【落語台本】はしか絵

紀瀬川 沙

第1話

▼吉原遊郭 「守田屋」張り見世の前


【桜満開の季節、吉原遊郭は今夜も人でごった返しております。あんどん、ぼんぼりの灯りのもと流れる三味線の音色。郭の賑わいからは人々の浮かれ心が目に見えるようであります。ただ、ここ吉原の賑やかさをしり目に、今日び江戸にはもう何度目かの疫病の波が押し寄せておりました。ここにいる人々誰もが、みな遠き近きの違いこそあれ、誰かしら知人を亡くしているといった惨憺たるありさま。その流行り病の正体は、はしかであります。これから描きます顛末は、そんな江戸の町での暮らしの一場面。今の世に学ぶところなどあるかどうか。ちょうど今、妓楼の張り見世の前を男が通りがかります】


熊五郎  「坊さん、ちょっと待ってくれい。小腹がすいちまった」

坊主   「まだ宵の口だよ。それに、さっき握り飯を食べてなかったかい?」

熊五郎  「そうなんだが。せんべい持ってなかったか?」

坊主   「あるよ。待ってな。割るから。はい」


【坊主が素手で割ったせんべいを熊五郎に渡します】


熊五郎  「悪い悪い。くぅ、せんべいに酒、いいねぇ」

坊主   「もう飲んでんのかい?郭に入ってからでいいじゃないか」

熊五郎  「いいの、いいの。ひとつ、どうだい?」

坊主   「酒なんて飲めないよ。瓢箪しまいな」


【長屋でみんなで使ってる瓢箪をくすねてきた熊五郎、じかにグビグビ酒をあおりますってぇと、店先の客引きが】


牛太郎  「どうぞ、どうぞ、お上がりください」

熊五郎  「それにしても坊さん、横丁の爺さんは今夜が山だってのに、こうして来ていいのかい?」

坊主   「まだ坊主の出番はありゃしない。今は医者の出番。とかく人の生き死には自然の摂理。従いましょう」

熊五郎  「どうだか?このところの、はしかの流行り病で坊主が町中行ったり来たりだ」

坊主   「わたしたちもいつ病に罹るか。今も罹っておるかは、麦殿大明神のみぞ知るところでしょう」

熊五郎  「酒で喉を焼くのもいいらしい」

牛太郎  「ささ、ちょいと、旦那。どうぞ見定めください」

熊五郎  「仲に来たんだ。そりゃ、わかってら」

牛太郎  「お上がりくださいますか?いかがです?」

熊五郎  「坊さん、どうする?」

坊主   「うぅん、まだもう少し先などを」

熊五郎  「だとよ。ぎゅうた、うちの和尚のお眼鏡にかなうかい?」

牛太郎  「そこを何とかお待ちくださいな。今、新しいのが出てくるところですから。三味線の用意できたかな?」

坊主   「こう人ごみのなかで立ち止まっているのも厳しいのう」

酔っ払い 「どけどけ。うっぷ」

熊五郎  「きたねぇ。早く行け」


【立錐の余地もないほど込み合った吉原の街中。人と人との間も吐息がかかるほどです。そんな中、酔っ払いのげっぷを食らった日にゃあ】


坊主   「酒ばかり飲んでると、熊さんもああなってしまうよ。あぁ、春の埃か、目がかゆい」

熊五郎  「春埃、一句ひねる気か?」

坊主   「俳句なんて作る暇はないよ。湯屋で全身流したい」

熊五郎  「俺もだ。でも湯屋に行ったら、それこそ流行り病に」

坊主   「本当に。どこも閉まっちまって。江戸中、みんな、あちこちかゆがってるよ」


【和尚はごしごし指で目を掻き回します。そうこうしているうちに、女郎でぎゅうぎゅう詰めの張り見世のなかでは女郎の交代があったようで】


牛太郎  「お待ちどう。ほうら、用意できました」

振袖新造 「こんばんは。どうぞお寄りくださいな」

牛太郎  「さぁさ、見定めいかがですかな?」


【牛太郎は、ますます口角に泡を浮かせて唾を飛ばしながら客を引きます】


振袖新造 「〽 お二階 綺麗なお姐さん、一階 わちきの雑魚寝部屋」

牛太郎  「さぁさ、お上がりいただけますか?」


【妓楼のなかでもまだ低級な彼女たち。暮らしのなかの悲哀を奏でて人目を引こうと致します。狭いところへぎゅうぎゅうに押し込まれて閉ざされて、いつか太夫を目指す可憐な姿】


振袖新造 「〽 高尾太夫にあすなろう」

熊五郎  「あぁ、あぁ、聞いちゃいられねぇ。三味線の弾き方もたどたどしい」

振袖新造 「まだまだ練習中でありんす」

熊五郎  「まったく。坊さん、行こうぜ」

坊主   「いやいや、熊さん、うぶなところもまた乙だ」

熊五郎  「はぁ、よくわからねぇな」

振袖新造 「和尚さん、かわいい頭」

坊主   「いくらでも触っておくれな」

熊五郎  「ったく」

牛太郎  「どうです?どうです?」

熊五郎  「うちの和尚が首ったけだ。しょうがねぇ、和尚はあの子で、俺はどうするか」

振袖新造 「〽 二階の雪隠通い詰め、酒を流せばよいものを」

熊五郎  「奥のあの子とあわせてくんねぇ」

牛太郎  「ははっ、かしこまりましてございます。こちらへどうぞ」

熊五郎  「和尚はもちろん酒は飲まねぇから、まずは俺の一本だけでいい」

牛太郎  「はいはい」

熊五郎  「ただね、精進料理なんて出されちゃ困るよ。肴は二人分ね」

坊主   「まぁまぁ」

牛太郎  「へへ、かしこまりましてございます」


【呼び込みの牛太郎に誘われ、熊五郎と坊主は妓楼「守田屋」の中へと入ってゆきます。広間で一通りの案内をされ、酒とお通しの希望を簡単に伝えたのち、そそくさと二階へのぼってゆきました】


お蝶   「お客さん、こちらへ」

熊五郎  「おうおう、張り見世の暗がりで見るより全然」

お蝶   「お上手」

お香   「和尚さん、どうぞ」

坊主   「和尚さんはやめてくれ。さすがに人目がはばかられる」

お香   「ふふふ」

熊五郎  「美人のお酌で春の宵」

坊主   「妓楼にいざなう春埃」

お蝶   「都々逸?」

熊五郎  「いんや、俳諧ってやつだ」

お蝶   「どっちでもいいや」

坊主   「ですな」


【笑い合いながら、二人一組で手と手、肩と肩を擦り付けながら戯れが続きます。ここ吉原の郭には、房事を前に、流行り病もどこ吹く風。心の猿はしばりつけておくこともできません。疫病神も浮かれ心に送り出されて、三ノ輪のほうへ出て行ってくれたらよいものを。そうはゆかないのが恐ろしいところでございます。さぁさ、夜の街から、次のお話へと続きます】

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