眩暈
無月
埋葬の季節
母の抱擁、ああ、そんないいもんじゃない。暴力的と表現すべきその優しさは、かなぐり捨てて空を見上げる。宙吊りになった自分の思考は四方へ霧散し、ただひび割れた陶器が大地にぽつんとあるだけ。あれやこれやと思い巡らせていたはずが、ただ循環小数のような同一的な反復をしているだけだった。というのも、思考されうるものは全て思考されていたから。ただ自分がしていたことは、この脳という絶対の限界から逃れようと足掻き、足跡がすでについているものを踏み荒らしただけだった。この脳は何によって慰められるのか。
彼方の月。恐ろしいほどに整った円を成し、ただこの身を照しつづける。もはやその現象は狂気以外のなにものでもなく、理性を超えている。超えているが故にたまらなく不思議で見つめてしまう。しかしその月影は……酷く受け入れ難いものとなった。光によって暴かれたこの身は寒空のなか悶え苦しみ、私は月を呪う。鳥肌が沸き立ち、がくがくと震えながら身体を掻きむしった。なんて惨めなのだろう、この私は。
その光は無限の慈しみそのものだった。慈しみとはゆるやかな破壊だ。それは全てを包括しようと企む所有欲であり、これを拒まなければいつの間にか精神は掠奪され好き勝手に弄られる、というわけだ。母胎から彼女の<欲望>が産み落とされ、欲望の蛹《さなぎ》は踊り、踊らされる。欲望によって生まれた蛹は羽化し、立派になった欲望を以て新たな欲望を生み育む。欲望の織りなす混声合唱が天に轟き地を蹂躙し、地上の楽園を築くのだ。
では、欲望を持たざる者にとって、そこは楽園になるのであろうか……。わたしには欲望がある。しかし、どんな欲望かは分からない。言えることは、それはごく僅かしか今の私にはないということだ。この私は、欲望を持てるのだろうか。そして、なんだかとても寂しくなって、目を閉じた。
埋葬の季節がやってきたので、曇天の空から地へ目を落とした。そして、私は横たわる頭部と背骨だけになった母を見た。頭部には蛆が湧き、長々と延びた背骨は地面に飾られていた。腐敗が進んだこの顔を、もはや私は母の顔と認識はできない。ただ、生身の母がこの母へと変貌するまで見つめていたから、その記憶があるから私はこれを識別できる。さて、周りを見渡しても、ただ草一本も、水もない荒涼とした大地があるだけだった。この母をどう埋葬しようか。月光を反射するぐじゃぐじゃの母の目が言った。
「私を埋めず、ここに置いていきなさい」
そうか、とだけ私は言った。
「私は、あなたによって埋められるべきではない。だから、行きなさい」
なるほど、私ではだめなんだなと納得して、沈黙した。すると、いつの間にかそばに池ができていた。半径五メートルといったところか。正円でこれほどにもなく人工的な池だった。なんだかとても不思議な、深遠な、そして不愉快な印象をその池に持った。まったく奥底は見えない。ひらすらに闇が広がっていた。だが黒い水面で、雲の切れ間から注がれる月の色が揺れるのが綺麗だからしばらく眺めていたが、母の言葉を思い出して立ち去ることにした。
月のある方向へ歩む。何もない大地だから目印なんてない。その光に苛まれながらも、それに向かうしかない。風が吹きつけては裸の私を震え上がらせる。終わりなき、道なき道。
埋葬の季節だけが、私を私たらしめた気がする。
眩暈 無月 @mutsuki0990
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