第162話 剣士と猫⑥

 これまで一方的に暴力を受け続けてきた者の逆転、反撃。

 そんな奇跡をあっさりと許すほど、ジャスミンの心はまだ折れていなかった。たかだか手が片方焼けて、剣が握られなくなっただけだというのだから。


「忍だがじのびだが知らねえが、ぢょうじにのるなあぁ――……」


 そう、今この瞬間までは。

 不意に、ジャスミンの体が大きく震えた。


「……あ、あぁ? あれ、からだ、が……」


 自分の意志とは裏腹に、酷い風邪をひいた時のように、がくがくと体が痙攣し始める。次第に立っていられないほど震え始め、膝を石畳の上につく。

 肌が病的なまでに白く染まり、焦点が合わない目を顔ごと真下に向けた時、異変は起きた。


「――おお、おごぼおおおおぉぉぉ!?」


 いきなり、彼女はとんでもない量の体液を吐き出したのだ。

 滝の如く流れ出る血、吐瀉物、胃液の混合物。体中の水分が放たれているのではないかと見紛うほどのそれは、赤と黄色でぐちゃぐちゃに染まり、彼女の周囲を汚してゆく。白目を剥いて吐き続ける様に、高揚していた観客達も、流石に動揺し始める。


「何だ、ありゃ……」

「ジャスミンの奴、どうなってんだ?」


 ウォンディやスモモ、フォン達ですら目を見開く事態だったが、クラークはさして驚いてはいなかった。『覚醒蝕薬』に副作用があると知っていたからだ。

 どのような症状かはともかく、時間経過と共に発症するのは理解していた。だからこそ、彼は心配するよりも、いつまでもカレンを倒さず、無意味にいたぶり続けていたジャスミンに心底呆れかえっていた。


「あの馬鹿野郎……副作用のことも忘れて、無駄に遊んでやがるからだ」

「わ、私もまさか、ああなるのでは……?」


 鼻を鳴らすクラーク、完全に畏怖しきったパトリスの前で、ようやくジャスミンは体に残っていた異物を悉く吐き終えた。薬の効果も失せたのか、肌や髪の色は元に戻っているが、体を今度は苦痛が支配しているようで、まるで立ち上がろうとしない。


「おろろろろおぉ……げぼ、ぐぶ……舐めやがって、えげぇッ!?」


 口を拭うが立ち上がれないジャスミンに、カレンは容赦しなかった。

 膝蹴りで彼女の顔面を蹴り上げると、回し蹴りで吹き飛ばす。


「最初に行っておくでござるが、拙者は欠片も容赦しないでござる。お主らを確実に、今度こそ倒し、二度と師匠の前に立てぬようにするのが、拙者の務め!」

「急に、流暢に……喋ってんじゃねえ!」


 反撃を試みるジャスミンだが、剣を握る手に力が入らないだけでなく、どうにか振り回してもカレンにまるで当たらない。

 さっきの負傷からは想像もつかないほど、彼女は四本足で機敏に動くのだ。


「不思議でござるな。仲間を想えば、痛みも吹き飛ぶ。師匠を愛せば、疲れも無くなる。お主にはあるか、そんな奇跡が? ないのなら、拙者には勝てぬでござるよ!」


 敵の周囲を機敏に駆け回り、殴り、蹴り、かかと落としで脳天を打ち砕く。


「うぎ、ぶっがぁ!? こんな、速さ、ぶざげんばあぁ!」


 ジャスミンはてっきり、自分がやられたのと同様にいつまでも暴行を加えられるのではないかと錯覚したが、ぐらぐらとよろめいた頃に、カレンはすっと身を引いた。


「……そして拙者には、弱い者いじめの趣味はないでござる。過去の拙者とは違う、師匠のおかげで正しい道を、忍者の道を歩むようになった今は!」

「なに、を……」

「ついでに言っておくが、もう決着はついたでござる。お主の体、よく見てみるといい」

「はっ!?」


 言われるがままジャスミンが自分の体を凝視すると、体液や血の上から、真っ青な粉が散りばめられていた。カレンがいつの間にか鞄の中から取り出した小瓶の中にある同じ色の粉を塗りつけられたのだと、彼女は直感した。

 これが何か、と言うよりも先に、カレンは爪を仕舞った。もう決着はついたと言いたげな表情で、彼女は静かにジャスミンを見つめると、小瓶を鞄に片づけた。


「殴った時に、拙者と師匠お手製の特殊な粉末を塗りつけたでござる。迂闊に動けば、粉末が発火してお主の体が焼けるでござる。火の色、勢いから、名を冠して――」


 懇切丁寧な説明を、ジャスミンは聞こうとしなかった。


「ハッタリがまじでんじゃねえぞ、ぐぞがぎ……」


 自分が負けるなど有り得ない。敗北するのはサラやマリィのような間抜けな不細工だけで、自分のように可愛らしく強い美少女が敗北するはずがない。

 ジャスミンが間際まで抱いていた幻想は、果たして打ち破られた。

 ちり、という音。青い粉と服が擦れ、火花が瞬いた刹那。


「――忍法・火遁『蒼炎花蓮』そうえんかれん、でござる」


 蒼い炎に、ジャスミンが包まれた。


「おっぎゃああああああぁぁぁぁ――ッ!?」


 喉の奥から、可愛らしさとは程遠い絶叫が轟いた。

 醜悪な少女を覆う炎は、さながら花の如く舞い燃える。あまりの美しさに、観客達は息を呑むが、その実は衣服と肌を焼き尽くさんとする懲罰の業火。動けば手足を、呼吸をすれば肺すら燃やそうとする地獄の焔。

 狂ったように喚いていたジャスミンだったが、やがて声は静かになった。炎の中からゆっくりと崩れ落ちた彼女の姿は、二目と見られないほど陰惨たるものだった。


「あああぁぁ……あぁ……あ……」


 顔も、体も火傷だらけ。服は塵となり、真っ黒こげ。それでも生きてだけはいるようで、小さな呼吸を繰り返すだけの生き物へと成り下がっている。

 試合開始前とは別の何かに変貌したジャスミンに、カレンはとどめを刺そうとは思わなかった。ただ、静かに衣服を整え、小さなため息をついて見下すだけだった。


「肌を焼くのみに留まったとは、つくづく幸運でござるな。しかし、もう動けまい」


 彼女はちらりとだけ一瞥して、すたすたと歩き去った。しかし、彼女が向かう先は仲間のもとではなく、沈黙した観客のところでもない。

 選手が迫ってくる姿を見て、冷や汗を流して慄くウォンディのもとだ。

 目にも見える狼狽えぶりから、ウォンディがカレンを動けなくした事件に関わっているのは明白だ。それでも、何をされるのかと思いつつも、彼は努めて平静を装う。


「何の用かね、カレン選手! スモモ、早く試合の結果と、次の進行を報告して……」


 猫の細い瞳が、きっとウォンディを睨んだ。


「……拙者の目を誤魔化せると思うな。知っていたな、マリィが卑劣な手段を取っていると」

「な、なな、何の話をしているんだ!? 私はお前らを外に出さないようにだけ……あっ」


 そのせいだろうか、彼が思わず関与を暴露してしまったのは。

 慌てて取り繕おうとするが、後の祭り。既に、スモモは白い目で彼を訝しんでいる。何をしたのかまではさっぱりだが、彼の悪評は決して今日に始まったわけではなさそうだ。


「組合長……?」


 だが、ここで彼をねめつけても、解決には至らないだろう。

 何より、戦いは終わったのだ。今は、それに勝る安堵はない。


「……まあ、決闘が終わってから話を聞かせてもらうでござる。受付嬢よ、勝利宣言を」

「あ、はい……」


 カレンが背を向けて、改めて仲間のもとに歩みを進める。

 彼女の後ろ姿を見つめながら、スモモは拡声器を手に取り、あらん限りの声で告げた。


『この試合、フォンパーティのカレンの勝利ですーっ!』


 腕を天高く掲げ、にかっと笑うカレンの勝利を。

 会場が、今日一番の大歓声に包まれた。

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