03 家族



 自分の家に帰ることがこんなにも怖いと思ったことはない。


 何も考えずにとぼとぼと歩いていたら、自然と家の方向に足が進んでいることに気が付いた。同時に、家に近づくにつれて歩みが遅くなっていることにも。


 マクレイン家は爵位こそ低いものの、その歴史は古い。地味だが着実に功績をあげていて、王族に重用されることも多かった。父はそのことを誇りに思いながらも、いや、思うからこそ、出世欲というものを人一倍抱えている。


 俺も、昔からよく聞かされていた。王のためになれ、国のためになれ、その身を捧げよ、と。そして俺もそれに納得して生きてきた。父の言葉にうなずき、父の考えに賛同して。だからこそわかる。魔法の使えない俺が、今の父にとってどういう存在なのか。


 もう、目の前に屋敷の門がある。マクレインの門だ。その敷居を跨ごうとしたところで、足はぴたりと止まってしまった。


 門から延びる道。その先にある扉の前に誰かが立っている。



 父だ。



 その姿を認めた瞬間、今まで漠然と頭にまとわりついていた怖さが、純然たる恐怖として体を支配する。


 父は公務以外ではめったなことでは書斎から出ない。食事だって、大抵一人で摂っている。父が書斎から出るのは、そう。俺や妹、母を叱咤するときくらいだ。


 そんな父が、屋敷の外に出ている。


 今まで父から叱責を受けることは何度もあった。そのたびに俺は震えて耐えてきたが、今回はそんなものでは済みそうにない。父に対して感じる恐怖は今までにないほどに膨れ上がっていた。


 俺が立ち止まったことに気づいたのか、父が大股で近づいてくる。距離が一歩、また一歩と近づくたびに、俺の全身から嫌な汗が流れ、同時に思考能力を奪っていく。頭が真っ白になるのに、そう時間はかからなかった。



「ジーン」



 その声に、意識が戻る。


 聞きなれた声だ。低く厳格で、心臓を鷲づかみにするような支配の声。


「は……、はいっ父さま」


 反射で声が出る、が、その声も恐怖で震え、みっともない音として自分の耳に届く。


「歩けないのか」


 父が尋ねてくる。答えなければならない。大丈夫です、自分で歩けます、と。


「だ、大……丈夫、です。自分で、あ、あるけ……ま」


「ふん」


 言い終わる前に、無様な俺の声を聴いた父は嘲りの声を漏らす。


 おもむろに、父が俺のほうへと腕を伸ばす。反射的に頭を腕で覆い隠し、身構えてしまう。


 いつものような暴力の訪れを待っていたが、予想外にそれはやってこない。しかしその代わりに、掲げた腕が強い力で握られた。


「っ――!」


「はっ、軟弱者が」


 父は元軍人だ。貴族として軍全体を指揮、鍛える立場にあった。今は引退し執政に加わっているが、当然その体は引き締まり、鎧のような筋肉に覆われている。俺が体術の講義で学年首席を取れたのも、すべては父の教育によるものだ。


 そのまま、俺は父に引きずられて屋敷の中に入る。


 バタン……と、外へとつながる扉が閉められた瞬間。俺は床に放り投げられた。おぼつかない動きのまま、音を立て無様に床に倒れこむ。


「帰ったのですか!?」


 その音を聞きつけ、母が玄関ロビーへとやってきた。妹のメイアは……一緒ではないようだ。そのことにほっとする自分が情けなかった。今の自分の、みじめな姿をメイアに見られたくなかった。まじめで、優秀で、誇り高い自分だけを見ていてほしかったから。


「……丁度いい、リリアナ。お前も見ておくがいい」


 やってきた母を見ながら父が言う。いったい何を? と思ったが、それが俺自身の処分であることは想像に難くなかった。



 ――しゃりん、と。



 音を立てて、父の腰に吊り下げられた剣が抜かれる。肉厚で凶悪な、敵を叩き切るための剣。


 脅しではない。今抜かれたその剣は、傷をつけるためでも、体を切り裂くためでもなく、ただ俺を殺す、そのためだけに抜かれたのだと悟ってしまったから。


「あなた!」


 同じ結論に至ったのだろう母が、こちらに手を伸ばしながら駆け寄ってくる。


 その手を取ろうと腕を持ち上げたとき、――しゅっと、風を切る音が聞こえた。


 ぼとっ、と控えめな音を立て落ちる腕。それ見て、ようやく悟る。



「っづあぁあっ!!」



 自分の右腕が、無くなっている。


「ジーン!」


 腕が……俺の腕が、無い? 切られた?


 切られた腕が熱い――。 いやこれは、痛いのか? わからない、ただただ熱い、気持ち悪い……! 腕の断面が空気に撫でられ、そのたびにチリチリと、熱さとも痛みとも取れない感覚が襲ってくる。


「ぐ、がああぁあ……!」


 手のない腕をつかみ、うずくまる。


「ジーン、よくも私の顔に泥を塗ってくれたな」


 父が何かを言っている、だがうるさい叫びにかき消されて何も聞こえない。


「貴様の代で子爵になれるよう、どれだけの教育と根回しをしたと思っている。……それを全て無駄にしたのだ! 貴様が、貴様の無能が!」


「うぐっ! ……ぁ」


 腹に衝撃が加わり、あおむけに転がる。蹴り飛ばされたらしい。痛みに暴れる俺を抑えるように父が俺の胸を踏みつけた。


「爵位を上げるための道具がっ! まさかこんなゴミだったとは! 貴様を育てた十五年間、すべてが無駄だ! 無駄以下だ!」


 父が剣を真下に、俺の胸へと向ける。


「……その命を持って償うがいい」


 まっすぐに降ろされる切っ先に、やってくるであろう痛みに、俺は目を瞑った。


 どしゅ――と、剣が身を貫く音が聞こえる。遅れて、頬にぽつりと水滴が落ちた。




「かあ……さま……?」




 目を開くと、そこには俺に覆いかぶさる母の姿。その体からは、剣の切っ先が突き出ていた。


「かあ……さま……!」


 溢れる血がまた一滴、頬を濡らした。


「っジ……ン。逃げなさいっ……!」


「そんな……、でも、母さま!」


「私のことはいいの。あなたが生きてさえいれば、……それでいいの」


「ゴミを庇うか、リリアナ……。いいだろう、ならば私にも考えがある」


「――っ!」


 母の瞳が、父をにらんだ。


「愛情をこめて育てた息子が!」


 叫びながら、父が剣を引き戻す。母の傷口から、口から、大量の血があふれ出す。


「魔法も使えぬ無能だと知り!」


 血を吐きながらも母は父に向き合う。その両手に魔力を宿して。


「精神が壊れ母親は自死! ショックで娘の気は狂い! 当の息子も!」


 父が突きを繰り出す。その切っ先は母と俺を同時にくし刺しにせんと迫る。


「その罪と己の無能さに耐えきれず、自害!」


「くっ……」


 剣は母の防御魔法にそらされ、肩を浅く切り裂くにとどまった。しかし父の手は止まらない。


「家族全員を失った私は、それでも王に尽くす! どうだ、なかなかに胸打つ話じゃあないか!」


 言いながら、今度は袈裟に切りつけ、切り上げ、また突き、薙ぎ払う。


「ああっ!」


 母は体中を切りつけられ、血を流し、けれども決して、俺を自分の背から出そうとはしなかった。


「……ジーン」


「母さま……!」


 聞こえてくる母の声はどうしようもなく震えていて。


「メイアのこと、お願いね? ……お兄ちゃんなんだから」


 背中越しに見えたその横顔は、たとえようもないほどに優しく、美しく、微笑んでいた。



 ――ずんっ、と音がして、



 その背中から、剣の切っ先が顔をのぞかせた。


「嫌だ……母さま、母さまっ!」


 伸ばした腕には手も指も無く、空をつかむことすらできずに、ただただ彷徨う。


 虚しさを噛み締めたとき、伸ばした腕とは反対の手が強く引っ張られた。


「兄さま! こっち!」


 メイアだった。


「待て、メイア! 母さまが!」


 俺の制止を聞かず、メイアは全力で俺を屋敷の階段下へと引っ張っていく。


「メイア! 待って! 待つんだ! 離してくれ!」


「離さないッ!」


 ひと際大きな声を出したメイアは、俺を階段下の物置へと押し込み、自分も続けて入ってきた。そしてそのまま奥へ進み、俺も知らない抜け道へと連れてゆく。


「どうしてだ?」


 メイアの行動に驚きながらも、俺は問うことをやめられない。


「どうしてだ! 父さまは本気だぞ。あのままじゃ母さまは、……母さまはっ!」



「わかってる……。わかってるよ! そんなことッ!」



 涙にぬれた声で、メイアは怒鳴り返す。じゃあどうして? そう聞き返す前に、メイアは俺の胸元に顔をうずめてきた。


「わかってる……。わかってるっけど……っ」


 嗚咽の混じる、くぐもった声。感情を抑えこもうと必死になって、俺の服をぎゅっと握る小さな手。爪が食い込むほどに強く握って、服のしわに血がにじんだ。


「……頼まれたから! お兄ちゃんと一緒に逃げてって、かあさまにっ! だからっ、だからわたしは……っ。わたしだって、戻りたいよっ‼」


 ついに耐え切れなくなったのか、メイアは声を上げて泣き始めた。



「かあさまのところに……戻りたいよぉ……」



 服が涙でぐっしょりと濡れるのに、そう時間はかからなかった。



 腕の痛みなんて忘れていた。そんなことよりも、妹になんの声もかけてやれない虚しさが、母を守れなかった無力さが、重く重くのしかかって、




 ――何よりも、痛かった。





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