天空のシーソー

永山良喜

天空のシーソー

 もうどのくらい登っただろうか。周りの霧が今いる高さを分からなくする。かなりの服を重ね着しているにも関わらず、体感温度はどんどん低くなっていく。いや、実際気温は低くなっているのだろう。馬上淑子まがみよしこは自分の体に力を入れ、足を出した。



 発端は3ヶ月前、まだ寒い冬のことだ。大学生の一人息子の孝人がなかなか帰ってこず、心配していた。机の上の煮物はすっかり冷え、時計が音をたてていた。淑子は孝人の帰りを今か今かと待ち望んでいた。

 机の上のスマートフォンがけたたましく鳴り響いたのはその約一時間後だ。発信者は知らない番号だった。出る。

「馬上淑子さんでしょうか?」

 スピーカーから低い男の人の声が響く。淑子は首をかしげながら、「はい」と答える。

「息子さんの馬上孝人まがみたかとさんが事故に遭われました。今すぐ来てください。」


 淑子は車を飛ばし、急いで指定された病院へ向かった。孝人はいくつもの無機質なコードで機器と繋がれており、その様子は酷いものだった。淑子は医者の説明を聞き、病室の外で待った。しかし、残酷なことは続くものだ。

「馬上さん。来てください。」

 一瞬意識が戻ったのかと期待した自分がバカだった。否、確かに意識は戻ったのだが、意識が戻ったからといって治るという方程式はこの世にない。ベッドの上では孝人がこちらを向き、薄く笑っていた。

 すべての期待が吹き飛び、代わりに絶望が淑子を支配した。

「お母さん、ありがとう。」

 孝人の最後の言葉だった。孝人はこの言葉を言うためだけに意識を戻したのではないかと思うほど、言葉をいった後すぐに亡くなった。

 淑子は警察の話を聞いた。

「孝人さんが歩いている後ろから、暴走した乗用車が突っ込みました。孝人さんをボンネットに乗り上げた後、そのまま走って電柱にぶつかりました。運転手は、エアバッグで無事だそうです。」

 運転手の呼気からはアルコールが検出されました、と刑事は続けた。淑子は今すぐにでもその犯人を殺しに行きたい衝動に駆られたが、体が力を失っていた。結局淑子にはその場でただ泣き崩れることしかできなかったのである。

 孝人を失った淑子の生活はとても静かなものだった。食事は最低限のものを取り、あとは孝人と自分の写真を見るだけ。夫は5年前に失い、悲しみを共有する相手もいない。一人で抱えるしかない。

 運転手への処罰は軽いものだった。何しろその運転手は地元の市議会議員の息子だったらしく、警察も男に忖託してなにもしない。よりによってその男も横暴で自分勝手のため、どうすることも出来なかった。

 男には数ヶ月の免停と数十万円の罰金のみ科せられた。淑子はただ自分が非力なことを痛感し、ただ哀しむ毎日だった。

 しかし、淑子はある話を聞いた。

 それは、男の処罰を電話で知らせた刑事からだった。

「あの、ひとつ、救いになるか分かりませんがお伝えします。」

 なんですか、と力なく答えた淑子に刑事はこう続けた。

「日本アルプスの南部に、神崎山かんざきさんという山があります。そこには神がいて、ある条件を満たせばどんな願いも叶えるそうです。」

 そう話した後に慌てて「いや、そんなこと言っても困りますよね」と電話を切ろうとした刑事に淑子はもっと詳細を聞かせてくれと頼んだ。もう何もないのだ。すがれるものなら、すがりたい。

 刑事は困惑した声を出し、話を続けた。



 淑子の足はすでに限界を叫んでいるが、淑子はおかまいなしに進んでいく。神崎山はそこまで高くないが、周りに有名な山がないので道が舗装されておらず、登りにくい。

 淑子は頭の中で何回も復唱する。

「求めるものと同じ対価のものを差し出せば、望みを叶えてくれる。さらに、差し出した対価のものは奪われない。しかし、神の前にはシーソーがあり、シーソーで釣り合わなければならない。もし釣り合わなければ、願いを叶えてくれないどころか差し出したものまで奪われる。」

 刑事が話した内容だ。神崎山の頂上に着くと神がいる。その神についての内容だ。淑子は登りながら何度も復唱する。何か考えてなければおかしくなりそうだからだ。普通の山なら景色も変わるだろうが、この山は霧だらけで足元すらまともに見えない。白い靄をひたすら掻き分け、あるかないか分からない希望に手を伸ばす。しかし、掴むのはただの霧だ。

 淑子は腰を下ろし、リュックを開く。腹が減ったのだ。孝人が死んでから著しく減った食欲も、さすがに登山の運動量には勝てない。淑子は麓のコンビニで買ったおにぎりにかぶり付く。中身は孝人の好きだった明太子。このおにぎりを食べれば、孝人のことを思い出し頑張れると思ったのだ。それは見事に当たり、淑子のからだの中に元気が沸いてきた。淑子は立ち上がるとスポーツドリンクを飲み、再び歩き始めた。



 休憩からまた同じ量ぐらい歩いただろうか。淑子が歩いていると、四角い柱が立っているのが見えた。「1900m」と書かれているのを見て、淑子は自分が興奮していることに気づいた。神崎山は2000mちょっとなので、後少しで頂上につく。走り出したくなるが、下山を考えやめておく。自身の興奮を押さえ、慎重に歩いていく。

 するとすぐに霧が薄まっていくのを感じた。しかしよく見ると下の方に霧が溜まっており、上の視界が良くなっていくのだ。淑子はさらに歩き、坂がどんどん平らになっていった。淑子はついに坂が平らになったのを感じ、視線を上にあげた。すると、突然目の前が眩しくなり、目を開けるとそこには・・・。

 言葉には表せないほど神々しいものがそこにはいた。淑子は気づけば片足の膝をつき、家来が王にするポーズと同じポーズをとっていた。

「そなたは、ここに何をしに来た。」

 神の声が聞こえる。脳に直接届いているが、少し気を抜けばすぐ記憶から消えてしまいそうなほど儚かった。

「私は・・・。伝説を聞き、ここにやって参りました。」

「そうか。なら、どういった形で物事が進むか分かっているな。何を望む。そして、何を差し出す。」

 淑子は深呼吸をすると、はっきりと言った。

「私は、私の息子である孝人を生き返らせてほしいと望みます。そして・・・。」

「私の命を差し出します!」

 淑子は言い切った後、思わず目をつぶった。ここで神に会った時点でキャンセルボタンの無い確認画面に進んだようなものだったが、こうはっきり言うとやはり一段と覚悟してしまう。

 だが、後悔はなかった。息子のために死ねるなら本望だ。悔いはない。

 神はそれに対して何の反応もせず、ただ淡々と進めた。

 気づけば神と淑子の間にシーソーが現れており、神が右手をあげた。すると、右手の先に白い輪郭の無い光を発する球体が現れた。淑子はそれを見つめる。

「これはそなたの息子、孝人の魂だ。本来ならとっくに他の個体に入っているのだが、この世に深い心残りがあるみたいでな。残しておいたが、それが正解だったわけだ。」

 そして、左手を淑子の心臓の近くに翳すと、淑子の体からさっきと同じような白い球体が出てきた。

「それがそなたの魂だ。」

 そうすると、二つの魂をシーソーの両側に置いた。シーソーが揺れる。

 淑子は緊張した面持ちでシーソーを眺めていた。どうか釣り合ってくれ。

 シーソーは一瞬だけ釣り合った――ように見えた。しかし、シーソーは残酷にも淑子の魂が乗っている方に傾いた。

 淑子は絶望した。シーソーが釣り合わなかったのだ。孝人が生き返らないどこらか、自分も死ぬ。だが、淑子にとっては自分が死ぬことはどうでもよく、それより孝人が生き返らないことがショックだった。何のために来たのだろうか。何のために登ったのだろうか。一筋の希望と今までの全てが脇の崖を転げ落ちていくようだった。

「私は感心した。」

 神が口を開いた。さっきまでの淡々とした口調とは違い、感動したような声だった。

「今までここに来た者達はどうしようもない奴らばっかりだった。自分は大したものを出さずに、図々しく要求してきた。中には動画配信者が来て、私のことをネットにアップロードしようとした。当然、そこの崖から突き落としたが。」

 神は喋っていたが、淑子の耳には入っていなかった。神は一通り喋ったあと、淑子の方を見た。

「面を上げよ。」

 淑子は力なく顔をあげる。

「そなたの息子を思う気持ちは素晴らしい。私は久しぶりに感動したぞ。」

「ありがとうございます。」

 でもどうせ生き返らせてくれないんでしょ、という顔の淑子に向かって、神は続けた。

「確かにこのシーソーは釣り合わなかった。だが、だからといって願いが叶わないわけではない。」

 淑子が顔を上げる。

 神は初めて笑うと、話し始めた。



 男は地元の繁華街を女と共に歩いていた。男には金があり、いくらでも女が寄ってくる。何か起こしたところで、パパが揉み消してくれる。この前だって、揉み消してくれた。何も案ずることはない。

 男は女を自分のそばに寄せ、これからホテルでも行こうか、と言ったそのときだ。二人に車が突っ込み、女は脇に吹き飛ばされたが、男はボンネットに乗っかったまま車は走る。車は数十m走ったあと、ブレーキが効き、車が止まった。しかし、車から運転手が降りてくる様子はなく、むしろ車はボンネットから落ちた男を轢き、そのまま進んだ。辺りからは悲鳴が聞こえ、救急車を呼ぶ電話が鳴っている。

 車の中では淑子が、笑っていた。



 顔をあげている淑子に、神は続けた。

「そなたの息子の命が乗っているシーソーの方に、これを乗せよう。」

 そう言って神は、何か四角いチケットのようなものを乗せた。

「これはそなたの息子を轢き殺した男を殺す権利だ。」

 え、と驚く淑子。神は続ける。

「そなたの命では重すぎる。ここまで来る努力だけで十分だ。だが、そうすると今度はそなたの側が軽くなってしまう。なら、この条件を付け加えよう。」

 そう言って、神はハードルのようなものを乗せた。

「そなたはこの男を轢き殺し、ここまで捕まらずに来い。来れば、そなたの願いを全て叶えよう。」



 淑子は車のアクセルを深く踏み込んだ。あとは逃げるだけ。リュックはもう車の助手席に置いており、あとは神崎山に行くだけだ。孝人を生き返らせて犯人を殺す。ここまでここまで嬉しい復讐はあるだろうか。

 しかし、まだ油断はできない。警察も捜査線を張るだろう。素早く神崎山に向かわなければならない。淑子はギアを変え、さらにスピードを出した。

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