第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 5


「そういや、サンドイッチって食べたことある?」

「……バカにしないでください。子供の頃に食べたことがあります」

 超偏食でも好物以外は食べないというわけではないようだ。残り一つのサンドイッチを何気なく差し出すと、渡良瀬は興味を宿した瞳でそれを見詰めてくる。

「野菜がたっぷり挟んであるから、偏食の渡良瀬にも食べてほしいな。もし身体からだを壊したら絵も描けなくなるよ」

「……そこまで言うなら、食べてあげなくもないです」

 不本意そうな言い回しはともかく、意外と素直になったわたが手を伸ばし、ラップに包まれたサンドイッチを受け取る。

「牛乳とコーヒーを持ってるけど、どっちがいい?」

「……コーヒーは眠れなくなるので」

「ほい、それじゃあ牛乳」

 弁当を取りに戻った際、ついでに食堂の自販機で購入した紙パック牛乳を手に持たせてあげた。右手にサンドイッチ、左手に紙パックを持つ渡良瀬の姿は年相応の女子高生そのもので微笑ほほえましく、筆を握っているときの集中が研ぎ澄まされた顔立ちとは程遠い。

 単刀直入に言えば、かわいい。絵を描く以外はダメダメなので面倒を見てあげたいし、母性や欲に似たものをてられるというか……とにかく放っておけない後輩。

 渡良瀬はサンドイッチの角に口を付け、ゆっくりとしやくする。具材の感触を確かめているのだろうか、閉じた唇はさほど動かず、最初の一口をめていた。

「……しい」

 飲み込んでから一息き、ふいにこぼちた感想。そのまま、渡良瀬は一切れのサンドイッチをほおり、過剰なまでに咀嚼しては舌の上で味わっていた。

「……これはセンパイの親が作ったんですか?」

「いや、ウチの母親が営んでる喫茶店のパートさん。店で使い切れなかった残り物で弁当を作ってもらってるんだ」

 押し黙った渡良瀬は最後のひと欠片かけらまでれいに食べ切り、物思いにふける。

「……わたしが好きな味でした」

 感情の起伏が読み取りにくいものの、渡良瀬なりに絶賛しているようで、なぜか俺がご満悦な心境になってしまう。はなびし珈琲コーヒーが誇るすみさんが褒められるとうれしいんだよ。

「渡良瀬さえよければ、弁当をもう一つ作ってもらえるように頼んでみようか?」

「……さすがにそれは申し訳ないというか、ご迷惑をおかけするのではないかと」

「まあ、聞くだけ聞いてみる。使い切れない食材を廃棄するよりはマシだろうから」

 そう提案してみると、渡良瀬はつつましやかにうなずいた。

「……お昼ご飯が少しだけ……楽しみになるかもしれませんね」

 ほんの僅かに声色が明るくなった渡良瀬。今の俺は、手間のかかる後輩が喜びをあらわにする瞬間を無意識に望み、それがかなうたびに心臓の鼓動が情熱的にうるさうなっていた。

 どこにでもいそうな帰宅部の空虚な物足りなさはどこへやら、渡良瀬の世話焼き係として充実した日々に移り変わりつつあった。

 日常のさいな景色が光り輝いて見える。高校生活に求めていたものが、これだったのだ。

 あーでもない、こうでもない。

 昼食後の二人は意見を交換し合いり合わせ、現状の最善な策へ寄せていく。全校生徒が授業にいそしんでいる校内は静まり返っていたが、美術室は男女の声が途切れることなく聞こえ続け、見学を円滑に進めるためのリハーサルを入念に繰り返す。

 それが付け焼刃だとしても、やらないよりはマシだと信じて。

 孤高な部長を慕ってくれる部員が誕生することを──部外者がひそかに祈る。

 もう間もなく、放課後を告げる鐘が鳴る時間帯。

 少しでもえのするよう、画材が散らかった室内を手分けして整理整頓する音だけが木霊していたが、俺のほうは会話の糸口を探っていた。

 わたはヘッドホンを首筋に引っ掛け、音楽は聴いていない。俺たち以外の人間は近くにいないし、話しかけやすい条件が整っている。

 知りたい、もっと。渡良瀬よしという後輩の女の子を。

「渡良瀬ってさ、他人を好きなのか嫌いなのか、よく分からないとこあるよな」

 ややおじづきながらも、聞きにくかった話題に触れてみる。

 渡良瀬は片付けの手をピタリと静止させ、数秒の沈黙を挟み……また手を動かし始めた。

「……単純ですよ」

 渡良瀬のつぶやきは、耳を澄ましてどうにか聞き取れる声量だった。

 無駄な環境音を抑えるべく俺の手も無意識に止まってしまい、完全に聞き入る態勢へ意識が移行していくのが分かる。

「……わたしが好きなものを好きでいてくれる人を、わたしは好きでありたい。興味がない人には、わたしも興味を抱かない。それだけのことです」

「……本当に単純なことなんだな」

「……あの一年生が本気で絵を好きになってくれたのなら、わたしも頑張って教えてあげたいです。それが部長の仕事だと思うので」

 さらなパネルをイーゼルに立て掛けながら、渡良瀬はほのかに上機嫌を忍ばせた声を漏らす。気のせいかもしれないけど、平常の沈着な雰囲気が幾分か解け、物腰が柔らかい印象を受けた。

「……おしやべりはおしまいです。無駄口をたたかないで仕事してください」

 ものの数秒でクールな顔に整えられてしまったが。

「俺は部員じゃないんだけどなぁ~」

「……補習の間は部員みたいなものですよ」

「初耳なんだけど」

「……今、部長権限で決めましたので」

 したたかな部長さんに苦笑していると、控えめな無駄話を打ち切るチャイムが校内に響く。各教室でHRと清掃をしたのち、生徒は部活動や下校など各々の目的のため離散するのだが、遠くの足音や歓談が聞こえ始めた瞬間、渡良瀬の様子が顕著におかしくなってきた。

 下級生に貸すためのスケッチブックを抱きかかえ、指を震わせている。

「……渡良瀬?」

 話しかけても、苦言や憎まれ口どころか返事の一言すら発しない。

 もしかして、不慣れな見学対応に緊張しているのだろうか。

「いつも通りでいい。俺がフォローするから、お前は描きたいように絵を描いていてくれ」

「……そんな情けなくて根暗な部長でいいのでしょうか」

「根暗な部長なんて見たことないけどな。お前が画材について熱弁するときとか、絵を描いている姿はまぶしいくらい光り輝いてるよ」

「……センパイ、わたしをイジってきてますよね」

 不満げなわただったが、手先の震えは自然に収まっていた。

「……来てくれるでしょうか、あの子は」

 ぽつりと渡良瀬が漏らす。

 そうか。見学に来てからの対応とか以前に、あの子が美術室に来てくれるかどうか……最初の段階がもう不安でつぶされそうなのだろう。

 そわそわと落ち着きがなく、息遣いも不規則になっているのがその証拠だ。

「俺だったら、毎日でも来たい」

「……センパイは来なくても大丈夫ですけど」

 この痛烈さよ……。帰宅部員への扱いは冷たかった。

「……いつも通りのわたしで良いのでしょうか」

「ああ。俺が思わず見入ってしまった後輩は、いつも通りの渡良瀬よしだ」

 渡良瀬は口をつぐみ、俺から顔を背けるように離れていく。そのまま自分のスペースへ移動し、筆を手に取って制作途中のパネルと相対した。

「笑った? 今、笑ったよな?」

 ふいにあふれた興奮の台詞せりふは、渡良瀬のきやしやな後ろ姿に無視されてしまう。

 気のせいだろうか、目の錯覚だろうか。

 絶対に見間違いだと思うけど、顔を背けた瞬間にさらした渡良瀬の温和な顔は微笑ほほえんでいるみたいで、その残像が頭の中を駆け巡り、脳内で何度も再生しては心が躍った。

「し、失礼します」

 そして、ついに──下級生の女の子が美術室のドアを開き、俺たちの出迎えを受けた。

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