星降る夜になったら

第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 ３

　渡良瀬が日頃から教室にいないのは、美術室に逃げ込んでいたため。

　一人で安らげる場所を求め、好きなものに囲まれた自分だけの空間へ引きこもっていたところに、見知らぬ他人が侵食してきた不安と恐怖は計り知れない。

　思い返せば、俺と出会ったときも最初は逃げ出し、登（と）坂（さか）に縋（すが）りついていた。自分の無神経な行為が渡良瀬を激しい動揺に陥れたのだ。

　ヘッドホンから音漏れするほどの音量は、他人の雑音を上書きして打ち消すためだとしたら……彼女が送ってきた人生は、決して平（へい）坦（たん）ではなかったことが透けて見えてしまう。

　それでも渡良瀬は──ぼやきつつ補習の世話を焼いてくれて、今回は俺を頼ってくれた。

　登坂の代打みたいな立ち位置だろうと光栄だ。

　俺は美術室のドアを開け、躊（ちゆう）躇（ちよ）せず室内に入り込む。根幹に孤独が根付いた彼女の居場所さえ奪われるのを、このまま黙って見過ごせないから。

　ドアが開いた音を合図に先客はこちらへ顔を向けた。学年章を見る限り、入学初年度の一年生。面構えは垢（あか）抜（ぬ）けておらず、制服にも新品の余韻が未（いま）だに残る。

　ほぼ関わりのない俺が顔を知らないわけだ。最上級生はタメ口で話しかけるが、いきなり初対面の三年生と相対した最下級生は戸惑いを顔色に表す。

「驚かせてごめんな。俺は……美術部の部長に美術室の見回りを委託されてるんだ」

　どんな役職だよ、と心の中で自らにツッコみを入れる。咄（とつ）嗟（さ）に思いついたとはいえ、怪しすぎる肩書きに自分自身が苦笑を禁じ得ないものの、初々しさが香る新入生は違和感を覚えていないみたいだ。

　空き教室を溜（た）まり場（ば）にしたい不良の卵か、気に食わない渡（わた）良（ら）瀬（せ）に物申したい女子か。

　様々な可能性を頭の中でシャッフルさせたが、すぐに杞（き）憂（ゆう）だと判明する。

「あ、あの～、私……美術部に興味があるんです」

　恐縮した意外な答えをもらい、強（こわ）張（ば）っていた肩の力がすとんと抜けた。

「もしかして、入部希望者だったりする？」

「いえ、すぐにというわけでは……」

　控えめな女生徒にやんわりと否定はされたものの、

「演劇部だったんですけど……子供の頃から絵を描くことが好きなので、美術部に転部しようか迷ってます。どんな活動をしてるのか教えてほしくて部長さんを探してました」

　すぐに転部するほどの熱意や覚悟は持ち合わせていないが、部活動の見学や体験入部を検討している段階らしい。

「部活動は放課後なんだし、そのときに来ればいいのに。昼休みに知らない人が部室にいたら、部長も驚いてしまうからさ」

　美術部とは無関係に等しい帰宅部の男が、もっともらしいことを述べる。

　下級生は言いづらそうに口籠っていたが、俺を必要以上に見据えた。

「放課後に貴方（あなた）が叱られていたので、雰囲気的に入りづらかったんですよね」

「俺が？」

「はい」

「誰に？」

「部長さん……みたいな女の人に」

　しらばっくれたかったけど、心当たりがありまくるな……。

「ちなみに、キミが最初にここへ来た日は……？」

「たしか……一週間くらい前です。怒られてたのは貴方です……よね？」

「……俺だ！」

　うわっ、恥ずかしい！

　後輩に説教されてた場面を一年生に目撃されてたとか恥晒（さら）しにも程があるだろ！

「ほんとごめん！　あれが美術部の日常じゃないんだ！　本来は部長の渡（わた）良（ら）瀬（せ）が──」

　そこまで言いかけた台詞（せりふ）が、ふいに途切れる。

　はっきり言えば、学生の誰もが思い描くような美術部ではない。雑音を嫌う渡良瀬が一人きりで絵を描いているだけの時間を、普通の部活動と括（くく）れるのか。

　ましてや、この子は今まで美術部とは無縁だった未経験者。心機一転となる体験入部で放置されたとあっては、誰も幸せにならない結末になるのは想像に容易（たやす）かった。

「部長に相談してくるから、少しだけ待っていてくれない？」

「わ、分かりました」

　一（ひと）先（ま）ず下級生を美術室に残し、廊下に待機していた渡良瀬のもとへ。

　おそらく、体験入部のお願いは却下されるだろう。渡良瀬の性格や現状の部員数を考えると、意図的に一人の作業場を作り上げていると判断するのが妥当だからだ。

　怪（け）訝（げん）な表情を浮かべる渡（わた）良（ら）瀬（せ）に事情を伝え、下級生の意図を代弁してあげたのだが……寡黙な部長は予想していた反応とは異なる提案を繰り出す。

「……まずは見学してもらいましょう。放課後、また部室へ来るように伝えてください」

「えっ、いいの？」

「……センパイが驚く理由がよく分かりませんが」

　つい、驚きの声が甲高く弾んでしまう。

「俺のときは歓迎ムードじゃなかったのに……」

「……新入生の見学希望者と留年候補の帰宅部を同じように扱うのは正しいですか？」

「正しくないです！　生意気言ってすみません！」

　躊（ちゆう）躇（ちよ）もなく正論で殴るのはやめてくれ。

「……絵が好きな部員が増えるのは歓迎です。部活は一人でやるものじゃないので」

　渡良瀬の声音が幾分か柔らかくなる。やせ我慢しているわけではなく、本当に部員の入部を心待ちにしているような……心の本音が節々に滲（にじ）んでいた。

　美術室に戻った俺は下級生に放課後の段取りを話し、いったん教室へ戻ってもらう。部長と帰宅部の二人が残り、配達という当初の目的が済んだ俺も教室へ戻ろうとしたのだが、

「……センパイはこの後、予定ないですよね」

　立ち去り際、渡良瀬に声を掛けられる。ヒマだと決めつけられているのが複雑だけど、友達と合流して昼食を食べるくらいしか予定はない。

「まあ、教室で昼飯を食うだけだな」

「……それだったら、ここで食べていってください」

　その言葉を理解するまで、脳が一時的に機能を止めた。

　ここ、とは現在地の美術室しか思い当たらず、真意を測りかねている俺などお構いなしの渡良瀬は椅子を用意し、『座れ』と言わんばかりに神妙な表情のまま押し黙る。

「……やっぱり教室で友人と食べるほうが良いですよね。今言ったことは忘れてください」

　意表を突かれた俺が困っていると思ったのか、すぐに椅子を片付けようとする渡良瀬。

　こういった些（さ）細（さい）な言動からも、彼女が対人関係に強くないことが窺（うかが）える。

「渡良瀬にせっかく誘ってもらったし、今日はここで食べるよ。自分の弁当を取りに行ってくるから、ちょっと待ってて」

　俯（うつむ）きながら頷（うなず）く渡良瀬を残し、いったん自分のクラスへ。

　昼休みに珍しく姿を消していた俺は、友人たちにあれやこれやと詮索を受けながらも「登（と）坂（さか）に呼び出された」と適当な理由ではぐらかし、弁当袋を右手にぶら下げて美術室に戻る。

　女子と二人きりの昼飯。そんな一幕で一喜一憂するのが自分にとっては斬新な感覚で、どことなく青春の甘みや酸味なのでは、とか……アホなことを噛（か）み締（し）めたりもしつつ、健全な青少年は心が躍り、歩く足も身軽に跳ねた。