水面ノ灯火

吉田優蘭(ユーラ)

一、解けない謎

「私……分かった……。そっか、そういうことだったんだね……」

 暗い。墨汁を零したかのような空間に、彼女の悲痛な涙声が、つと静寂を打つ。やがて流れ落ちた涙が黒の世界に波紋を作り、静かな流動が世界に彩りを与えていく。

 視界には周囲を囲うほどの水面が映る。俺は湖を横断するように掛かる橋の上にいて、彼女を見つめていた。身体は動かない。それは俺の視界にもう一人……いや、鬼が居たからだ。この世のものとは形容しがたい顔面は、およそ醜悪な鬼の形相で、俺の村に古くから伝わる鬼神おにがみの能面であった。鬼は無言を貫き、その奥にあるはずの瞳は人の光を失っていた。

「この謎は、解いちゃいけない……解けないの! これじゃあ、誰も……救えない……」

 両目から、一つ、また一つ、自分の行いを悔いるように零れる涙。それは懺悔か絶望か、目を閉じた彼女はこれから起こることを受け入れているかのようでもあった。

この場所は俺たちの見知った場所。それなのに今、湖面には数々の灯篭がたゆたい、この橋を淡くおぼろげに照らしていて、ひどく現実感の喪失した幻想の中にいるようだった。それが余計に、俺の身体を束縛している。

「この謎を解けば、また共鳴にとりつかれる人が生まれる。そして、同じように私の代わりが必要で……。ごめんね、ホントにごめんね……」

 彼女の嘆きが分からない。俺にはそれが何を意味するのか、ということが理解できていない。彼女がなぜ謝っているのかも、誰に、謝っているのかも――。

 鬼はその言葉を聞いて能面を外した。そして、彼女の哀れむ顔を隠すようにその能面を被せ、囁くように呟いた。

「ご――、―――ちゃ―……。――する――……―法は――んだ。――為―、死ん―――」

 被された能面は、鬼神の面から小姫こひめの面へと様変わりする。左目から涙を零すその姿は、伝承の神女しんにょを思わせた。

 この村に伝わる〝鬼〟と〝神〟は決して交わることは無い――。そんなことを、今になって思い出して顔を歪めた。どうして、彼女が泣いているんだ……。分からないのに、痛々しい程に声を震わせる彼女に、何もしてやれない焦燥感が俺を駆り立てる。

 この短い距離が、今までの俺が、蚊帳の外だったのではないかと錯覚してしまう。俺が望めば手が届く距離なのに手を伸ばしても決して掴めない……そんなもどかしさを……。

 

 鬼だった誰かは、まるで木彫り工芸を実演するかのような優雅さで、握った得物を彼女の面に近づける。しかし、その切っ先は彼女の綺麗な首筋へと当てられた。俺はハッとして、ようやく声を絞り出す。

「やめろッッッ!!!」

 勢いよく横薙ぎに引かれた切っ先。刹那、溢れ出した鮮血が霧散した……。

 

 水面ノ灯火ガ、赤ク染マッタ―――。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


「ッ……はぁッ、はぁッ、はぁ……はぁ……」

 気がつくと掛け布団を剥ぎ取り、肩で息をしていた。部屋も底冷えする季節になり、吐く息白い真冬の朝方にも拘らず背中には汗が滲んでいる。呼吸が整う頃には、自分がなぜこんなにも早朝に飛び起きてしまったのか思考を巡らせていた。

「また夢……か……。何の夢を見てたんだ……?」

 思い出せない。胸の奥に小さく残る焦燥感は、何も教えてくれない。一つため息をつくと、視界の端にそれは映った。

 能面――。昨夜は遅くまで、コイツの仕上げをしていた。ある程度、形には出来たが細部が気になってしまって修正を繰り返しているうちに、深夜になってしまった。それから倒れこむように布団に潜り込んだが……寝覚めは最悪だ。

 なぜ仕上げを急いでいるかというと、俺の実家の村祭りがもう目前に迫っていたからだ。今俺は実家を出て大学の学生寮で生活している。大学に通いながら、村の伝統工芸である木彫りの修業は続けていた。

 実家は「花明かめい一刀彫」の本家本元。俺は一人息子だから、家は継がなきゃいけない。

 「花明かめい愁次しゅうじ」、父さんの跡を継いで俺の名前が花明家の何代目かに刻まれるのは、そう遠くない未来には実現するだろう。


 ただ――。俺には確かめたいことがあった。

 いや、確かめようのないことなのかもしれない……。それに少しでも近づけるように専門的な知識を学ぶ為、この大学を選んだ。父さんには家を継ぐことを条件に大学までの時間をもらった。だから、今年が最後の年……。

 俺は今日までの間、色々な仮説を立ててきた。その中で生まれた、一つの可能性。それは俺が想像するよりも遥かに、恐ろしいものかもしれない。でも……確かめたいんだ。

 俺の中にある、不思議な記憶――。

 幼い頃の、あの人の記憶……。俺の憧れが生んだ妄想なのか、それとも――。

 この仮説を立証するには、あの村に帰らなければならない。昭和の時代もそろそろ終わるのではないだろうかというこの時期に、古い言い伝えや習わしが残る珍しい村だ。

 神姫村かみきむら。飛騨の山岳地帯に程近く、八百万の神様が滞在していたと云われている。それ故か、観光名所としての知名度はそこそこあり、冬のお祭りでは珍しい風物詩があった。平たく言うと、全国各地でも催される灯篭流しのようなもの。

 俺の村では「雛灯篭」と呼ばれていて、村の中央に広がる湖に灯篭を浮かべる催しだ。

 そこで使われる灯篭や、お祭りの演目で必要になる能面。それらを村の伝統工芸の一つ、花明一刀彫で制作されるわけだ。

「……三年振り、か」

 窓を少し開けると、季節に違わぬ二月の寒風が部屋にそっと入り込む。肺に入ると、チクリとするくらい冷たいが、それが寝起きの鈍った頭を目覚めさせてくれるには心地よいものだった。

 そういえば……と、あいつから言われていたことを思い出す。


『今年は村に帰るよ。三年も顔を見せなかったんだから、親孝行しなくちゃ』


 祭りは毎年開催されているが、村を出てから今日まで大学を優先していた。専攻は違うが、同じ大学に通う織恵は俺よりも少し早い春休みに入っていて、三日前に帰省している。

 小鳥居ことりい織恵おりえ――。俺の幼馴染で同郷の、気心の知れた友人である。恋仲というわけではないが、男女仲でいえば良好な関係を築けている相手だと思う。理由はそれぞれあるが、同じ大学に通っていて構内でもすれ違えば立ち話をすることも多々ある。俺にとっては小さい頃に色々と助けてもらった恩があって、その意味では感謝してもしきれないくらい織恵のことは大切に思ってる。

 それならば……と、織恵が帰るなら俺も久々に顔を出さなきゃと思い、手土産として神姫祭で使う能面を持っていこうと考えた。跡継ぎとして恥じないモノを……と思えば思うほど、父さんに胸を張って見せられるモノを彫りたかった。そしてようやく、完成した。

「ふぅ……」

 吐き出した白い吐息が溶けるように、朝見た夢のことは頭の中から霧散して消えた。

 今年の春休みは村で過ごそう。久々に作品を見てもらって、地元の友人たちと神姫祭と洒落込もう。色々と考えるのはそれからだ。


 俺は窓を閉めて、帰省の準備を始めた――。

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