第四章 ワガママを言うような後輩 8
二月二十九日。四年に一度のみカレンダーに記される今日は、人々の関心が迷信に引き寄せられ、春の訪れを告げる星を一目見ようと日付を
星が流れ終わる日の静けさに包まれゆく冬の終わりの夜でも、俺たちは目新しくもない四角形の病室に閉じ込められていた。
俺と渡良瀬は部活仲間であり、愛を語らう恋人同士ではないのに……情に
自分が大人だからと、偽りの余裕を取り繕うのは馬鹿げている。親代わりとして最も近くにいた登坂も……
あいつは
「……センパイ……今日だけ……ワガママを言っても……良いですか……?」
衰弱に侵された渡良瀬は震える声を懸命に振り絞り、パイプ椅子に座っていた俺へゆっくりと話しかけてくれた。
「……学校で……部活が……したいです……」
控えめすぎるワガママ。渡良瀬にとっては病人と見舞い人ではなく部長と部員。病状を顧みず放課後を有意義に過ごそうとしている姿が、俺にとっては溺れるように……苦しい。
後輩に三月一日は来ない。俺も時間稼ぎの励ましはせず、渡良瀬の運命を悟り、言う。
「ああ……お前のワガママを
酸素マスクを自ら外した渡良瀬の瞳に秘められた意思。その場に
面会時間の終了間際なのが功を奏したのか病棟の進路上に人影はほとんどなく、患者の気分転換を装い車椅子を押して歩く男子高校生を
警備員室の前をすんなり通り抜けた俺と渡良瀬は病院の外へ。三月間近とはいえ残雪が至るところに縄張りを主張していたが、車椅子の車輪で
「八年前も、今も……大切なやつがいなくなるのを、ただ待つだけなのか……」
背後から近づいてきたのは教え子だと察したらしく、静かに語り掛けてくる。
こちらからは
「……お前ら、部活をしに学校へ行くんだろ?」
「渡良瀬の頼みなので……先生が止めても俺は行きますよ」
「思春期なガキどもの行動なんてお見通しだ。それに……大学生だった頃のオレが
行く道を阻む様子はない棒立ちの大人を尻目に、車椅子を押す俺は歩みを速めた。
「絵も学校に運んだし、屋上の鍵も開けてある。ワガママな部長の面倒を……最後まで見てやってくれ」
感傷的な勢いに任せた連れ出し行為を、この大人は正論で止めるどころか見て見ぬふりをしようとしている。今までに
「希望も慰めも見えねえな……オレには」
見えない星に
学校までは、ものの数分。部活の生徒や教職員が残る校舎の窓は明かりが漏れており、いとも
本当に、軽い。想定よりも
「……センパイ……知ってますか……?」
ふいに耳元で話しかけてくる渡良瀬の呼吸が浅くなり、不規則に揺れ始める。
幸せと苦痛が隣り合わせの拷問みたいな二月が終わったら。
俺は一人、お前のいない世界に取り残されてしまう。止まってくれ。凍り付いてくれ。
出会わなくてもいいから。声を交わさなくてもいいから。
お前が絵を描き続けている未来には、お前の絵をどこかで褒める馬鹿な先輩がいるから。
無価値な俺の人生をすべて奪い取ってでも──消えないでくれ。
「……二月二十九日には……終わりの流星群が降るそうです……。希望と慰めが冬を連れ去ってしまったら……次に星が降るのは……やはり四年後になるんでしょうか……」
「……二月二十九日に終わりの流星群が降るのなら、次も四年後の
「……少し前にわたしが見たのは一つだけの……すごく
「……センパイには……わたしの絵で見せてあげますから……待っていてくださいね……」
「……待ってる。お前が描いてる姿を……俺は眺めて待ってるから……」
「……無口に……なりますけど……たまに話しかけてくれても……良いですよ……」
「……分かった。どうでもいい雑談ならまかせておけ」
湿り切った涙声を
「……
視界が不鮮明に……なっているのか。
渡良瀬が俺を探すために呼び、消えゆく言葉を
ただでさえ
「いるよ。もうちょっとで屋上に着くから……そしたら、星空の続きを描こうな……」
「……そうですか……安心しました……」
一言一句聞き漏らさぬよう、俺は顔を傾けるも……血の気が引いた顔色が間近に感じられ、雪よりも白い肌は息を吹きかけただけでも溶け消えてしまいそうで直視していられない。俺にできるのは、受け入れがたい現実を受け止めることだけ。
果てしなく無力な人間は何もできず、最も近くで見守り、自らの涙で濁った瞳を
「……ごめん……なさい……」
「どうして……謝るんだ?」
ふいに背後から謝罪する渡良瀬に対し、歩き続ける俺は力のない疑問符を浮かべる。
「……星空の絵を……完成させられなくて……センパイ……楽しみにしてたのに……」
「それを完成させるために……今から部活をするんだろ。もうちょっとだから……もうちょっと……だからさ……」
目の前の階段を上り切れば、もうすぐ屋上に到着する。
今日くらいは完全下校時刻なんて無視しよう。俺も一緒に怒られてやるから……お前が絵を描いている姿を見ているのが、なによりも好きな時間だから。
「……すみま……せん……最後の最後まで……面倒を……かけました……」
返そうとした言葉が喉奥に
今、何かを言おうとすれば……
「……
俺の名を呼び、沈黙の間を打ち消す。
妙な新鮮さを覚えたのは、気のせいじゃなかった。
「
「……こっちのほうが……仲良しの……お友達って……感じがしませんか……?」
「そうだな、
せめて俺も──愛らしい名前で呼び返させてくれ。
「……准汰……センパイ……
「こっちのほうが仲良しの友達って感じがするだろ……?」
自分の
親しみやすい呼び方の、佳乃。
階段を上り切った先の踊り場。俺の背に身を預ける佳乃が向ける視線の先には絵画用のイーゼルに立て掛けられた一枚の絵があり、踊り場の片隅にひっそりと
この絵が完成することはない。中途半端に途絶えた絵の世界が再び描き出され、時間が動き出すのは不可能だと……お互いに嫌というほど分かっているから。
「……いつか……遠くの星空の下に……連れて行って……くれますか……?」
「ああ、今度こそ遠くに行こう。満天の星の下で絵を描いているお前を……見たい」
「……よかったです……本当に……よかった……」
背中越しに言葉を紡ぐ後輩の声は、苦痛に
春の
俺の肩を握り締める手に微量の力を込めていた佳乃から、呼吸の音すらも消えていく。
佳乃……。
待って……嫌だ……。
ご卒業、おめでとうございます
またいつか、放課後の部室に来てくださいね
わたしは楽しみに、准汰センパイを待っていますから
心からの
未施錠のドアを開けて無人の屋上に身を晒すと……白い結晶が強い風に
四年に一度の日に降る雪を……後輩の女の子が知ることは、ない。
たぶん
俺の両肩を後ろから
現実を受け入れたくなくて、
話半分で聞き流していた幼稚な迷信や
自分の存在を
生きるのが下手くそなお前に、生きていてほしいんだ。
その日は、特別な夜だった。
空からの降雪が覆っていた闇夜を優雅に泳ぐ光の粒。
人間が作り上げた人工の
病院で見上げた冬空は黒と瑠璃色の単調なグラデーションだったのに、真っ白い絵の具を染み込ませた筆を豪快に
これは、
今まさに自分の瞳に描かれ、現実の
流れ星……いや、正式名称すら特定できない謎の
佳乃が言っていた、二月の星が流れ終わる知らせ。
まさしくその瞬間だと、眠りかけていた全神経がしきりに奮い立つ。
ただ黙って
過去の渡良瀬佳乃が、春の訪れを告げる星と
無我夢中だった。
何度も、何度も、何度も、絶望しかけた心の中で同じ文言の祈りを
元気になった佳乃と待ち望んだ放課後に戻る、という願いではない。慰めの希望に縋ったということは、もう以前と同じ関係には絶対にならないからだ。
だったら、美術室で再会しない世界になれば、いい。
佳乃が
いずれ感情を手放すであろう俺が、佳乃を傷つけてしまうよりは──待ち望んでいた絵を見ても無感情に突き放してしまうよりは。
出現から、ものの数十秒。夜空を散歩していた
次に目覚めたとき、佳乃は疎遠になった嘘つきになっているだろう。
だったらもう、俺は永遠に眠ったままでいい。
無慈悲な現実を受け入れるくらいなら、夢の中の非現実に逃げ込んでしまったほうが、誰も不幸にならないから。
お飾り程度の粉雪が舞う二月二十九日の屋上。二度と
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