20話 どちらでもない
兄の殺意を見た。──
「…………」
水緒の身体に水が打ち当たる。
合掌する手がいまさらながらふるえてきた。それは、異母兄である彼の本気を垣間見たおそろしさからか。あるいは異母とはいえ兄がいたという現実の興奮からか──。
どうどう。
どうどう。
(……嗚呼)
いつでも変わらぬ豪瀑の勢いが、悶々と気落ちする水緒の頭を切り替える。
──水緒さまの異母兄さまにございます。
そういったあと、白月丸はあわてて付け加えた。
「しかしながら、いまの水守さまはまだ完全な水守さまではござらん。水緒さまも知ってのとおり、水守さまの龍の気は大半が宝珠のカケラのなかに入っております。ゆえにその気が持つ記憶や力が戻らぬかぎりは……水守さまであって、水守さまではないということです」
「大半の気をうしなった状態であれほどの龍を使役するとは。さすがは大龍さまのご長子といったところじゃの」
と、感心したようにつぶやく朱月丸。
そうだ。たしかにすごい力を感じた。だからこそ水緒は気圧されその場から動くことができなかった。あのとき吽龍を呼び出せたのが自分でも信じられぬほど。
「……あの人は、あたしのこと恨んでるの?」
「なにゆえ」
「すごい殺気だった。きっとあのとき吽龍に守ってもらわなかったら、あたしも朱月丸も死んじゃってたんじゃないかってくらいに。どうして……」
「それはなかろう」
と朱月丸はあっけらかんとわらった。
「あれほどの巨大な気で生まれた使役龍が、宝珠の力のない吽龍の結界を破れぬはずはないですよう。水緒さまのお力を見たかったとか、そこらへんの理由でしょ」
「朱月丸のいうとおり」
白月丸も大きくうなずく。
「あの人が殺気を向けぬほうがめずらしい。水緒さまは力試しをされたにすぎませぬよ」
「な、なんて人……」
「それよりも水緒さま、とにかくいまは気を落ち着かせるためにも禊をなされよ。それがしらは大龍さまのところへ報告にゆかねばなりませぬゆえ、周囲を阿龍と吽龍に守らせてくださいね」
「うん。──ありがとう」
──と。
白月丸にうながされて滝に打たれ、ようやく禊を終えた水緒は、濡れに濡れてぴったりと身体にひっついた装束もそのままに、ごろりと岩の上へ身を投げ出した。
「はぁー」
阿龍と吽龍がまわりを飛ぶ。
近くの木々や草花の話し声に耳をかたむけると、彼らは先ほどの事象についてささやきあっているようだ。ところどころで(みずもり)という単語が聞こえてくる。
「……みんなは、水守のこと知ってるの?」
問いかけてみた。
自然は気まぐれに声を出す。そして気まぐれに黙ってしまうため、とくに返事を期待しているわけではなかった。案の定、水緒の声に草花たちは静かになったけれど、代わりに樹齢数百年をも超える大樹がずっしりとした物言いで返事をしてくれた。
(水守は、強く、気高い、龍のなかの龍じゃろのう)
「こわくなかった?」
仰向けのからだをごろんところがして、うつぶせの状態から上半身を起こす。
すると周囲の草花はさわさわとささやき出す。
(くすくすくす)
(こわい?)
(こわいは、いとしい)
(よいは、わるい)
(きらいは、すき)
(うらもおもてもおんなじなのよ)
裏も、表も?
どういう意味、と水緒は年季の入った古木を見上げる。
すると彼はくすくすと枝をゆらしてわらった。
(記憶のなかの水守はこわかったかえ)
「…………」
水緒がぼうっと口をつぐむ。
宝珠のカケラを手にしたときに見えた、水守の記憶──。
「ううん」
(ほんでもさっきはこわかったかえ)
「うん」
裏も、表も。
どこから見たってそれはそれでしかない、と古木は静かにつぶやいた。
(善いも悪いも、好きも嫌いも、表も裏も。意味がわかるかえ)
「…………わかんない」
水緒は泣きそうな顔をした。
けれど古木はふたたびくすくすと枝をゆらす。
(いつかわかろう)
そしてそびえる古木は沈黙した。──自然は気まぐれに声を出し、気まぐれに沈黙するものである。濡れた襦袢もそのままに水緒はふらりと立ち上がる。裸同然のその姿はまるで自然に生きる動物のようだ。
「わかんないよ──」
つぶやいて、水緒は空をあおいだ。
まもなく草陰からやってくるオオカミの銀月丸に「風邪をひく」と怒られるまで、水緒はしばらくそのまま動くことができなかった。
※
「水緒」
こころが手を振った。
どうやら滝行体験はつつがなく終わったようで、初めての経験だった大地と英二にとっては忘れられない日となったとか。
水の力強さや清々しさに興奮するあまり、いまだに濡れた行衣のままでいる男子ふたりをよそに、毎年参加のこころはもはや慣れたものである。すでに着替えを終えたうえに持参のドライタオルで髪の毛を乾かしている。
水緒は先ほど、迎えの銀月丸に怒られてタオルでひとしきり全身を拭かれたため、すでに髪の毛も半乾きだ。もちろん服も着替えた。
「そういや天沢、手は大丈夫かよ。あんなテントひとりで抱えて」
「ぜーんぜん大丈夫ッ。あたしこう見えて力あるんだよ」
「いや……まあさっき見たからそうなんだろうけどさ。あんまりひとりで無茶すんなよ」
一応は女なんだからなお前、と大地が眉を下げる。
女って。
水緒は閉口した。そのことばが大地から出てくるとは意外だったからだ。英二もおなじことを思ったのかぴゅう、と口笛を吹いている。
「相変わらずお熱いことで──さて、そろそろ帰るか。天沢、マジで今日はありがとう。けっこう楽しかったよ。庚月さんともかなり仲良くなれたし」
「そ、それはよかった」
いったいなんの話をしたのだろう、とおもって水緒の背筋がひやりと寒くなる。受付を片付ける庚月丸に視線をやれば、彼は「ようこそお参りでしたァ」と大きく手を振っている。愛想のよい彼のことだ、その人好きする性格ですっかり彼らと心を通わせたのだろう。
庚月丸にぺこりと一礼をしてから英二はこころにほほ笑んだ。
「こころさんも帰ろうぜ、途中まで方向いっしょだろ」
「ああ、うん。じゃあまたね水緒」
おや。
気がつけばこころもいやな顔をしなくなっている。いつもは控えめなこころだが、この滝行体験を通して他者といろいろ話したのかもしれない。そう思うとうれしくて、
「またあしたね」
と水緒は頬をゆるませずにはいられなかった。
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