第四章 ワガママを言うような後輩 9

 ……眠りに落ちていた感覚が少しずつ、もどかしい遅さで戻っていく。

 瞳を閉じていても、ずっと閉じていたくても、若干身震いする肌寒さと鳥の鳴き声が睡魔を取り払い、停止していた思考が徐々に覚醒していくのが分かった。

 さん……。

 じゅんたさん……。

 何度も呼び掛けてくる女性の声と、肩を軽く揺すられる振動。

 上半身を起こしながら重い瞼を開けば、窓から差し込んでいた斜光が刺さり無防備だった目がひるむ。独特な閑静さと寒冷な大気も相まって、目覚めた時間帯は早朝だという直感が働いた。


「──じゆんさん、朝です。起きてください」


 自室のベッドで目覚めると、傍らに立っていたすみさんが俺の顔をのぞんでいた。

 沈殿する睡魔が残留し、砂漠と化した喉が激しく渇いて水分を欲す。

 全身に蔓延はびこけんたいかんは身に覚えがなく、前日の記憶を思い返そうとすると脳内の映像にもやがかって不快な眩暈めまいに見舞われる。

 脳裏には断片的な光景が複雑な乱気流を生じさせていたが、起床して一分もった頃には記憶からこぼち、すがすがしいほどあつなく蒸発していった。

 夢を──見ていた気がする。

 進路も目標も曖昧に濁して先送りにしていた俺が、放課後に楽しみをいだしていたような青春のひと時。その幸せな時間は現実逃避の悪夢なのか……起床した瞬間に唯一残った喪失感が原因不明の息苦しさを引き起こす。吐き気が、する。

「──准汰さん、体調でも悪いのでしょうか」

「いや……大丈夫です」

 心配している様子ではない無表情のすみさんに指摘され、我に返る。鼓動を速めていた心拍は基準値を取り戻し、過熱した吐息も次第に収まってきた。

 枕元に添い寝するスマホのロック画面を確認すると、現時刻は三月一日の午前七時。

 すぐに制服へ着替えれば、朝食をとる余裕もありそうな理想の起床時刻だ。

「今日は卒業式なので、いつもより遅い時間帯の登校です」

 だるいゆえに重い尻を持ち上げて起立し、部屋のハンガーに掛けられていた制服に触れるが、伊澄さんの指摘により寝ぼけた頭が正常に稼働していく。

 そっか、今日は高校生の日常を失ってしまう日だ。

 自由登校期間の補習により卒業を迎えられたが、進路は未定のため学校に届く求人票から候補を絞り新卒採用試験を受ける……そんなつまらない二月だった、はずだ。

 自問自答する。どこかに通う大切な用事は本当になかったか、と。

「伊澄さん……昨日の俺は何をしていたんですか?」

「──質問の意図は理解しかねますが、昨日はお店の手伝いをしていました。店長がご友人と遊びに行くので、その間はじゆんさんが店を手伝うと」

「せっかくの春休みなのに家の手伝いかぁ……」

「──ご友人との卒業旅行代を稼ぐため、年始からは手伝いを増やすと提案していたのは准汰さんでしたよ」

 そう……だった気もするけど、混濁した見知らぬ記憶がもやに覆われ、先ほどの現実逃避に近い夢と今困惑している現実との境目が定かでなくなる。

「なんか、頭が重い……。昨日の俺は疲れるほど使つかわれてましたか……?」

「手伝いは日中だけです。夜はご友人と〝春の訪れを告げる星〟を見に行ったようですが」

 昨日は二月二十九日。迷信を遊ぶ口実に利用し、いつものグループで野外に集うのは不自然ではないものの……昨夜のごとすらぼんやりとかすみ、伊澄さんの言葉に首をかしげる。

 ここ最近の自分は、いったい何をしていたんだろうか。

 確か……遅刻を覚悟でのろのろと登校し、さかに苦言を呈されながらも反省せず、留年の危機が迫ったから補習や追試に努めて、空いた時間は店の手伝い……直近の一ヵ月はせわしなく動き回っていた覚えがある。

 それにもかかわらず、記憶の随所へ虫食いの穴が開いていた。

 最近の出来事をあさってみるが、店の手伝いは簡易な口約束で受諾するので、当日に母さんや伊澄さんから指摘されるまでは忘れていたりもする。

 通信アプリを開いてみたが、卒業旅行のグループには俺のアカウントも書き込んでおり、が羅列されていた。幹事の友人が示した卒業旅行の代金は結構な額だったが、交通費や宿泊費なども合算すると妥当なところ。

 とはいえ高校生には厳しいので、小遣い稼ぎになるなら手伝いを断る理由はない。

 店を手伝う以上の外せない用事があるわけでも、ない──

 ……なんだろう。予定なんてないはずなのに、どこかへ行かなくてはいけないという義務感が、小さな渇望と化して気持ち悪さをはらませる。

 自分の将来をおろそかにしている高校生には無縁な心情だと諦めていたのに、いざ卒業が控えると膨張する感傷の風味に毒され、進路を焦り始めたのだろうか。

 すべてを賭けて好きになれるものなど、怠惰な俺には思い当たらないというのに。

「じゅんた、じゅんた、じゅんたぁ~♪ お小遣いあげるから掃除を手伝ってくんろ~♪」

 ああ、だからすみさんが起こしに来たのね……。

 息子が金欠なのを良いことに、ここぞとばかりに手伝わせようとする母さんを早急に黙らせるため、仕方なしに仕事着へ着替えた俺は階段を降りる。

 いまいち釈然とせず、眠気は冷めても曇り空の心境は晴れないまま。


 手短に身支度を整えたあと、伊澄さんと手分けして開店準備を進める。

 店先に出すボードへ今日の日替わりメニューを書く母さんを尻目に、俺は店内の清掃にいそしんでいたのだが、とある発言でテーブルを拭いていた手が止まった。

「あちこちで咲いた不思議なスノードロップ、枯れ始めちゃったんだってねぇ」

 店内のテレビをた母さんが何気なく発した話題。朝の報道番組ではスノードロップすいせいとやらの話題が取り上げられ、世界中のどこかで星が流れると咲くというさんくさいスノードロップの花が映像で紹介されていたものの、今朝から一斉にしおれてしまったらしい。

 司会者やコメンテーターが落胆し、この不可思議な現象の終わりを嘆く。

「スノードロップ彗星を母さんは信じてる?」

「うーん、ロマンチックだとは思うケドねえ。星が流れると花が咲くとか、願いがかなうとか、肉眼でしか見えないとか、うわさばなしに尾ひれが付きまくってる感じはするなぁ」

 不本意だが、彗星の超常現象に対する考え方は母さんと合致している。

 こんな迷信は言い伝えの過程で飛躍した設定とこじつけが盛られており、星の存在すらねつぞういぶかしむ世間の声も少なくはない。俺も否定派側の人間……なはずだった。

「スノードロップ彗星は本当にあるって……俺は思う」

 だけど、なぜか信じずにはいられない。

 彗星の存在や現象を肯定し、真実として受け入れないと気が済まないんだよ。

「──存在しますよ、春の訪れを告げる彗星は」

 俺たちの会話に反応した伊澄さんも、引き締まった表情の中に明確な意思を持って力強く肯定し、目先の仕事へ再び意識を戻す。

 伊澄さんが言うのであれば、絶対に存在する。星に祈った者の願いは叶う。

 どこにも根拠を持ち合わせない自らの確信と、伊澄さんの確固たる断言が共鳴し、身体からだの芯を体内電流がくすぐるほど根深く響いた。

 どもだましの迷信をあざわらわない自分自身に驚くのと同時、一度たりともかいこうしたことのない星なのに……学校の屋上から見渡す夜景が脳裏をよぎり、細部まで作り込まれた夜空へ鮮明な降雪と流星が降り注ぐ。空回った頭が即興で構築した架空の妄想にしては、現実離れしていないのが不思議でならず、妙な引っ掛かりを覚えてしまう。

「俺……子供の頃にでもスノードロップすいせいを見てたのかな?」

「そんな話、あんたから聞いたことないけどなぁ。むしろ冷めてた側の子だったよ?」

 首をかしげる母さんには思い当たる節がないようだ。

じゆんすみちゃんが言うのなら、ワタシも信じよーっと。働かずに金持ちになりてェ~」

 現象は信じられないけど、自分が信頼している人の言葉は信じる。

 こういう言動の一つ一つに俺と母さんの血縁が現れているし、常連さんにも「似た者親子」だと頻繁にいじられるが、そこに不快が生じることはないのだ。

「准汰、今日は感動の卒業式でしょ? 最後の高校生を楽しんでらっしゃい!」

 一時間で手伝いを切り上げさせてもらい、今日で最後の学生服に着替え、感慨深そうな母さんに送り出されるが不思議なことに実感がなく──沈着ともまた、異なっていた。

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