第69話 幻影
地下霊廟の広間入口から激しく濁流が流れ込んでくる。
床にたまった水はみるみる深さを増していく。
土砂混じりの濁流は重く、足を取られる。
ヴァールは風のマントを使って浮上した。
ヴァールは鬼王と対峙しながら、後方のエイダ、レイライン、ハインツ、アンジェラをそれぞれ防御結界で包み込む。
彼女たちの丸い結界は濁流に浮かび上がる。内部には空気が充填されているのでしばらくは呼吸可能だ。
「急がねば……!」
ヴァールは聖剣ヘクスブリンガーを構える。
初代勇者ルーンフォースが使っていた剣だ。小さな彼女にとっては大きすぎる。
だが使い方はよく分かっていた。この剣を鍛え上げて勇者ルーンフォースに贈ったのはヴァールなのだから。
鬼王と広間入口の間にヴァールは陣取る。
皆を逃がすには濁流が収まったところで入口を通らせるしかない。
防御結界で包んだ仲間たちを目立たないよう少しずつ入口に近づける。
自分は少しずつ前に出る。
濁流にもはや胸まで浸かった鬼王が拳を振り上げた。
ただでさえ大きな拳がさらに一回り大きく見える。
「気のせい…… ではないのじゃ!」
ヴァールに巨拳が襲いかかる。
拳は土砂をまとってハンマーのような形に巨大化していた。
ヴァールは飛んで避けようとするが、衝撃波を浴びてきりもみする。
「バオウの属性は土、流れ込んでくる土砂流はバオウの武器かや!」
広間に並ぶ魔神像群もすっかり土砂流に沈み、ヴァールが飛行できる空間はわずか。
なんとか飛行の安定を取り戻したところに、鬼王の拳打が土砂を交えて襲ってくる。
ヴァールの空飛ぶ円盾が自動防御して土砂を阻む。
だがそこに拳が激突する。
耐えきれずに円盾は弾け飛ぶ。
水は広間の天井にまで達した。
もはや飛行できなくなったヴァールは自らを球状の防御結界で包む。
水中を漂う防御結界に機動性はない。
鬼王の拳が防御結界を直撃する。
防御結界はへしゃげそうに歪み、壁に叩きつけられる。
「ぐぬ! これは予想以上に……!」
内部のヴァールは振り回され、ぶつけられ、もんどりうつ。
鬼王は土砂を全身にまとって、より大きな姿となっている。
拳だけでヴァールの倍も大きい。
鬼王はその両拳を組んで、巨大なハンマーのようにヴァールの防御結界へと振り下ろした。
球状の防御結界が縦に潰れ、床に押し付けられる。床にひびが入り、円いくぼみができる。
鬼王は何度も何度も振り下ろす。
防御結界内とはいえ、衝撃はヴァールの小さな身体を容赦なく振り回す。
ヴァールの意識が薄れてくる。
鬼王が全力で拳を防御結界に叩きつけ、ヴァールの身体は跳ね上がって防御結界に激突する。
気が付けば、ヴァールは静かで美しい霊廟にいた。
浸水などしていないかつての姿だ。
「夢……? いかん…… 意識を飛ばされたかや……」
白い通路の周囲に魔神像が立ち並ぶ。
いや、像ではない。
彼らは生きていた。
彼らの光る目は霊廟の中心に向けられている。
「ここは…… 昔の霊廟かや……?」
ヴァールの身体に実体はないようだ。
見たいと思う方、霊廟の中心に自然と進む。
霊廟の中心、星の底への蓋が開いていた。
そこに男女が並び立ち、男の胸には赤子が抱かれている。
女が言う。
「どうしても、私たちは去らねばならないのでしょうか」
「我々はあまりにも強大になりすぎたのだ」
男は答える。
「星の魔力は総量が一定だ。魔王と呼ばれるほどに強大となった我々はただ存在するだけで魔力を独占してしまう。このままでは星の生命はやがて枯れ果てる」
「ええ、わかってはいます。でも、この子を置いて……」
赤髪の赤子がかわいらしく笑う。
男女は悲しみに沈む。
「この子は我々が残す可能性なのだ…… 魔力の運命を越え、アトポシスの呪いを打ち破る」
星の底から光があふれ始めて、光の柱となった。
「見よ、とうに力を失ったはずの星の魂から祝福の光だ」
男は光の柱に赤子を掲げる。
男女は唱える。
「この子の将来に、星の未来に
「ヴァール様! ヴァール様ったら!」
ただこの光景を見ていたヴァールの耳をエイダの叫びが打つ。
ヴァールは一瞬で現実に呼び戻されていた。
相変わらず鬼王の打撃が続いていて、ヴァールの防御結界はすっかり床にめり込んでいる。
打撃音が凄まじい上に、場所は水中、エイダの防御結界とは距離もある。
どうしてエイダの声が聞こえたのかは分からない。
「おかげで目が覚めたのじゃ!」
ヴァールは防御結界を拡大して、その勢いで床から弾き出した。
その防御結界を鬼王が両手で掴み取る。
鬼王の手を通してネクロウスの声が伝わってくる。
「愛しき君よ、無駄なあがきは止めませんか。あなたの主属性は風、この水中では風など使いようもないでしょう」
「そう仕組んだわけかや」
「そうそうそうそう、その通り! この日のために街を地下に沈めて、鬼魔族を捕らえて、人間を操って、愛しき君が去ってから三百十二年も待たせていただきましたよ! ええ! あなたの力を手に入れるために!」
「汝は余の友だと思うておったに」
「友! 最高の友ですとも! 死人使いと蔑まれる私をあなたは信じて四天王にまでしてくださった! どれほどうれしかったことか!」
「では、なぜじゃ」
「愛しき君は人間に騙される。人間に惑わされる。……人間を愛する! 人間に支配されるあなたを救うには私が支配する他ないではないですか!」
「……信じて裏切られたのは余の過ち。国を滅ぼして汝を苦しめたことは余の咎。しかし、その咎は余が背負うものじゃ。汝ではない」
「では、国を再興してくださると? 私をまた四天王に迎えてくださると?」
「このようなことを止めて、戻ってくればじゃ」
「ないないないない! ありえない! あなたはまた人間を愛しているではありませんか! あなたのその手で人間を残らず滅ぼしてくれれば信じましょう!」
「余は汝らも愛しておるのじゃぞ」
「違う違う違う違う! それでは違うのですよ! どうしてお分かりいただけないのです!」
「余には同じじゃ」
「やはり愛しき君は三百十二年前とお変わりになられない! さあ、その血をいただきましょう。あなたを、あなたの国を、全て支配してさしあげます。ご安心を、人間も死人として魔物に加えますから。さあ鬼王、潰しなさい」
ヴァールが入っている球状の防御結界を、鬼王は両手で潰しにかかる。
防御結界は軋み、楕円球に変形し、潰れていく。
「ヴァール様!」
身動きの取れないヴァールに、エイダの心の叫びが伝わってくる。
ヴァールは微笑んだ。
「心配するでない。余は魔王ぞ!」
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