第7話
明美は夫である祐司を愛していた。
それは離婚をした今でも変わらない。もし祐司が元の祐司に戻ってさえくれれば、復縁してもいいとすら思っている。
離婚のきっかけとなったのは不幸な事故だった。
明美と祐司はお互いに23歳の時に結婚して、7年近く子供に恵まれなかった。32歳でやっと女の子を授かった。
元々子供好きだったのだ。本当に嬉しかったのだろう。恵と名付けられたその子を祐司は目に入れても痛くないというように大変可愛がっていた。
恵が3歳なった夏だった。
明美は祐司と恵の三人でプールに行った。恵はまだ幼かったが、かならず一緒にいれば問題ない。そう思っていた。恵も楽しそうだったし、明美も祐司もそんな恵の様子を見て幸せだった。
しかし、ほんの一瞬だった。
ほんの一瞬目を離した隙に恵は水の中に消えていた。慌てて救助したときにはもう遅かった。
生活が変わってしまった。
明美は自分を責めたし、祐司は廃人のようになってしまった。毎日、ぼーっとしながら会社に行って、帰ってきて、すぐに部屋に閉じこもる。そんな生活。食事もほとんど取らなくなっていて、祐司は痩せ細っていた。
何がきっかけだったか忘れてしまったが、あるとき二人は喧嘩をした。
祐司が明美に手をあげたのはその時が初めてだった。
その時から、今まで優しかった祐司が激変した。
今までの祐司は優しくて、優柔不断で、何かにつけて明美に頼るようなそんな男だったのに、事あるごとに明美を殴るようになった。
それはまるで恵を失ってしまった悲しみをぶつけているようだった。
10年耐えた。
10年で限界が来た。
これ以上一緒にいたら、いつか殺されてしまうと思った。
恵を失って、明美のことまで殺してしまったとなれば、きっと祐司はおかしくなってしまう。そんな気がした。
だから自ら距離を置いたのだ。
明美は祐司を愛している。
それから1年近く、祐司には会っていない。
祐司には恵のことも明美のことも忘れて、楽しく生きていてほしいとそう思っていた。
でも、今日こうやって昔恵と祐司と三人で住んでいた家にまた来ている。
祐司に会いに来た。
会いに来たことに別に意味はない。
ただなんとなく嫌な予感がしたのだ。
明美は勇気を出してインターホンを押した。
「何しに来たんだ」と怒鳴られ、また殴られるのではないかと怖かったが、返事はなかった。
恐る恐るドアノブを引くと鍵がかかってなかったようで、ドアが開いた。
部屋の中は薄暗かった。
廊下にゴミ袋が山積みに置かれている。よくテレビのワイドショーで見るゴミ屋敷だ、と明美は思う。一人暮らしと言うだけでここまで部屋が荒れるものなのか、と明美は思った。
勝手に入ったことを咎められるのは怖かったが、得も言われぬ不安感が勝った。
ゴミ袋をかき分けて一階にある祐司の部屋に向かう。
祐司の部屋の扉は開きっぱなしで中には何もなかった。
明美は少しほっとしたが、すぐに辺りに不思議な甘い香りが漂っていることに気づく。砂糖を煮詰めたような甘ったるい香り。入り口からしていた生ゴミの腐った臭いよりも強烈に鼻腔をくすぐる魅惑的な香りだった。
匂いの元を探す。
それはどうやら二階の昔の明美の部屋から香って来るようだった。
階段を上がり、部屋のドアを開ける。
強烈な甘い香りが脳天を貫いて、明美は一瞬クラクラとした目眩に襲われた。
そこにあったのは一体の死体だった。
死後何日経っているのだろう。
腐乱していて、原型を留めていない。
ポップでカラフルなマーブルチョコレートのような色をした、見たことのない芋虫を全身に這わせながらそこに横たわっている。
死体から発せられる腐臭をかき消すほどの匂いの元はどうやらその芋虫のようだった。
その死体は祐司だ。
顔は腐り落ちていて判別はつかなかったが、それでも明美にはわかった。
部屋の真ん中で祐司が死んでいる。
サイケデリック 神澤直子 @kena0928
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