第3話 心の欠片『山葵醬油で卵焼き』①


 入っていいものか、どうか。美兎みうはとても悩んでいた。


 どう見ても、妖怪の客だと言うことはわかるのだが。楽庵らくあんの入り口で、親子らしいがはじめて見る顔ぶれに、中に入っていいのかどうか迷った。何故なら、一人の女性が子供に抱きつきながら泣いているからだ。


 修羅場、と言うよりは感動の再会、に近いのだろうか。


 子供の方は泣いていないようだが、母親らしき女性の頭を撫でていた。



「……おや? 入り口を塞いでしまってすみません」

「あ、いえ」



 父親か、と思った方の男性もやはり人間ではなかった。白目が黒く、金のような黄色の瞳孔。怖くはないが、他の動物のような妖怪達しか見て来なかったためか、店主の火坑かきょうとも違って随分と人間らしい妖怪に驚いたのだ。



「ほら、灯里あかり。お客さんの邪魔になってしまってるよ? 私や灯矢とうやも中に入れておくれ?」

「あ……ごめんなさい、兄さん。ほら、灯矢。こっちにいらっしゃい?」

「うん」



 男性の妖怪は、父親ではなく女性の兄のようだ。顔が見えた時に、たしかに女性の目の具合も同じだった。子供の方は瞳孔が黄色ではなく青だったが。別に気にすることではなかった。



「おや、お久しぶりですね。湖沼こぬまさん?」

「お久しぶりです、火坑さん!」



 とにかく、今日は楽庵で久しぶりにたくさん食べて飲みたい気分だった。配属された希望部署では、日々奮闘したり叱られたりすることはあったが、苦しくてもやりがいはあった。研修の頃に、夢喰いの宝来ほうらいや火坑からもらったアドバイスを胸に日々動くお陰で、先輩や上司からも少しずつ仕事を任されてはいる。


 その結果、楽庵への足が遠のいてしまっていたが、久ぶりの連休前夜に行こうと決めたので、終業後に今日は久屋大通で洋菓子を買ってきたのだ。



「お疲れ様です。おしぼりです」

「ひゃ、冷たい!」

「夏ですからね? 少しリフレッシュするには最適ですよ?」

「そうかも。気持ちいいです」

「それはよかった。さ、燈篭とうろうさんや坊ちゃんも」

「どうも」

「いーい、灯矢? 手をしっかり拭くのよ?」

「うん」



 この店は、奥に小さな座敷席がある以外は数席のカウンターしかない、言わば隠れ家スタイルではあるが。満席近い今でも心地よい空気で満ち溢れている。


 常連仲間の、美作みまさか辰也たつやとも顔を合わせる機会がめっきり減ったが、職場は近いはずなのにランチラッシュのこの中区では出会ったことがない。けれど、仕事の愚痴を言い合うのも楽しいが、今日は久しぶりの来店を楽しもう。


 まずは、お歳暮も兼ねて火坑に持ってきたお菓子を手渡した。



「久屋大通の途中にある洋菓子屋さんで買ってきました! 火坑さんのお好きなフィナンシェとマドレーヌです!」

「いつもありがとうございます。……こちら、皆さんの食後のデザートにお出ししても?」

「いいですよー」



 皆で分け合うのが大好きなこの猫人は、今日も一度美兎に断りの言葉をかけてくれる。自分一人で食べるより、皆で分け合うことが好きな性格らしい。人間だったら、絶対モテて女性に引っ張りだこになる妖怪だが、人間に見えてたあの外見もなかなか好印象が高かった。



「……お、かし?」

「そうですよ、坊ちゃ……いいえ、灯矢君でしたね?」

「? ねこ……のおにーさん?」

「おや、僕をお兄さんとは。まあ、独り身ですので、おじさんでもいいですよ?」

「ううん。とーろーのおじさん以外のひと、あんまりおじさんとかおばさんって呼んじゃいけないって」

「おやおやおや」

「ふふ。私や灯里の言うことはよく聞くんですよ」

「そ、そうね」



 小さいのに、しっかりした性格の子供だ。妖怪だからか、と美兎には推測することは出来ないが。他人の子供のことだから、あまり深く関わってはいけない。人間でも妖怪でも、プライバシーは大事だからだ。学生の頃、いやと言うくらい元彼のせいでひどい目に遭った美兎はそう思っているのだ。


 つまりは、男運がないわけであるが。



「さて、湖沼さんは本日どうされますか?」

「! スッポンスープと雑炊おじやは絶対! それ以外に今日のおすすめはありますか?」

「そうですね。先程、こちらの灯里さんには煮穴子を出しましたが。他にはうなぎもありますよ?」

「じゃ、うなぎ! タレじゃなくて白焼きって出来ます?」

「おやおや、通な取り合わせですね? では、先に」

「はいはーい!」



 心の欠片を手渡すべく、手を差し出すと。ぽんぽんと肉球のない手を美兎のに重ねると。一瞬だけ手の中が光って、離した時にあらわれたのは。



「今日は山葵わさびにしました」



 テレビなんかのグルメ番組で見たような、綺麗な山わさび。お寿司や、美兎の頼んだ白焼きで使えなくもないが、他にどんな使い道があるのだろう。



「? それなーに?」



 それと、山葵を見たことがないらしい灯矢は興味津々だった。



「山葵と言う食べ物なんですよ。灯矢君、お寿司はわかるでしょうか?」

「うん。とーろーのおじさんがたまに食べさせてくれる」

「……兄さん」

「だって、可愛い甥っ子がいるんだよ?」



 どうやら、訳ありではあるらしいが家族仲は良好らしい。



「そのお寿司で、ご飯と魚の間に少しだけ載せる食べ物なんですよ。まだ灯矢君の年頃だと辛過ぎるでしょうか?」

「……食べてみたい」

「灯矢、あなた辛いの苦手でしょう?」

「うん。けど、気になるの」

「無理に背伸びしなくてもいいんだよ、灯矢?」

「……ちょっと、だけ」

「ふむ」



 だいたい五歳くらいだと、好き嫌いは激しくても未知な取り合わせには興味を持つのだろう。


 美兎はどうだったかと思い出しても、大嫌いなこんにゃくとキノコ地獄だった日々しか思い出せなかった。



「では、お寿司でがありませんが。卵焼きでしたら食べやすいので、その薬味にでも?」

「火坑さん、ありがとうございます」

「いえいえ。……おやおや?」



 さあ、作るぞと意気込みかけていた火坑が灯矢の髪についていたらしい何かを取った。その仕草には、美兎も覚えがあった。



「……それ、なーに?」

「ふふ。灯矢君の心の欠片ですね?」

「ここ……かけら?」

「灯矢君の持ってるあったかい心の一部ですよ? 何に見えますか?」

「……ちっちゃいくまのぬいぐるみ」



 ちょうど美兎からは向かい合わせな位置にあった灯矢の顔は。


 どこか、辛い思い出を抱えた子供のように見えた。

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