25 兄


「おおおぉ王よ! 慈悲を、慈悲をお与えください!」


 何も考えられなくなった頭に、耳障りな声が響いてきた。


「私は、あなたのお役に立てる! そう、クイナを殺さず餌とし、アイーダをこの場におびき寄せた! まだ、これからも人間どもから魔力を搾取するため、私は尽力いたします!」


――ジョエル・マクレイン。


 すっかり忘れていたその存在を思い出し、復讐の火がわずかに蘇る。


 そうだ。国も、王も、魔法も今はどうでもいい。だがジョエル、貴様は――っ!


 思い立つと同時に、兵士の粗末な鎧からいつものローブ姿に戻る。状況がイレギュラーすぎて今まで使えなかったが、いつでも装備を変えられるよう準備をしていた。


「御身が動かずとも! ジョシュアを使うことを進言いたします!」


 動き出そうとした瞬間、ジョエルが叫ぶ。その声に反応したのは俺だけではなく、アイーダと、その母、クイナも同じように硬直する。


 そして魔族も、その口を歪めた。


『ふっ、いいだろう、醜悪な人間よ。貴様の進言、受け入れた。ジョシュア、――本来の役目を思い出せ』


 魔族がそういった瞬間、アイーダの後ろに控えていたジョシュアが頭を抱え、うずくまった。


「っう……、ぅうあぁあ!」


「お兄様!?」


 アイーダが不用心に駆け寄る。その姿を見て、俺は思わず舌打ちした。こんなことになるんだったらジョシュアの正体を教えておくべきだった。……とは言っても、どんな魔法で偽物を作っているのかがわからない以上、アイーダを説得するのは無理だっただろうが。


 無言でジョシュアが立ち上がる。アイーダを見下ろすその瞳には、おおよそ意思や感情と呼べるものが欠落していた。


「おにい……さま?」


「アイーダ! 逃げなさいっ!」


 戸惑うアイーダに、母が怒号を飛ばす。


「っ!」


 伸ばされたジョシュアの手を、間一髪のところでアイーダが避ける。


「どうして、どうしてなの、お兄様! 何か言って!」


 それは、問いかけというよりは悲鳴だった。今までの人生、そしてアイーダの人生で一番濃密だったこの二日間の行動で、アイーダはジョシュアにより一層の信頼を寄せていたはずだ。


『偽りの家族に気づかぬか……。まったく、愚かしいな』


「偽り?」


 魔族の言葉に、アイーダが怪訝そうに尋ねる。


『近衛騎士のジョシュア・キャバディーニ。妹のような才もなく、どこまでも凡庸な騎士。だが誰よりも賢い男だった。わずかな違和感を糸口として、我に気づかれないよう慎重に立ち回り、限りなく真実に近づいた。そして、我に殺される前に姿を消した。愛すべきものも守るべきものも、全てを置き去りにして逃げだした。賢しく弱い男だ』


 魔族の言葉に、奥歯をかみしめる。そうではない。確かにジョシュアは逃げた。だが逃げた先で、後悔に身を焼きながらずっと時が来るのを待っていたんだ。決して、お前が思っているような男ではない。


『わかっただろう、アイーダ。貴様が兄と呼んでいたものは、ただの人形。お前を守るものなど、もうこの世にはいないのだ』


「そ……んな」


 ジョシュアを見つめるアイーダの目が絶望に染まる。頼りたい、すがりたい人間が、今この場でいなくなった。それどころか、頼っていた人間が自分に敵意を向けている。その現実が、アイーダの心を確かに折ってゆく。


「お……にい、ちゃん」


 か細く、糸のような声がアイーダの口から洩れる。日頃のお兄様という呼び方ではなく、一人の家族として、信頼を込めたその呼び方。


 ――ああ、そういえば。


 そんな呼ばれ方もしていたな……。


『生きてさえいればいい。抵抗できないように刻んでおけ』


 魔族の言葉に従い、ジョシュアは剣を抜く。しゃりん、という澄んだ音が、どうしようもなく耳についた。



 動かなくてはならない。

 ――いや、動く必要はどこにもない。



 アイーダを救わなければ。

 ――救うなんてとんでもない。順番が変わるだけだ。もともとアイーダには死んでもらう予定だ。



 思考と感情が揺れ動いて定まらない。自分が何を優先すればいいのか、何をしたいのかがわからない。奴がアイーダに向かっている間にジョエルを殺し、逃走する。それが最適解であることはわかっているはずなのに、どうしても足が動かなかった。


「……お兄ちゃんっ!」


 ジョシュアが剣を振り下ろす寸前、アイーダが叫ぶ。その声に、ジョシュアの動きが一瞬だけ止まったように見えた。


 動くなら、今しか……!


「アイーダっっ!」


 そう思った瞬間、目の前で別の人影が動き、思わず動きを止める。


 クイナはジョシュアの一瞬の隙を見逃さず、足に魔力を込めて跳躍、一瞬でアイーダとジョシュアの間に躍り出た。


 ギィン、と硬い音が鳴り響く。


 両手を交差させたクイナは、その腕にはめられた枷でジョシュアの剣を受け止めていた。


「ここは私が食い止めます。あなたは逃げなさい!」


「そんな‼ また見捨てろというの、お母様!?」


「そうです!」


 アイーダの悲痛な叫びに、クイナは気丈に答えた。その光景はどうしたって、俺にあの日を思い出させる。


「でも、お母様! 相手はお兄ちゃんなのに……!」


「だからよ、アイーダ。間違ってもね、ジョシュアにあなたを傷つけさせたくないの。それが、たとえ偽物でも。だから……生きなさい! アイーダ!」


 その言葉を受け、アイーダは走り出す。そしてそれを見届けたクイナは安堵のため息をつき、次の瞬間……。


 ざんっと、大きくもない音が広く、響く。


「っかは……ッ」


 アイーダの目が見開かれる。


 その感情は一体どんなものだったのだろう。


 兄と慕ったものに、愛したものに、同じくらい愛していた家族を、母を、無残に切り裂かれるというのは。


 ああ、想像もしたくない。だって、想像してしまったらきっと……。



「おおおおおぉぉぉぉっ‼」



 俺は、あの日に戻ってしまうから。




 忘れるものか、失ってたまるものか。あの日抱いた怒りを、絶望を、悲しみを。


 頭の片隅に残っている理性を全て追いやって、俺は感情に身を任せることにした。既にジョシュアはアイーダとの距離を詰めつつある。だが、追いつかせはしない。俺は渾身の力で、飛ぶようにジョシュアの背中を追う。先ほどのクイナの跳躍に比べれば見劣りするが、普通の人間としては驚異的なスピードだろう。疾駆する最中、ジョエル・マクレインのすぐ横を通り過ぎる。


「――」


「――っ!?」


 一瞬だけ交錯する視線。だが、それだけで俺の言いたいことは伝わっただろう。


 お前を殺すのは後回しだ、と。


 復讐など今はどうでもいい。自分の生きる理由をどうでもいいと言い切れるなんて、我ながらおかしいとは思う。だが、今この場において、それ以上に重要なことが起きている。この状況を見逃してしまえば、俺はもう二度と、母を、メイアを……。


 思い出すことすらできなくなってしまう。


 アイーダを間合いに収めたジョシュアが血に濡れた剣を掲げ、振り下ろす。だが、その剣がアイーダを傷つけることは無かった。


 キィン、と。金属同士のぶつかる音が聞こえた。


 ローブから取り出した『本物の』ジョシュアが鍛えた剣を手に、俺はアイーダとジョシュアの間に割り込む。


 無感情に繰り出される数々の斬撃。本物のジョシュアであれば、ここまでの剣は振るえないだろう。技量に関しては間違いなく超一流の動きだ。だがそれでも、


 その剣はアイーダに届かない。


「……仮にも兄だった存在が」


 俺がすべてを切り伏せるからだ。




「簡単に、妹を傷つけるなッ!」




 ジョシュアの瞳が、一瞬だけ震えた。その刹那の時だけ、体に魔力を感じる。


 その好機を逃さず、魔法で身体能力を強化。剣戟の均衡が破られ、ジョシュアは大きく飛び退き、俺と距離をとった。


 ――ジョシュアはアイーダとともに、俺が騙したままだ。だが、今は魔法を使えない。魔族に洗脳されているから、認知が正しく働いていないのだ。


 なら、今一瞬だけ感じた魔力は……?


 推測が正しければ、突破口はある。だが今は、ジョシュアよりも先に……。


「何を呆けてる、アイーダ! お前は何のためにここに来た!?」


 アイーダは俺の背後で、何をするでもなく地に伏せる母親を見つめていた。


「でも、でもお母さまは……」


「死んでない、まだ生きてる!」


「っ!?」


 確かに重傷だ。呼吸も浅い。だが、出血を止めればまだ何とかなる。



「お前は――、お前は母を救え! アイーダっ‼」



 回復魔法はどの属性にも属さない魔法だ。魔法という体系から外れていると言ってもいい。回復魔法の実用化は優秀な貴族が頭を抱えている課題だ。だが、完全適性のアイーダならば使える可能性がある。


 アイーダが立ち直ったのを見て、俺はジョシュアに向き直る。




「待たせたな。お前に、兄の矜持を教えてやる」




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