮かべた伝左衛門であった。



「この穴、他に仕掛けは?」

「ありません。落ちたら竹槍が待ってるだけの簡易版です」



 それでも十分な罠であることには変わりないのだが、左近が作る罠にはさらにえげつない物も少なくはない。


 淡々と返す左近に、その場にいたほぼ全員が安堵の溜息をもらした。



「雛達がコレに遭遇そうぐうしなくて良かった」



 その通りだと深く頷く者が何人もいる。

 罠の作成者である左近はというと、首を小さく傾げ、なんとも言えないゆるい微笑を浮かべていた。


 山中を使った実習では必ず師が同伴しているとはいえ、その目が全てに行き届くわけではない。いくら侵入者用であるとはいえ、数多あまたある罠の場所に注意するのもなかなか骨が折れるのである。



「おい、左近! 絡繰はともかく、罠は味方には分かるようにしろと何度も!」

「目印あるじゃないですか。両側の木にばつ印」

「基礎の基礎を学んでいるような年の奴らには分からんだろうが!」



 伝左衛門の叱責に、左近も負けじと言い返す。それに正論でもって返され、ふいっと視線を外す左近に、伝左衛門の額の青筋の数が増していく。

 これはまずいと、左近達の代の大将である伊織が間に割って入った。



「申し訳ございません! ……ほら、お前もっ」

「もうしわけございません」

「棒読みじゃねぇかっ!」



 乱闘、というより伝左衛門が一方的に絡んでいくのを止めようと、伊織や隼人、そして周りにいた厳太夫達他の八咫烏の後輩が二人を引きがしにかかった。


 左近もさすがにこの歳になって舌を出すなんてことはしなくなったが、昔は伝左衛門に対してだけは長幼の序をどこかにかなぐり捨ててきたのかと思うくらいの態度をとっていた。それは舌を出さなくなっただけで今も変わらないらしい。

 しかし、今回のように馬が合わないのかと思いきや、一緒に食堂で飯を食べていたりもするのだ。


 だからこの二人のいさかいの時の関係性を客観的に見るならば、歳の近い兄弟で、他人の迷惑を省みずに悪戯を仕掛ける弟へ堪忍袋の緒が切れた兄。こんなところである。

 ただし、実際にはそんな可愛いものではない。弟の方は仕掛けるのは悪戯どころか殺傷能力のある罠であるし、兄の方も堪忍袋の緒をもう何十何百と千切れさせてきた。


 伝左衛門と同じ代の八咫烏達は、また始まったと肩をすくめ、後輩達に対処を押し付け、早々に情報の整理に回っていた。


 興奮冷めやらぬ様子の伝左衛門は放っておかれ、話が進められる。



「一人? それとも複数人?」

「複数人だったら隼人の狼達が見逃すはずないだろ?」

「……っと、はい。複数人の場合は俺が顔を覚えさせたうちの誰かが傍に行くまで遠吠えで呼ぶように教え込んでますから。それがない以上、一人で間違いありません」



 声をかけられた隼人が断言し、門を出る時に念のためと連れてきていた狼達の背を撫でた。狼達も気持ち良さそうに目を細めている。

 普段は人を恐れ、決して近寄ろうとしない狼達も、子狼だった頃から世話をしている隼人には尾を振り身体を擦りつけてくる。


 生物に好かれる何かが身体からにじみ出ているのか、隼人は幼い頃から生物に好かれるのだ。一度あまりにも帰りが遅いからと探してみれば、狼達と小屋で一緒に寝ていたこともあった。


 鳥獣の扱いにかけて彼の右に出る者はいないし、これからも彼ほどの使い手はそう現れるものではないだろう。



「どうしますか?」


 

 いつまでもこの場をこのままにしておくわけにはいかない。


 後輩を代表し、伊織が尋ねた。



「とりあえず、骸を別の場所に移そう」

「隼人、手伝え」

「はい」



 慎重に取り出された骸は、まるで操り人形のように担がれた手を揺らした。


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