少女透理
卵
第1話
守山区再生医療センター。全身再生病棟、7階、一般病室。私が今日訪れたのは、友人の見舞いのためだ。
「髪、短くなっちゃった。なんかそういう規定なんだって。意味分かんなくない?」
白いシーツの清潔なベッドの上で、ショートボブになった
実際、今この瞬間の彼女は世界の誰より健康だ。何せ五体満足、折り紙つきの無垢な体でこの世に生まれたてなんだから。
60年も前のこと。人類は不死を手に入れた。神々の口にする黄金の果実ではなく、知恵の実によって――早い話が科学の発達の末、意識を含めた人体データの保存・転送と新しい肉体の培養が可能になった。それに伴う倫理的な議論はたいそう紛糾したらしいけど、結局は生への執着が何もかも押し流してしまった。悪いこととは思わない。そのおかげで私は今、棺桶に入ったトマトピューレじゃなく、こうして生きた透理と会話ができているわけだし。
「だけどさ」
透理がかくんと首を傾げる。漫画みたいにオーバーな、いつも通りの彼女の仕草。
「どういう理屈で『今のわたし』が『前のわたし』と同じだってことになったわけ? 昔は体が死んだ時点でその人はお終い、って判断だったんでしょ」
「ええと……」
中学校で習ったはずのことだけど、どうせ綺麗さっぱり忘れてしまったんだろう。どう答えたものか、うまい説明を考える。
5秒。
「……昔は昔、今は今だよ」
「あっ! 誤魔化した! 説明めんどくさいからって!」
「だってさ……、一般常識って一番説明しづらいものじゃん」
「は!? つまりわたしが非常識ってこと!?」
「病院で大声を出すくらいには」
はっ、と息を呑んで、透理は口を押さえる。やっぱり漫画の仕草だ。そしてそのまま、ぼそぼそ呻き始める。
「……じゃあいいよ。一生非常識人として生きてやる。お前に常識を教わらなかったせいだ。ことあるごとに笑われて、あのとき説明してくれたなら……、って恨んでやるんだ……」
恨むなら自分か学校にしておいてほしい。
まあ、一から話せば意外と分かってくれるかもしれない。それが無理でも、私が努力したっていう印象ぐらいは残るだろう。世の中、結果が全てじゃない。
「ポール・ワイスの思考実験は覚えてる?」
透理が目をぱちくりさせる。返事を聞かなくても分かる、優秀な意思表明機能。
「ええと、まずヒヨコを1羽用意する。……用意したと考える。思考実験だからね。実際にやらなくてもいい。この実験は頭の中だけで行われるもので……」
「それぐらいは、分かる」
不満で頬が膨らんだ。速やかに本題に入ろう。
「ヒヨコは生きていて、ピヨピヨ鳴いたり餌を食べたりする。小さいけど自立した生物だ」
「うん。……うん。かわいいよね」
真面目に想像しているらしい。視線が架空のヒヨコを追っている。この先を解説するのが少し気まずい。
「その、あー……、そこで、強力なミキサーを用意する」
「え?」
「ヒヨコをミキサーに入れて、完全に均質になるまで粉砕するんだ。ペースト状に」
「ぺ……」
架空ヒヨコを追っていた視線が一瞬固まってから、ぎこちなく、ゆっくりこちらに向けられる。
「そうするとミキサーの中にはヒヨコだったものが残らず入っているはずだ。さて、にも関わらず失われたものとは、何だろう?」
「ひ、人の心……。お前の血は何色だ……」
「思考実験だからね?」
昔はこんなことする子じゃなかったのに、みたいな視線を向けられても困る。私だって実在するヒヨコに実在するミキサーの刃を向けたいわけじゃない。トマトピューレが脳裏にちらつく。
「それじゃあ……、いのち、とか」
「ある意味正しい。けど、命っていうのは生物と非生物の差異を説明するために作られた恣意的な概念で、それが何かを定義できなければ何も言っていないのと同じだから……」
私の言葉に、透理はまた目をぱちくりさせる。
「……つまり、何?」
「構造。それから、機能。ヒヨコはヒヨコとしての形と仕組みを保てなくなったとき、ヒヨコの持っている機能――君の言った、命というものを失う。逆に言うならば、命とは生物の持っている構造と機能のこと……、とされるようになった」
「ほう」
彼女はきょとんとした顔のままうなずく。分かっていないんだろうな。聞き返されないから、説明し直しもしないけど。
「その前提を踏まえて、次に出てくる思考実験が、スワンプマンとテセウスの船。念のため聞くけど、記憶にある?」
「全然」
「だよね……。スワンプマンの方から行こう。ある日、ある男が、沼地に散歩に出かけた。気分よくふらふら歩いていると突然、雷が落ちてくる。男はそれに当たって死んでしまう。そのとき……」
「あのさ」
透理が小さく手を上げる。はい、透理さんどうぞ。学校の先生みたいに彼女を指して話を促す。
「思考実験って、死ぬとか殺すとか好きだよね。ヒヨコを殺したりネコを殺したり。何か理由があるの?」
「ああ……、過去に戻って親を殺したり。つまりそれだけ命っていうものが、破壊したとき取り返しがつかない特別な存在としてイメージしやすいってことだと思う」
「……なるほど」
分かったような分からないような返事。つまり、分かってない。まあ、いいけど。
「それで、話の続きだけど……、ええっと、男が雷に打たれて、死ぬ。死んだ男は沼に落ちて沈む。このとき、落雷のエネルギーが偶然にも沼の有機物の化学反応を誘発する。それは奇跡的な偶然の結果、死んだ男とそっくり同じ人間を生成する。偶然にも同じ構造、偶然にも同じ機能、偶然にも同じ記憶と精神を持った、元の男と全く区別がつかない人間ね」
「ほう」
「さて、これは元の男と同一人物と言えるかどうか? っていうのが、スワンプマンの問題提起」
「へー……、それは、どっちなの?」
考える素振りゼロで聞いてくる透理。あまりにも無思考実験。
「立場による、けど……、今の医療倫理では別人扱いらしい。偶然構造が同じだからといって同一人物とみなすのは個人の唯一性に対する危機を引き起こす、とか」
「ふーん、なるほどねぇ……」
「……」
「……で、続きは?」
「他に感想ないの?」
話の意味をもう少し考えてほしい。彼女の疑問に対して、これは割と衝撃的な事実だと思うんだけど。
「え? あ、そうか! じゃあ『前のわたし』と『今のわたし』って別人じゃん!」
「それ! 気づいてくれてよかった!」
「そっか……、別人だったのか……」
「待って、まだ途中だから」
勝手に納得しかけた透理を慌てて引き止める。自分が自分じゃないって言われてするっと飲み込むやつがいるか。
「もう一つの思考実験。テセウスの船。だいぶ長くなっちゃったから簡単に話すよ」
「えー、じっくりたっぷり劇場版でもいいのに」
「長編は苦手なの。飽きるし、どうしても論点がぼやけるし。えーと……、古代ギリシャにテセウスさんって英雄がいました。古代ギリシャの人は彼が乗った船を大事に大事に長いこと保存していました。……ここまでは分かる?」
「……馬鹿にされた?」
「あ、分かったんだ……。じゃあ続き。英雄の船って言っても所詮は木造なので、時が経つとどんどん傷んでいきます。なので人々は傷んだ部品をどんどん新しいものに取り替えて修理していきます。どんどんどんどん取り替えていって、最終的に元の部品がひとつもなくなったとき……」
「船の竜骨は取り替えられないって、昔の漫画にあったよ」
「思考実験だからね? なんなら竜骨を取り替えられる次世代メンテナブル古代船でもいいよ、もう」
「オッケー。分かった。怒らない怒らない」
「怒ってない。……元の部品がひとつもなくなったとき、それはまだテセウスの船と言えるか? って話。分かる?」
「分かる分かる。えっと……、さっきの男が別人なら、船も
「と思うでしょ? 今の医療倫理では、構造と機能が保たれてるなら同じ船って扱いなんだ。まあ、立場によるけど」
「え、何で? 構造が同じでも別人って言ったじゃん」
期待通りの言葉に、内心ガッツポーズしてしまう。ようやく、透理に話が伝わっている実感が湧いてきた。その反応を待ってたんだ。
「そうだよね。よく覚えてたね、えらいね……。ついでにその2つの差を思い出してほしいんだけど、スワンプマンは偶然にも同じ構造が作られた場合。テセウスの船は本来の船を元にして部品が取り替えられていった場合。……分かる?」
透理はこくこくうなずく。
「完全に理解した」
「よかった……」
「えっと……、じゃあ、わたしの場合はどっち? わたしの新しい体は、別に前の体の部品を取り替えて作ったわけじゃないじゃん」
「そう、それ! 本当に理解してる!」
「病院で大声出しちゃいけませんよ」
透理がわざとらしく肩をすくめた。この子、意外と粘着質なところがある。
「あの……、最初のポール・ワイスに戻って考えて。命っていうのは構造と機能なんだ。今の透理の構造と機能――体のつくりや、脳みその神経の繋がり方や、私を見たときどんな反応をするか――っていうのは、前の透理をそっくりデータとして記録して、そのまま新しい肉体に書き出した結果でしょ。だから透理は、前の透理を元にして、透理であることを受け継いでいる。そもそも再生医療がなくたって命っていうのは開放系で、それを構成する部品自体は毎日入れ替わってるんだ。私たちを保存するサーバやこの病院の培養槽を含めた全体をひとつの命の構造と考えれば、そんなに難しい話じゃない」
私の説明に、透理は目をぱちくりさせた。
「あのさ、ここ見て」
彼女は突然パジャマの裾をまくり上げる。まだ太陽の紫外線を浴びていない白いお腹と、肋骨の構造が分かるくらいに脂肪の薄い胸郭、その下半分までが露わになる。
透理の指が、肋の隙間あたりを指す。傷ひとつないきれいな肌。
「ここ。昔ね、心臓の手術したときに、カテーテルっていうの入れた痕があったの。なくなっちゃった」
彼女の発声に合わせて、柔らかいお腹が動いている。命の機能が目に見える。
「今のわたしは前のわたしそっくりそのままじゃないんだけど、それでも同じわたしなの?」
問いかけを受けて、私は慌てて視線を上げる。見とれてなんていませんよ、という顔をして。
「立場によるんだ、透理」
体裁を繕いながらの説明は、さっきまでと比べるとしっちゃかめっちゃかだったかもしれない。
「理想的には、そう……、そっくりそのまま復元するべきなんだろうけど、技術的限界がある。病気や傷痕みたいな部分まで残していいのか、って問題も。だから、できる限り復元を、という指針だけは作られて……、どれだけ似ていれば本人か、っていうのは、人によって基準がばらばらなんだ」
透理はこくこくとうなずいてくれる。
「だから、えっと……、私の立場としては、君は透理だと思う。髪型とか、傷痕とか……、なんなら記憶が少しなくなくって、私のことが分からなくなっても、透理は透理だって保証するよ」
「それは、何を根拠に?」
「私がそう思いたいから。何の根拠もなく」
私の言葉に、透理は目をぱちくりさせて、それから笑みを浮かべる。
「それじゃ、ずっと保証し続けてね。わたしのこと」
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