人間卒業
緑夏 創
孤独が闇を率いてヒタヒタヒタヒタやってくる。頭から足の先まで充たされて、私は初めて孤独の輪郭をなぞる。
星の光は人の営みの放つ輝きによってかき消され、随分と離れまで来なければその星の命の発散すら今では見ることが出来ない。砂利を裸足で踏みしだく。尖った意地の悪い小石が皮膚を突き破るのにも慣れてしまった。
私は女だと言うのに、苦痛に対してはさして弱く無いのです。痛みを感じない、とかでは無いのですが、その痛みによる苦痛、強き者によってなす術無く蹂躙される恥辱、コミニュティの強者によって迫害される屈辱、それらに感極まってシクシクと泣いてしまう、そんなことが一度たりとも無いのであります。女らしく、ないのでしょうか。感情というものが酷く無機質的だと、自身でも思います。女というものは酷く情緒的で、感情豊かで、それ故敏感でまた脆く、それでいて情事には強かであるといいます。酷く空気を読み取ってフワフワと漂うように、また流されるように、それでいて根底では厭に我が強く醜い欲のけだもので理由なく生きている、そんな女のことが、私にはわかりませんでした。
わからないものは怖い、私は女でありながらよく男とつるんできました。思考が似ていて、まだ女より少しは彼らのことが“わかる"のでした。
ですが、それは私の人生の失敗でありました。やはり私は女でありました。男と対等に接しようなんて、どだい無理な、それこそ乙女の夢物語であったのです。結局、男は私の身体しか見ていませんでした。貧相で肉付きの悪い幼児のようなこの肉体でも、やはりねぶられ、しゃぶられ、蝕まれて、奪われてきました。人間とは理性を獲得しておきながらやはりその根底は猿や豚と変わらぬ欲情の獣なのであります。そこは男も女も変わりません。最早それは「人間らしい」感情なのでしょう。知性、理性を獲得しておきながら、結局は魂の根底から欲望に染まり、それを満たすために生きる。人間とは結局のところ、そういう生きものなのでしょう。
そんな理解できぬものと付き合うのも飽きた。私は自ら孤独の海に身を堕としました。
己に巻きつけられた関係を悉くを断ち切って、何にも縛られず短い時を自由に生きよう、そう決心したのです。
今、私の身の回りにあるものは、夜の闇、夜空に煌めく星々、山峡に浮かぶ冷たい満月、街外れの浄化された空気、時折運ばれてくる臭いそよ風、足下の砂利、雑草、自然等々。私を意思をもって痛めつけるものなど一つも無いのです。確かに孤独は辛く、耐え難いものであります。それは己が己を傷つける感情であります。ですが、それは愛しいとすら思えます。己が己に「人とともに生きろ」と言葉を投げかけてくれていることでもあるのですから。
ですが、女とは意志が固い生きものでもあるようです。それに限っては私も納得し理解しているのです。私も所詮女なのです。都合の良いものを切り取って多幸感を得ようとするのです。私は手持ちの金が尽きるとそのまま朽ち果てて土に還る所存でございます。既に手持ちは硬貨数枚と千円札一枚のみでございます。死期が近づくのが目に見えてわかるというものは、中々に戦慄するものでございます。良いのです。私はこのまま、誰に助けを乞わず、生き恥を晒さず、最後の金を使い果たすとどこか古い神社を探して、そこで横たわり独り死を待つ所存でございます。その死を以て私は人間を卒業するのです。私は死して人間の欲を克服するのです。これは私だけの、私だけが知り得る偉業であるのです。
ヒタヒタと背後に忍び寄るのはもしかして闇を率いた孤独様では無く、孤独を率いた死なのでしょうか。私には真実を知る由などございませんが、撫でてきたその輪郭が死なのかもしれないと思えば、少しだけ人間を超越できたのかしらと、少し、少しだけ愉快な気持ちになるのです。
嗚呼星が綺麗です。大きな月が天上高く登って参りました。氷のように冷たい月光が夜空を照らし、空は仄かに白み藍色に染まっていきます。月の光は星をあまり阻害しないのに、何故地を這うことしか出来ぬ人間の営みが放つ光が天の輝きを消し去ってしまうのか。それが人間の力なのかしら。恐ろしい。あら、さらさらと水が流れております。月に照らされてよく見えます。小川でございます。揺れる水面が青白い月光でキラキラと宝石のように輝いております。これが本当に美しいものなのですよ、人間様。
私も人を超越し、土に還ることでこの自然と一体になれるのだと思えば、死ぬことも悪くない、むしろこれまでの人生の中で唯一の救いではないか。そう、強く思ってしまいます。
短い間でしたがお時間をいただきありがとうございます、人間らしい貴方。私は大ぼら吹きでありました。これより迎える死による偉業を、私は「私だけが知り得る」とホラを吹いてしまいました。訂正致します。これは、「私と貴方だけが知り得る」、私の偉業でございます。どうか、どうか、口外せず、胸の内に秘めていただけると嬉しく思います。私と貴方だけの秘密と致しましょう。では、さようなら。人間らしい貴方。どうか、どうか、その身に私の分の幸を。
人間卒業 緑夏 創 @Rokka_hajime
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