1日1つ掌編(6月分)

雨野 優拓

六月五日「感謝」

「ありがとう」

 その言葉が男にとってなによりの報酬だった。


 幼い頃から両親に「人から感謝されるような人間になりなさい」と言われ続けた男は、忠実にその教えを守ってきた。

 横断歩道で足を怪我していて歩きずらそうにしている人を見かければ肩を貸して目的地まで連れ添ったり、道に迷っている人がいれば道案内をした。 学校でも、宿題を忘れたという人がいればノートを見せたし、忘れも物をした人がいれば物を貸した。

 そのたびに人は「ありがとう」と感謝の言葉を言った。男はそれに満足していた。

 しかし、男が誰かの手助けをする度に彼らが口にする感謝の言葉は感情を伴わなくなり、やがては何も言わなくなった。男が手助けすることはいつしか当たり前になり、まるでそれが当然のことかのように思われ始めたのだ。

 男は当惑した。

 他の人が誰かを助ければみんな「ありがとう」と言うのに、自分がそうするとなぜ誰も感謝してくれないのかと。

 男が中学生になった頃、街を歩いていると巷で悪名高い不良たちが人に感謝されている姿を目撃した。何てことはない、彼らはただ、道を歩く前の人が落とした物を拾って手渡しただけなのだ。それなのに、彼らは男がこれまでされた感謝と同等、あるいはそれ以上の感謝を受けていた。まんざらでもない表情で不良達は笑っている。

 男が彼らと同じことをしてもそれほど感謝されることはなかっただろう。男が誰かを助けるのは当たり前だと思われているから。

 男は考えた。なぜ自分と彼らとでそれほどまでに扱いが違うのかと。答えはすぐに出た。

「そうか、緩急が必要なんだ」


 男はその考えをすぐさま実行に移した。困っている人を見かけても、すぐには助けず、周りを見渡して誰かに助けを求めようとしたタイミングで声を掛けるようにした。

 効果は覿面だった。人々は男に感謝をした。久しぶりに聞いた「ありがとう」という言葉に男は満足した。しかし、それも長くは続かなかった。

 毎回絶妙なタイミングで助けに現れる男を見て、人々は男がわざとそうしているのだと気がついた。そして、

「何もしないで見てないでさっさと助けろ」

 と文句を言った。男はそれに腹を立てたがすぐに反省した。やり方がまずかったのだと。


 高校生になると男はアルバイトを始めた。アルバイトで貯めた金で何か物を買うでなく、男はその金を街の不良に渡した。不良達はそれを受け取りながら訊ねた。

「なんだこの金は? 俺たちにくれるのか」

「ああ、くれてやる。だが、一つ。簡単なお願いを聞いて欲しい」

 不良達は男の言う願いを聞くと、驚いた。

「適当なカップルを見つけて襲えって? お前正気か?」

「ああ、正気だとも」

 男は口角を上げて言った。

「そして、そこに僕が現れたらカップルを襲うのをやめてほしい。それだけだ」

「お安い御用だ」

 金が貰えるのなら構わねえ、と不良達は笑って言った。


 数日後。不良達は男に言われたとおり、街で適当なカップルを見つけていちゃもんをつけた。

「やあやあ、ずいぶんと楽しそうじゃないか。俺たちも混ぜてくれよ」

 影でそれを見ていた男は、すぐさま飛び出してカップルと不良たちの間に立った。そして声高らかに言った。

「待て、そこの不良たち」

「い、今だ! 逃げよう」

 男が介入すると、カップル達はすぐさま逃げ出してしまった。走って逃げていくカップルを目で追いながら不良が言った。

「……これで良かったのか?」

「あ、ああ。君たちに問題はない。……すこしタイミングが早すぎたか?」

 それから何度も、男は不良たちに金を渡して何度もカップル達を襲わせた。男は毎回助けに入るタイミングを遅らせた。男も馬鹿ではなかった。

 そしてあるとき、絡んできた不良にカップルの彼氏が手を出し、それに不良達がやり返して彼氏がボコボコにされたタイミングで助けに入ってみた。 すると、カップルの二人は不良達が去っていくのを見ると目に涙をにじませながら「ありがとうございます」と感謝を口にした。それを聞いたとき男は感動に身を貫かれた。

 これだ、と思った。これまでで感情がこもった「ありがとう」だった。  最高のタイミングを見つけてから、男は何度もそれを繰り返した。けれど飽くなき欲求はさらにその上を行く快感を求める。不良達も味をしめたのか、要求する金銭がどんどん大きくなってきた。男は不良たちと縁を切った。


 これまでの経験から男は学んでいた。マイナスの感情が大きいほど、手を差し伸べられた時の幸福感が大きいのだと。またそれが痛みや恐怖に関するものだとなお良いのだと。

 男は考えた。手軽で、なおかつ相手を恐怖させるに足りるものかは何か。その結果として、ナイフに行き着くのにはそれほど時間を要さなかった。


 男は適当な店で買ったナイフを手に夜な夜な人を襲った。けれど命は奪わない。殺してしまえば、口のない死体となり感謝されることもない。

「財布を出せ」

 男は目の前に立つ人に向かってナイフをちらつかせながら言った。男がナイフを持つ手を捻るたびに、外灯の光がキラリとナイフの刃を目立たせた。

 男が言うと、相手は震えながら財布を出す。男はそれを奪い取ると紙幣を何枚か抜き取って財布を相手の足元に放り投げた。

「全部は取らないでおいてやる。お前にも生活があるだろうからな。行け」

 男がそう言うと相手は大抵「ありがとうございます、ありがとうございます」と震えた声を出しながら走り去っていった。男は満足感に震えた。

 ああ、僕はいま、人に感謝されるようなことをした、と。

 そんなことを繰り返してるうちに、ナイフを出すまでもなく相手は財布を差し出すようになった。連続通り魔として名が売れたのだ。

「命だけは、命だけは勘弁してください! どうぞ財布は持っていってください」

 震えた声が聞こえる。

「そんな物はいらん、早く僕に感謝しろ!」

 

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