第2話 女の子

 「さらぁっ…!!お願いだ、頼むから父さん達を置いていかないでくれ…!さら、さらぁぁっ…」





 どうやら、扉や壁の防音性が高かったらしい。その声は開けた途端沙羅に襲いかかった。







 (ああ………)




 




 その一瞬で悟った。





 あたしじゃなかった。




 体中で悲鳴をあげるような、聞いているだけで誰もが辛くなってしまうような声。相手を慈しみ、だからこそ悲しみに明け暮れる声。


 こんな声、あたしは知らない。




 なんで一瞬でも、あたしかもなんて思ってしまったんだろう。考えるまでもなく、そんな声であたしを呼ぶ人なんて端からいないのに。


 当たり前の事実を突きつけられただけなのに、目の前がくらくら明滅する。

 自分の中にまだ、「誰か」を思い浮かべる期待が残っていたなんて、知りたくなかった。




 「さら、私達の愛しいさら……」


 その声は「さら」を呼んでいるが、「沙羅」ではなかった。


 そしてそれは恐らく、目の前にうずくまる小さな女の子に向けられたものだ。




 女の子はどうやら、湖のようなもののほとりにしゃがみ、その中を覗き込んでいるようだった。今更ながら湖があったことに気がつく。あの声は、湖の中から聞こえていたのか。


 彼女はこちらに背を向けていて表情は一切見えないのに、震える肩から、それに合わせて揺れる柔らかそうな銀鼠色の髪の毛から、微かに漏れ聞こえる嗚咽から、痛いほどに感情が伝わってきた。




 「…っ、お、とうさま…おかあさまぁっ…!リック……っく、ごめんな、さ…」





 なんて悲しい空間なんだろう。




 彼女の声と、恐らくその父親であろう声と、父親の声に混じって女性の嗚咽も聞こえる。母親だろうか。


 その全員が、大切な人との別れを受け止めきれず、嘆いている。




 可哀想に。


 まだ小学生にも満たないくらいに小さな女の子なのに。可哀想に、こんなにちゃんと愛されているのに。





 でもきっと、あたしたちはもう戻れない。


 彼女の体も沙羅と同じく透けていて、沙羅とは違い、体から漏れ出る光は切れかけの電球のように弱々しい。





 女の子は依然沙羅に気づく気配が無いが、流石にそろそろ申し訳なくなってきた。人の大切なお別れを勝手に覗き見るのは趣味じゃない。




 話しかけるのもはばかられるものの、仕方ない。





 「あなたも、さらっていうの?」




 そう言ってから、「大丈夫?」とか、もっと相手を気遣う言葉が出てこなかったのか、と自分に呆れてしまった。咄嗟に出てきたのがこれだったのだ。


 先程の部屋(?)よりも、水がある分反響音は少ないが、それでも女の子には届いたみたいだ。


 その子は肩を大きく跳ね上がらせ、勢いよくこちらをふり返った。あまりの勢いに、湖の中に落ちてしまうのではないかと思ったくらいだ。




 ふり返った彼女の顔は痛ましかった。


 驚きに見開いた大きなはちみつ色の瞳は赤く腫れているし、頬は涙で濡れていないところなんて無いのではないか。きっと泣いていなかったら、お人形のように可愛らしい子だ。もう随分と長い間、こうして泣きはらしていたのか。





 「あなた、寿命じゃないの?」


 「え?」




 女の子の薄く小さな唇から発せられた言葉があまりにも予想外で、素で聞き返してしまった。彼女はきょとんとした顔で沙羅を凝視している。どうやら先程の沙羅の言葉は良く聞いてなかったようだ、一切返事になっていない。



 (確かに事故死だから寿命じゃないかもしれないけど…なんで?)



 呆気にとられていると、女の子はツカツカとこっちに向かってきた。




 「おねえさん、お願いします!!」




 すごい剣幕で胸ぐら、というよりは身長的にへその辺りを掴まれる。やっぱり透けてても掴めるんだ。


 下から見上げてくる女の子は、涙でぐしゃぐしゃの顔ではあるものの、もう泣いてはいなかった。眉にぎゅっと力をこめ、意志を感じる強い瞳で沙羅の顔を覗き込んでいる。




 「な、何を…?」


 彼女の瞳に気圧されて、へろへろとした声しか出てこない。10歳は離れてるであろう子供に、情けない。


 彼女はどうやら焦っているみたいだった。


そのせいだろうか、その身からこぼれ出る光がゆらゆらと揺れている。


 


「こちらへ」


 そう言って先程から掴んでいたところを引っ張る。力は弱いのに、有無を言わせない気迫がある。


 沙羅は導かれるままに、女の子が元々しゃがみ込んでいた湖畔に立った。



 そこで立ち止まると、女の子は再びこちらを仰ぎ見る。一瞬睫毛が影を落とし、何か躊躇しているようだったが、再びその大きな瞳に沙羅を映したときには、迷いの色は一切なかった。




 「おねえさん、お願いします。私におねえさんの命をくださいませんか」




 だから、彼女の言葉を聞いても、そんなに驚かなかった。目線を宙に泳がせてしまったのは、驚きではなく、それが不可能だと分かっているからだ。



 「えっと…あげられるのであれば喜んで、と言いたいところだけど、」

 「出来るんです」


 女の子は食い気味に言葉を重ねる。


 「出来るんです、あなたにはまだ寿命がありますから」

 そう言ってずっと掴みっぱなしだった袖を離すと、ほっそりとした小さな指で沙羅の胸の辺りを指した。…もしかして。


 「この光?」


 LEDライトもかくやと輝く体を指し尋ねると、彼女はこくんと頷く。

(ああ、そうだったんだ)

女の子を見たときから、ずっと気になっていたのだ。目に見えるこの違いに。

 だけどなるべく考えないようにしていた。それを認めることは、つまりこの女の子の状態も認めることになるから。

 彼女の光は更に弱まり点滅している。「切れかけの電球」なんて、比喩でも思っちゃいけなかったんだ。




 それなら、もう何も迷うことはない。


 「分かった。あげるよ、あたしの命」



 だって、この子はまだ幼い。

それに、あんなに泣きはらしてくれる家族がいる。



 なんだかもの凄く清々しい気分だ。

まさか最期の最期に人のために尽くせるなんて。あたしにこんな上等な最期が来るとは思っていなかった。


 憑き物がおちたように爽やかに笑う沙羅を見て、女の子はほっとした笑顔を見せる。

ほらね、やっぱり笑うと可愛い。やっと年相応の表情になった。

 彼女は右手を目の前に差し出す。

 「私、サラ・アリシュテルと申します。あなたにお会いできて良かった」


 その小さな、消え入りそうな手を、発光体と化した自分の手でなるべく優しく包みこむ。

 「更木沙羅。あたしも、会えてよかったわ」

 「あら、同じ名前」


 意外にいたずらっ子のように笑うんだな。泣いて掠れた声で楽しそうに笑う彼女に、できることなら生きて会いたかった。残念ながら、握った手は互いに温度がない。


 「じゃあ、沙羅。私の大切な家族をよろしくね」

 「うん任せ…て?」



 言葉の違和感に気がつくよりも一歩早く、サラは握手した沙羅の手を思い切り自分の方に引き寄せた。

 …つまり、サラの後ろにある、湖の方に。


 「はいぃ!?」

 「あなたが、私の代わりに私の人生を歩むの。ねぇ、――――…――」


 とぷん。


 酷い体制で落ちたろうに、水面に打ち付けられた痛みは一切なかった。


 その代わりに、彼女の最期の言葉が頭の中でぐるぐると廻る。



 水越しのサラは輪郭も覚束なく、揺らいでいた光がふっと消えるのが見えた。

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