雪を溶く熱
増黒 豊
なつ
もうすぐ、ゆきがふる。そういう、においがする。たぶん、もうあのさみしい花はない。
名前のない、あきとふゆの、そのあいだの今日、わたしはやっぱりこの木の下にいた。
「美冬」
わたしの名前を呼ぶ、秋人。
「この木で、いつも遊んだっけなあ」
どうしてか、わたしを見ようとはしない。
「あの枝のところで俺が足を滑らせてさ、あのときは大変だったな」
わたしが秋人をおんぶして家まで連れてかえってあげた。秋人のおかあさんは、びっくりしていた。
「それから、あの田んぼのとこで、どっちがたくさん蛙を捕まえられるか、って」
それも、おぼえてる。蛙がいっせいに鳴きだして、まるで田んぼ全部がうたってるみたいで、ふたりで立ちつくして、歌を見てた。
そしたら、急にあめがふりだして、ふたりで蛙を放り出して、やっぱりこの木のところまで逃げてきてあまやどりをした。
あのとき、じっとわたしを見てたのは、知ってる。わたしには、どうしてかは分からなかった。
ちいさいころから、ふたりであそんだ。
でも、秋人はわたしを見ようとはしなくなって、どんどん背が伸びて、声もひくくなって、友だちもあたらしい人がたくさん、たくさんできて、そのうちにいつも一緒にいる人はわたしじゃなくてあの首のほそい、きれいな人に変わって。
そうして、秋人は、わたしのところには来なくなった。
しかたないと思った。
わたしのことを、わすれてしまっても。
だから、今日、どうして秋人がわたしのところにやって来たのか、分からない。
秋人の肩まわりはとてもがっしりとして、もう大人の人みたいで、すり切れた靴がとても似合っていなくて、変。
その靴で、なにか、とても言いづらそうに草を蹴りながら、御神山の方か長柄川の方かに眼をやって、それをようやくわたしたちの木の葉っぱに戻して、陽にやけたほっぺたを笑わせた。
「俺、東京に行くよ」
秋人のきれいな目がふたつあって、わたしは、なにもいわない。
なにもいえない。
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