第165話 騎士と弓手③

「ぐあ、がッ……!」


 みしみしと、彼女の骨と筋肉が軋む音が聞こえた。

 クロエとて冒険者だ、決して鍛えていないわけではないし、一般的な男性と比べても屈強であるのは間違いない。だが、サーシャや忍者と比べた時には、どうしても硬度は劣る。

 斧で頭をかち割られなかっただけ幸いであるが、石畳に叩きつけられ、クロエは口から血を噴き出した。その姿を見て、観客席からは別の意味合いの言葉が降り注ぐ。


「いいぞ、パトリス! そのまま弓使いの体を真っ二つにしてやれ!」

「クロエ、避けろ! 逃げるんだ!」


 パトリスを鼓舞する声と、クロエに回避を指示する声。彼女にとって大事なのは、後者だ。


「分かって、る、っての……ッ!」


 悲鳴を上げる体に鞭打ち、どうにか転がったクロエの元居た場所に、パトリスが叩きつけた己が突き刺さった。ぎろりと敵を睨むナイトの目には、まだ血涙が流れている。

 ぐっと力を込めて立ち上がり、やはり自らの意思は止めたいと思っているのだとクロエは確信した。同時に、自分の間抜けさに心底苛立った。


(あたしの馬鹿、何躊躇ってんのさ! 意識が残ってようが今のパトリスは敵だって、自分で言ってたのに攻撃を踏みとどまるなんて!)


 刹那の油断で、弓も、矢筒も離れた所へ転がってしまった。矢は無事だが、矢筒は真っ二つにへし折られ、中の矢を使える保証はない。飛び出た鏃がいくつか転がっているが、本来の目的で用いられはしないだろう。

 本当に、こうなるはずではなかった。頭を射抜いてやるつもりだったのに、これまでクラークに利用され続けてきたらしいパトリスの懇願を見ると、どうしても感情が揺らいだ。


(情けは捨てろって、自分では分かってるのに、パトリスの顔を見た途端……)


 クラークの一味は、フォンをずっと悲しませてきた。容赦する理由がない。

 だがしかし、どうも、彼女にもフォンの甘さが染み渡っていたようだ。


「ああ、もうッ! フォン、この子の暴走を止めたいの、知恵を貸して!」


 パトリスの終わらない爆裂的な攻撃を必死に避けながら、クロエはフォンの方を見ずに叫んだ。彼は驚き、首を横に振った。


「駄目だ、クロエ! 気持ちは分かるけど、無謀にもほどがある!」

「だとしても、パトリスの顔を見て、頭を射抜くだけで終わりなんてできやしない! この子には今、意識があるんだよ! 意識とは真逆に、人を殺させられてるの! 普段のあたしらしくないのは承知の上だから、だから、うあぁッ!」


 盾と斧を同時に叩きつけた衝撃で、クロエが吹き飛んだ。


「クロエ……!」


 逃げることすら許されずに地に這いつくばるクロエを、フォンはただ固唾をのんで見守るばかり。クラークはというと、パトリスを元に戻すという、敵とは到底思えない台詞を、よりによって仲間であるはずなのに嘲笑していた。


「ハハハハハ、できるわけねえだろ! こいつが呑んだのはそんじょそこらの増強剤じゃねえんだよ、一種の毒みたいなもんなんだぜ!」


 最早、クラークがパトリスを道具程度にしか思っていないのは明白だった。

 フォンを捨ててまで雇った彼女ですら、最終的にはそのフォンを殺す為に利用されるだけだった。クロエの怒りが沸々と煮えたぎるが、やはり今できるのは攻撃からの逃避のみ。

 周囲からのブーイングも無視して、ただひたすらに対策を講じるべく、脳を回転させる。


(毒って、薬跳び越えてヤバいものを使わせるって、やっぱりイカれてるね、あいつ――)


 毒ほど危険ならば、どうにかして無力化できればいいものを。

 そこまで考えの届いたクロエにとって真に幸運なのは、彼女がサーシャやカレンと比べて比較的聡く、尚且つ自分の持ち物を把握し、結論と過程を結び付けられる点だった。


(……待って、『毒』? 治す為の薬じゃなく、無理矢理体を刺激する毒……)


 体を刺激する毒。或いは病の一種。ならば、治す手段を忍者は持っていた。

 現状を打破できる数少ない手段を、二人一緒に悟った。


「――クロエ、あの薬は『毒』だ! 毒なら――」

「うん、あたしも今気づいた! 毒なら治せる!」


 腰のポーチからクロエが取り出したのは、桃色の液体が入った小瓶。

 少し前に貰った、フォンからの贈り物。酒癖の悪いクロエが冗談半分に解毒薬でもあれば酔いが醒めるとからかったところ、彼が真顔で渡してきたのだ。聞くところによると、飲むか傷に塗りこめば致死量の毒ですら中和するらしい。

 代わりに卒倒するほど苦いと聞いた彼女は使用をやんわりと断ったが、薬だけは貰っておいた。まさかこんな機会に役立つ可能性があるとは、世の中分からないものだ。


(フォンが大分前にくれた解毒薬! 効くかどうかは賭けだけど、やるしかない!)


 正直なところ、効くかどうかは不明だ。だが、これに賭けるしかない。


「ギイイイガアアアァァッ!」


 涙を撒き散らしながら斧で頭を叩き割ろうとするパトリスの早く、強い一撃をかわし、クロエは駆け出す。彼女の狙いは、破壊された矢筒と矢の傍に落ちてある、まだ形を残した鏃。矢としては使えないそれを勢いよく掴み、彼女はパトリスと向かい合う。

 薬を飲ませるのは恐らく不可能。ならば、別の手段で体に流し込むほかない。


「矢筒が折れて、鏃は残り一本、こいつを外せば……ううん、外さない!」


 パトリスもクロエの変化を察したのか、斧と盾の双方を構えなおし、彼女を睨む。

 騒ぎ立てていた観客達ですら静まり返り、無音の世界が広場を包む。


(チャンスは一瞬、パトリスが斧をあたしの頭に振り下ろすギリギリを見極めて……!)


 なるべくなら、もっと考えたかった。しかし、そんな猶予はなかった。

 渾身の力を込めて飛び込んできたパトリスが、二つの武器を纏めてクロエ目掛けて叩きつけてきた。穴という穴から血を流す狂戦士の全身全霊を込めた一撃を、クロエはかろうじて回避しきった。

 衝撃で転がり飛んでしまいそうになるが、足は限界を超えて踏ん張る。石畳に刺さった武器を引き抜こうとするパトリスの姿は隙だらけで、逆に言えばこの機会を逃せない。


「でりゃあああぁぁ――ッ!」


 ありったけの力で、クロエはパトリスの懐に潜り込むと、鎧と鎧の継ぎ目に解毒薬の小瓶をあてがう。そうして鏃を突きつけると、そのまま一気に継ぎ目へと刺し込んだ。

 割れた瓶から鏃を伝い、薬が傷口の中へと入っていく。血と桃色の液体が入り混じる中、パトリスはかっと目を見開き、クロエを振り払った。


「わああぁッ!?」


 武器の全てを手放したクロエは姿勢を整えて起き上がり、パトリスを見つめる。彼女は直ぐに攻撃に転じず、頭を抱え、呻くばかりだ。


「……グウ……ウルルル……アァ……」

「うまく、いったのか……?」


 クロエが無言で、フォンが思わず呟きながら見守る最中、パトリスが声を漏らした。


「…………メン……ナサイ……ごめ……な……い……」


 獣のような声は次第になりを潜め、元の彼女らしい、優しい声に戻ってゆく。背丈は縮み、顔中血塗れではあるが出血自体はは止まったようだ。何より、つい先刻まで彼女を覆っていた禍々しい雰囲気は薄れたのが、正真正銘、パトリスが正気になった証拠だ。

 つまり、解毒薬は奇跡的に彼女の体を巡り、効果を即座に発揮してくれたのだ。

 はらはらと涙を流し続ける彼女は、己の暴虐を覚えているのか、ただ謝るばかり。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……!」

「……フォン特製の解毒薬、何にでも効くって言ってたけど、大袈裟じゃなかったね」


 よろよろと歩み寄るクロエはそう言いながら、優しく彼女の肩を叩き、言った。


「パトリス、冒険者を引退するのをお勧めするよ。田舎に帰って、家族を安心させてあげて、静かに暮らした方がいいはずだからさ」


 自分よりもずっと、もっと優しい彼女には、冒険者よりも良い未来があるだろう。


「……はい……ごめんなさい、クロエさん……!」


 彼女に微笑みかけられ、パトリスはただ泣きじゃくるばかりだった。

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