六月二十三日「シルエット」

 最初は目の錯覚かと思った。けれど、それは確かにそこにいた。


 雨風に晒されところどころで塗装が剥がれてみすぼらしい外壁を見せつつある中学校の校舎。校庭に面した側の三階。一番左端の教室の窓辺。西日に差されながら、窓から吹き込む風にその長い髪をなびかせるシルエットを、サッカー部の飯田は見た。


「へい、飯田! ワンツー!」


 永瀬から送られたボールを、飯田は見送った。いや、見てすらいなかった。飯田はグランドを走るサッカー部員の中、ひとり呆けた面で校舎の方を見ていた。


「――おい、なにやってんだ」


 得点を逃した永瀬が文句を言いたそうな顔をして走り寄ってきた。飯田は永瀬を振り返る。


「いや、あそこにさ――」


 言いながら、再び校舎を見る。が、そこには開かれたままの窓と風に揺れるカーテンしか見えなかった。


「あれ、確かにあそこに――」「長い髪をした女の影、だろ?」


 飯田の言葉尻を永瀬が引き取った。


「お前も見たのか?」


 飯田が訊くと、永瀬は左右に首を振った。そして、


「聞いたことないか? 『窓際の幽霊』」

 

 聞いたことがなかった。飯田が訊くと、永瀬は小走りになって話し始めた。飯田も小走りでその横に付いていく。


「前々から運動部で話題になることがあったんだ。『校舎の三階、一番端の教室に長い髪をした女の幽霊が現れる』ってな感じで。みんな見たって言うのが丁度今ぐらいな夕暮れ時でさ」


「幽霊なのか?」


「らしいぜ。俺が直接確かめたわけじゃないからあれだが、前に数人で確かめに行ったやつがいたらしいんだ。あそこの教室までわざわざ行って」


 永瀬はそう言ってその教室を指さす。


「でも誰も居なかったんだと。数人で別々の階段を使って昇ったらしいけど、そんな長い髪をした女子とはすれ違わなかったって」


 ――それだけで幽霊と決めつけるなんて。


 口には出さなかったが表情に出ていたのか、永瀬は続けた。


「それだけじゃなくて、昔、この学校に通っていた女学生が在学中になくなったことがあるらしいんだと。なんでも、その死んだ女学生がそれは綺麗な黒髪ロングで、そいつが化けて窓から生きた人間を恨めしそうに見てるんだと」


「そんな話を、みんなは信じてるのか?」


「まさか。面白半分に言ってるだけだろ。ただでさえ古いってだけでつまらない学校なんだ。学校の七不思議とかそういうのに飢えてるんだろ」


「そういうもんか」


 すっかり西日も暮れてしまい、ボールが見えにくくなると部長が部活の終わりを告げた。最後にもう一度校舎を振り返る。いつの間にか、開いていた教室の窓は閉められていた。




 それから、飯田は何度か女の影を見た。場所はいつも決まって、三階の左端の教室。そして日が沈みかけ、空が赤くなりはじめた頃。毎日現れるわけではなく、居るときはいる、そうでないときは居ないというものだった。女は何をするでもなく、窓の側に立っていたり、窓枠に腰掛けたりしていた。グラウンドからでは顔がよく見えない。




 最初に女を見てから一月が経とうかという日の放課後。

 いつもの場所に彼女の姿を捉え、どうにかしてその顔を拝んでやろうと飯田は練習の最中グランドを駆け回っていた。そのとき、窓枠に腰掛けていた女はバランスを崩したのか両手をバタバタを振り回し、それから教室の中へ滑り落ちた。


 飯田は走り出していた。校舎の昇降口へ向かって。


「おい、どこ行くんだ!」

「トイレです!」


 走る良い背中に掛けられた声に、飯田は振り返らずに答えた。

 昇降繰りで上履きに履き替える。脱ぎ散らかしたサッカースパイクはそのままに、人の少ない少し夕日でオレンジに染められた廊下を走る。どこからか「廊下は走るなー」と誰か先生の声が聞こえたが構わず走った。


 幽霊だったらあんな風にバランスを崩して慌てるはずがない。


 女が幽霊ではないと、それを見て飯田は確信した。そうしたら体が勝手に動いていた。

 こうして走って何をしようというのか。女をとっ捕まえて「幽霊の正体見破ったり!」と連れ回そうというのか。そうではない。ただ、近くで見てみたかった。見て、そのあとどうしようかなど飯田の頭にはなかった。


 階段を一段飛ばしで駆けあがる。ものすごい早さで階段を昇る飯田を、途中すれ違った文化部っぽい細身の男子生徒がぎょっとした顔で飯田を見た。

 二階、三階と。あっという間に目的の階まで辿り着いた。それから目的の教室の前まで全力で駆ける。端の教室に辿り着く飯田。わずかに息を切らしていた。


 閉じられた教室の引き戸に手をかけ、一度大きく息を吸い込み、勢いよく扉を開いた。

 風が飯田の頬を撫でる。窓は開かれ、カーテンが風で揺れている。

 その教室は、昔は一年三組の学び処として使われていたが、生徒の減った今は空き教室となっている。使わなくなった机や椅子が雑多に置かれていた。飯田の他に人の姿はない。

 開かれた窓の側に寄り、窓枠に手を置いた。

 わずかに熱を感じる。それが人の体温によるものなのか、太陽光によるものなのか分からなかった。


 飯田はこの教室まで最短のルートを選んで来た。けれど、すれ違ったのは細身の男子生徒一人だけ。女性徒が、飯田とは別のルートを通って昇降口まで向かった可能性はあるが、わざわざ遠回りをする理由はないはずだ。


 飯田の脳内に、あまり考えたくはない想像が……


「――いや、まさかな」


 窓の外、グラウンドから元気な運動部の声が聞こえてきた。

 

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