第237話 ウィッチ・マッドネス

 クロエは叫ぼうとした。マリィは勝利を確信した。

 一人の忍者の物語は、勇者の無慈悲な一撃で終わるはずだった。

 ――はず、だった。


「……剣が……止まった?」


 クラークの振るった剣は、フォンの頭を裂く寸でのところで止まった。

 どちらも動かず、どちらも傷つかなかった。クロエですら番えた弓と矢を下ろし、戦いを忘れるほどの光景だったが、マリィだけは望みどおりにならない現実を前に叫んだ。


「クラーク、何をしているの? 早く、早くとどめを刺しなさい! ハンゾーの為に、真の勇者になる為にフォンを殺さないといけないのよ!」


 ずっと勇者を支え、或いは支配してきた言葉。甘く都合のいい台詞の羅列だが、今のクラークに対しては何の意味もなかったようで、彼はまるで反応しなかった。

 代わりに、刃をゆっくりと仇敵の傍に下ろしながら、尚も冷たい声で聴いた。


「……フォン、お前は、どんな罪を犯したんだ?」


 だが、その瞳にはもう、蛇の文様は残っていなかった。

 フォンは静かに目を開き、言った。


「最愛の師匠を殺した。忍者の里を滅ぼし、記憶に蓋をして、もう一つの人格を作り出した。本当のフォンを封じ込めて……自分を騙して、生き続けた」


 いつもの目の色を取り戻したクラークに対し、フォンは安堵すらしていた。一方で勇者は、自身と同じ苦しみを抱いていた彼に、共鳴すら感じ取っているようだった。


「許せたのか?」

「許したし、許されたよ。もう一人の僕を信じて、受け入れたんだ」


 そこまで聞いて、クラークはとうとう、フォンに剣を向けるのをやめた。

 剣を向けるのが敵意だとするのならば、クラークは彼に対する敵意をかけらも持っていなかった。勇者はただ、ようやく知れた忍者の過去に、深い痛みを覚えていた。

 同時に、少しだけ苛立ちも募った。フォンはやはり、自分よりも強く、偉大だったと気づき、認めたくない点もあった。今までひたすらに憎み続けていた相手に勝てるはずがないと理解したなら、誰でも感情をぶつけるあてがなくなるものだ。


「……ムカつくよな、本当に。ずっとそうだ、てめぇは……俺よりもずっと強くて……何でもできて、人に愛されて……けど、大事なことじゃねえんだな……」


 尤も、怒りも憎しみも、今のクラークには大事な事柄ではない。


「本当に大事なのは、俺が、ずっと見えないふりをしていただけって現実だ」


 何よりも知るべきだったのは、仮初の強さを隠れ蓑にした自分の弱さだ。

 剣を握る手が震え、声が掠れるほどに目を背け続けた、過去が連れ来る弱さだ。


「今なら分かる、言える、認められる……俺は、俺はずっとガルシィさんに顔向けできないままだったんだ……死んだあの人の願いを踏みつけて、紋章を彫り込んで、教えてもらった全部を蔑ろにしてまで……逃げ続けた、臆病者だ」


 勇者の紋章も、勇者として偽り続けた日々も、勇者の成を必死に求める有様も、全ては追いかけてくる過去から逃げる手段に過ぎなかった。

 そんな人間を、人は何と呼ぶだろうか。自分は何だと認識するだろうか。


「俺は、自分の罪が怖くて虚勢を張るだけの、弱っちい男だったんだ……!」


 弱者。クラークは、その表現以外で、自分を記す言葉を知らなかった。

 生まれて初めて自分をそう呼び、彼は惨めさと虚しさ、師であるガルシィを裏切り続けていた罪悪感で、俯いて涙を流した。こんな時ですら、ごめんなさいと誰にも言えない自分が酷く情けなく、格好悪く思えてならなかった。

 しかし、フォンは彼を嗤わなかった。怒りもせず、彼を見た。


「……クラーク、それはこれまでの自分だ。今は違う」


 はっと顔を上げたクラークの前で、フォンは微笑んでいた。

 涙が見えたような気がして、クラークは頬を伝う雫を拭くのも忘れ、フォンを見つめた。


「洗脳に抗えた。弱い自分と向き合って、本当に見つめなければいけないことを知れた。僕やギルディアとは色々あったけど、それでも、今の君になら言える」


 侮蔑などしない。己の弱さを認め、前に進み出した男を嘲笑するなど、誰ができるだろう。

 フォンは彼をまっすぐ見つめ、仲間に見せる優しさと同じ笑顔を浮かべて、言った。


「――君は紛れもなく、勇者だ。その心こそが、紋章よりも確かな、勇者の証だ」


 ぐしぐしと目元を擦り、いつもの高慢な顔を取り戻し、クラークは軽く笑った。


「……てめぇに褒められたって、嬉しくねえっての、バカ野郎が……」


 二人の間に、もう蟠りはなかった。

 代わりに芽生えたのは、友情の小さな、小さな種だった。

 クビにして、クビにされて、騙し騙され、殺し合いすらした二人は、ようやく真の意味で手を取り合えた。フォンとクラーク、忍者と勇者は、同じ根元の人間だったのだ。

 そんな彼らの姿を見て、クロエはほっと一安心したようだった。下手をすればフォンが殺されると思っていたし、クラークの心を彼が見抜いているとも、ましてや勇者が改心するとも思っていなかったからだ。


「……そっか。フォンは信じたんだね、あの時と同じように――」


 これもひとえに、闇と痛みを乗り越えたフォンにこそ成せることだ。

 男同士の繋がりにつられて、クロエも小さく笑った時だった。


「――『極大火球メガバーン・スフィア』!」


 とんでもない大声と共に、クラークの背後から熱と赤い光が迸った。

 誰もが動かない最中で行動を見せるのは、この場においては一人しかいない。

 ただ一人だけ、目の前で起きる自称を許せずにいたのは、凄まじい形相をしたマリィだ。彼女は杖の先端から生成されたとてつもなく大きな火球を、フォンめがけて放ったのだ。

 しかも、狙いは彼だけではない。大きさからして、フォンの仲間も、クラークすらも巻き込むつもりだ。あまりに唐突過ぎるマリィの蛮行に、忍者すらも驚愕する。


「マリィ!?」

「なんだと!? クラーク諸共、僕達を殺す気か!?」


 クラークが驚き、フォンが咄嗟に閉じていた鉄扇を開こうとしたが、それよりも先にクロエが動いていた。彼女は唯一、魔法使いを警戒し続けていたのだ。


「そうはさせないっての! 『忍魔法矢シノビショット』ッ!」


 彼女が放った矢は、水のようなオーラを纏って火球に激突した。

 僅かに膨れ上がった炎は炸裂し、花火のように散った。誰一人焼くことのなかった奇襲の結果は、マリィの狂気にも似た憎悪の表情を残すばかりだった。


「ふー……ふー……どいつもこいつも、計画通りに動いてくれない愚図ばかりね……!」


 もう、彼女は策士としての顔すらしていなかった。クラークを操れず、何もかも思い通りにならない現実にただ怒りをぶつけるばかりの、一人の人間に過ぎなかった。

 そんなマリィを見て、クラークは思わず手を伸ばした。


「……マリィ、悪かった。俺が、お前をずっと……」

「近寄らないで、クラーク! フォンにほだされて、汚らわしい!」


 ところが、勇者の遠い手を嫌悪しながら、マリィはただ喚くばかりだ。

 自分が原因でもあると考えているのだろうか、クラークは決して強くは出られなかった。代わりにフォンが前に出て、目をぎらつかせる彼女を説得しようと試みた。


「君も分かっているはずだ。現実から目を逸らせば、待ち受けるのは死だけだ」

「私は死なないわ、今までこうやって生き続けてきたもの! 強い人間に従い、力を失えば他の者に縋る! 何を言われようと、嘲笑されようと、私は私を肯定し続けるわ!」


 クラークの声すら届かないのだから、フォンの声などもう、存在しないに等しい。

 利用した二人を手放してなお、彼女は自分の選択を誤っていないと信じ込んだ。


「これが、これが正しい道なのよ! 誰にもただの魔法使いだなんて、無能だなんて言わせない! 生き続けさえすれば、それが有能の証になるのよおおぉッ!」


 あはは、はははと笑うマリィの顔は、もう弱気な魔法使いではない。

 まともではない。自分を支える全てが崩壊した今、彼女はありえない空想を、己の未来とした。そうしなければ、今ここで精神の均衡を失っていたはずだ。

 ――いや、もう失っているのだ。


「……狂ってるね。フォン、あの魔法使いだけはもう、救えないよ」


 心底彼女を軽蔑するクロエの言葉が、今のマリィの全てを表していた。

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