星降る夜になったら

第四章 ワガママを言うような後輩 ４

　底知れぬ不安に駆られた弱い心に鞭（むち）を打ち、竦みかけた両足を前進させる。

　正面玄関より病院内に消えた登（と）坂（さか）を追い、ロビーから病棟の通路へ移動したのを遠目で確認して、病院利用者に擬態した健康体の俺も同様のルートを辿（たど）った。

　やはり、登坂の目的地は一般病棟。面会受付にて必要事項を記入し、患者が入院している場所へと入っていく。

　遅れること三十秒後。受付の職員に差し出された面会者名簿へ記入するのは、自分の名前や渡（わた）良（ら）瀬（せ）の名前、入室時間、患者との関係など。どこからどう見ても友人の見舞いだから別に不自然に思われることもなく面会証を手渡され、受付は完了した。

　俺を突き動かすのは、若気が抑えられない恋愛感情の暴走。

　渡良瀬の意思を直接、聞きたい。

　病室が一定の間隔で並んでいる小奇麗な廊下に足を踏み入れ、受付の人に教えてもらった渡良瀬の病室へ近づく。知りたい。でも知りたくない。この先に待ち受ける事実に直面してしまったら、二人の部活が過去の思い出に葬られてしまうような気がして。

　しきりに病室のほうを横目で見たり、廊下で俯（うつむ）きながら考え込んだり……スマホで時刻を確認すると、一時間半が経（た）とうとしていた。

　ふと、渡良瀬の病室から人影が現れる。面会を済ませたであろう登坂と目が合いそうになり、瞬時に視線を足元へ逃がしたが……もう遅かった。

「お前、どうしてここに……」

　…………っ!!

　もはや、やむを得なかった。

　俺の選択は全速力で駆け出し、登坂の横をすり抜けること。病院の廊下を走り抜けるという罪悪感を拭い去り、不格好な前傾姿勢で短距離を疾走するしかなかったのだ。

　背後を振り返る余裕はないが、登坂が静止を呼びかける強い声は耳に届く。そんなもので潔く止まるような覚悟なら疾（と）うに引き返していた。若気の至り。迷いはもう、ない。

「渡良瀬……！」

　十八年の人生で最も遠く感じた数メートルの距離。踏み出した靴底を床に擦（こす）らせ、方向転換のブレーキをかけた俺は病室の入口を開く。

　窓際にベッドというオーソドックスな個室……天井の蛍光灯に照らされた渡良瀬の姿は実に受け入れがたく、咄（とつ）嗟（さ）に目を背けたい衝動に駆られた。

　細い腕から伸びる点滴の管が痛々しく、脱力したままベッドに横たわる身体（からだ）へ申し訳程度の布団が被（かぶ）せられており、色白の美麗な顔を台無しにするような酸素マスクが口元を大きく包む。息を呑（の）んだ俺はその場で立ち竦（すく）み……唖（あ）然（ぜん）と絶句することしかできない。

「渡……良瀬……」

　名前を呼ぶ声が掠（かす）れる。

　放心の拙い足取りで入室した俺は、渡良瀬が眠るベッドへ歩み寄った。

　長いまつ毛の瞳は閉じられ、酸素マスク越しの脆（ぜい）弱（じやく）な寝息を感じ取れる。それ以外は生命の鼓動を示す兆しがほとんど見当たらず、寝返りを打つどころか瞼（まぶた）すら微動だにしない。

　ただの軽い風邪が二週間足らずの間に、どうしてこうなったのか。理不尽な現実を突きつけられ、ぐちゃぐちゃに握り潰された心情が合理的な思考を麻（ま）痺（ひ）させた。

「今は寝てる。そっとしとけ」

　背後から降りかかった男の声で、手放しかけた平静をかろうじて繋（つな）ぎ止（と）める。

　数秒後に遅れて入室してきた登（と）坂（さか）が、すぐ後ろに立っていたのだ。

「……バカ野郎が」

　頭を軽く小突かれるが、本気の怒りというよりは半ば観念を含んだ表情を登坂は晒（さら）す。

「最初は風邪だと思ってたんだよ。薬を飲んでも熱が引かなくて、複数の病院で診察を受けても目立った異常はねえとか」

　これ以上は隠し通せないと判断したのか、登坂は事の顛（てん）末（まつ）を話し始める。

「入院しても悪化の一途を辿（たど）って……衰弱した佳（よし）乃（の）は学校に通うどころか、自力で歩くのすら困難になっていった。その時点で、思ったりより遥（はる）かに深刻だと察したよ」

　星空を見る約束が叶（かな）わなかった日、渡（わた）良（ら）瀬（せ）はすでに……いや、星空を描いていた屋上の特等席を教えてもらったときにはもう、異変の兆しが見え隠れしていたとしたら。

　情けないほど、無力だった。渡良瀬のことを眺めているのが好きとか抜かしていたのに、どこかにあったであろう些（さ）細（さい）な兆候も見逃し、結果的に何も手を施してあげられなかった。

「……何もできねえよ。オレたちは医者でも神様でもねえんだから」

　唖（あ）然（ぜん）と立ち尽くすガキの自己嫌悪など見透かしている大人は、達観の眼（まな）差（ざ）しで庇（かば）う。

「目立った異常はない？　そんなわけねぇだろうが。それなら、どうして佳乃は学校へ行けないんだよ。絵を……描けなくなってしまったんだよ……なぁ……」

　苦しそうな息が混じる登坂は、渡良瀬の寝顔を見詰めて言葉を絞り出す。

　俺なんかより、この人のほうが長い年月を渡良瀬と共有してきた。ここ最近の俺が溜（た）め込（こ）んでいた焦燥や苛（いら）立（だ）ちとは比にもならないほど、親として渡良瀬を想（おも）っているから。

「佳乃が……何をしたって言うんだ……。こいつはちょっと偏屈かもしれねえけど……絵を描くのが好きな……ただの高校生なのに……。ふざけんな……ふざけんなよ……！」

　嘆きと憤りの濁流で紡がれた純真の涙を、この大人は流せる。

　俺にでもなく、医者にでもなく、たった一人の女の子を無意味に弄ぶ神様の悪戯（いたずら）を、憤怒のままに吐き捨てた言葉で批判する資格はこの人にある。

「……佳乃は自分自身のために……願いを託してしまったのかもしれない……」

　他人のために願いを託した者は感情を喪失し、自らの願いを託した者は命を失う。

　登坂の絞り出した台詞（せりふ）が引っ掛かり、三週間前の日常を振り返る。

　そうだ。渡良瀬と出会った日の帰り、友人の声より先に俺の足を一時停止させたのはグラウンドの枯れ草に紛（まぎ）れていた一輪の白い花。ニュース映像でしきりに紹介されていたスノードロップの花と……瓜（うり）二（ふた）つだった。