第25話 名無しの皇帝


 

 「こいつはアズラガだっ!」

 

もはやバヤンが気付いたところでどうにかなるものでもなかった。

 白馬が前足を跳ね上げたせいで、雪花シュエホアの身体は宙に放り投げられた。

 後はご想像の通り、万有引力の法則には逆らえない。

 地に落ちる寸前の雪花の目に、畜生め、と血相を変えて飛んで来るバヤンの姿が逆さに映った。

 そして身体は地面に叩きつけられた。

 

 「つう……」

 

 「ちー坊!!大丈夫か――!?」

 

 すぐさまバヤンが助け起こすが、身体のあちこちが痛くてなかなか立ち上がれなかった。

 

 「あたた……」

 

バヤンが身体の何処かに異変がないかチェックした。

 

 「頭は打ってないな?私が誰だかわかるか?お前の?」

 

 雪花はこくりと頷いた。

 

 「養いの……… おとと様」

 

 初めて目前の人に、自分の父親以外の人を、そう呼んだのかも知れない。

 

 「よし、どうやら頭は大丈夫のようだ。骨折もしてないみたいだな…… と」

 

 バヤンがホッとした顔を見せる。

  満足に受け身を取れていない状態だったにも関わらず、ほとんど無傷で済んだなんて幸いとしか言いようがない。

 バヤンは視線を馬に向けた。

 

 「魚目さめか…… 大昔、大宛だいえんっていう名馬を産出する国があってな、そこから発生したアハルテケって馬の血を引いてるから目が青いのだろう。しかも三白眼、何考えているかわからん不気味さがあるな。こりゃ厄介なやつだぞ」

 

 「伯父様、さっき言ってたアズラガって?」

 

 「アズラガってのはな、未去勢馬のことだ。つまり群れを統率する牡馬オスのことなんだが、人間から見りゃ、ただの〈種馬〉さ。だから本来は乗馬には適さない。なんたって気性が荒くて、気位も高いから誰もわざわざ飼い慣らしてまで乗ろうとしない。はっきり言って労力の無駄遣いだからな」

 

 「そうなんですか…… それでお文にはなんと?」

 

 バヤンが内容を話してくれた。

 

 テムル・ブカが大都に到着する前のこと。

 ある村に立ち寄った鎮南王一行は、村の長老から一頭のアズラガを買わされる羽目になった、と。

「この村に、偉大なる太祖チンギス・ハーン様のひ孫様が来られた!」

 この知らせに村中は大興奮し、一行を熱狂的に歓待した。

 「おおっ!偉大なる我らが始祖の胤よ!」と、喜びの余り鼻水と涙を流して喜ぶ長老の顔はぐちゃぐちゃ、もう失神寸前だった。

知らせを聞いた隣村の人々も集い、村は連日お祭り騒ぎになった。

 ところが、この村には――常識的に考えてもおおよそありえない風習があって、未婚の女子は旅人の寝所に供し、どうか一夜の愛の形見を、と旅人から指輪(装身具)を請うとか。

 そして一番指輪を集めた娘は、〈村で一番、モテモテ器量良しの女子おなご!〉と認定され、良縁が舞い込むのだという。

それを知ったテムル・ブカは内心穏やかでいられなかった。

「おいおい、○○の麺麭祭パンまつり貼紙シール集めじゃあるまいし……」

 いつ何時何処の誰が見ていないとも限らない。

 瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずだ。

一刻も早くここを発たないと、こんな見出しの瓦版が大都の至る所に貼り出されるかも知れない。

〈鎮南王、某村にて痴情の限りをつくす〉とか〈清純な村娘を手籠めにする鎮南王の呆れた所業〉だの〈きっと弟は魔が差したのだ、と兄コンチェク・ブカの号泣緊急記者会見の一部始終〉とまあ、有ること無いことでっち上げられてはたまらない。

 考えただけでブルッと身震いした。

 「いや、自分はもはや老境にある。しなやかなシカの如く美しい盛りの娘に似合う筈もないのだ」

 しまいにはエッヘンウォッホンゴボゴボ、と大袈裟な咳をしたが、すぐ芝居だと見破られてしまった。

 この主君の苦境を救わん、とダムディン老人はまことしやかに言った。

 「我が主君はな、さる高名な草原の巫術師より、これは稀なる〈女難の相〉が出ておられる!当分は潔斎に入りなされ、と神託を承った。万一これに背いて女人を近付け、または接すること有らば、たちまちにして神の怒りが雷となり龍が雨を降らせるだろう、とな!」

 果たしてその通りになった。

 にわかに空が怪しくなり、雲が大風を呼んだかと思うと、雷鳴が轟き大粒の雨が降った。

 村人達は畏れ平伏した。

 このダムディン老人の〈膝・天気予報〉は良く当たる。

 今朝から膝が痛むので、もしやと空を眺めればこれは来るな、と直感したのだという。

一方長老は、高貴な御方に御迷惑をお掛けしてしまった、と気に病んでいた。

 そこでふと目に付いたのが、この村が誇る一頭の、まだ一歳を過ぎたばかりの美しい青い目を持つ白馬だった。

 すなわちこれを献上すれば、と。

 しかし、この馬には欠点があった。

 将来は種馬にするつもりだったから甘やかされて育てられた。

そのせいで鞭も嫌う超ワガママな馬になってしまったのだという。

 それを聞いたテムル・ブカは俄然ヤル気を出した。

 村の娘達に装身具を、とそれ相応の金子を長老の手に無理やり握らせて白馬を譲り受けた。

 最初は、馬銜はみはおろか、無口の頭絡とうらくさえも嫌がって大暴れした白馬だったが、家臣らが一丸となって馬を取り押さえ、なんとか頭絡とうらくをはめることが出来た。

 そして三日後、馬の目の前に大好物の人参をぶら下げ、無事に馬銜はみを噛ませることに成功。

 それから大都に着く前、ひき馬は勿論のこと、腹帯と鞍を装着することを体に覚え込ませた、という。

ただし、相当にわか仕込みだったゆえ、充分な騎乗訓練は出来ずに到着してしまった、とある。

 

 「この馬について自信を持って言えることがある。忍耐強く接すれば、これ程に素晴らしい馬はそうそうなかろう。馬踏飛燕ばとうひえんもかくや、これぞ価千金あたいせんきんの馬。どうか良い名を付けて可愛がってやって欲しい。名馬は己が努力で作るべし、飴と鞭は使い方次第、だってよ。ちー坊どうする?」

 

 雪花は、きっと白馬を見据えた。

 白馬は耳を後ろに寝かせ、片方の前足はしきりに地面を掻いていた。

 威嚇の動作だ。

 

 (決してお前なんかの言いなりになるか、って目をしてる…… 上等じゃない。今まで何度死ぬかも知れないと思ってきたことか。それにくらべりゃこんなの、どうってことないわ)

 

 雪花は土の付いた頬を拭った。

 

 「ええ!とっても気に入りましたわ!」

 

 バヤンは呵呵かかと笑った。

 

 「一夏かけて必ずや飼い慣らして御覧にいれます!」


 

騎馬民族にとって馬は宝。

 バヤンは厩舎きゅうしゃにはお金をかけていた。大切な馬がストレスから病気にならないようにするためだ。

 切妻屋根の厩舎は、通気性を良くするために屋根を高くしており、 広くした中通路を挟んで左右に三つずつ馬房が並んでいた。

 まあ現代でも見られるオーソドックスな造りだ。

 この屋敷には三頭しか馬はおらず、あとの三つは空いていたのだが。

 

 「メエエエエ……」

 

 そのうちの一つは、最近羊角市からやって来た〈羊のメエコさん〉の部屋になっていた。

 雪花が来たことに気付いた白馬が馬房柵から首だけを覗かせた。

 優しく声を掛けながら、手で上唇じょうしんからおとがいを撫でた。

 

「ここ触るとプルプルっとして気持ちいいのよねぇ。クセになるわ」

 

 白馬は抗議のつもりか、ピルルル、とおかしな声で鳴いた。

 

 「うーん、名前か…… このおかしな鳴き声からピルルとか…… ってやっぱりダメか。畏れ多くも王族からの贈り物だし」

 

「ほお、これはずいぶん綺麗な白馬だ。名はなんと?」

 

 トクトアが愛馬サルヒを従えて帰って来た。

 サルヒは見慣れない新入りを見ても驚かなかった。

 やっぱり利口な馬だ。

 

 「まだ名無しなんですよね……」

 

 「なるほど。ネルグイか……」

 

 それを聞いた雪花の顔がパァっと

輝いた。

 

 「そうそれっ!それが良いです!!」


 なんとなく名前の響きが良かった。

 

 「じゃ、ハーンも付けようか」

 

 いつの間にかバヤンも来ていた。

 

「あのテムル・ブカ様からの賜り物だからな」


 ネルグイ・ハーン――名無しの皇帝。

白馬の名前が決まった。

 


 次の日、雪花は果敢にネルグイ・ハーンに挑んだ。

 馬装は二人の馬丁によって既に装着済みであった。

 この馬丁は二人兄弟で名前を青銅フレル鋼鉄ボルドといった。

雪花が二人に礼を言い、いざっ、と鐙に足を掛けたまでは良かった。


 「ピルルル……」


 まるでその時を待ってましたとばかりに、馬は右に向かって動き始めた。

おっとっと、と雪花は慌てて鐙から足を引き抜こうとしたが、馬が絶えず動くから引き抜こうにも引き抜けず、無様にも足を鐙に引っかけたままグルグルと、まるでコンパスにでもなったみたいに馬体と一緒に回るしかなかった。


 「ワァ~目が回るぅ~!」

 

 「お嬢様!!」

 

 二人の馬丁が慌てて雪花の腰を支えながら馬から引き離そうとするも、三人共必死になり過ぎていて、まずは馬を止めるという考えが思い付かないくらいにパニックになっていた。

 

 「アーン、止めて~ヒェェ!」

 

 「こらっ、ネルグイ!止まらんかっ!」

 

 三人はグルグル同じ場所で回っていた。

 見かねた庭師の太陽ナランが、ゴミ出しに現れた料理番のフルル・トゴーが駆け寄って手綱を引き、そのお陰で余裕を取り戻した兄弟が頭絡を握り、総勢四人がかりが束になってようやく馬は止まったのであった。

 

 「胸がムカムカする。気分が…… うっ、吐き……そう……」

 

 雪花は地面に仰向けになった。

 この日も惨敗した。

 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

 同日、珍しくバヤンの執務室を訪ねる者がいた。

 同じ中書省管轄下にある六部りくぶの一つ、兵部へいぶからの使者だ。

 中書省とは中央官庁の一つとされるが、元朝では門下省と尚書省は置かれず、代わりにこの中書省が最高行政機関とされていた。

 因みに、ここの長官を中書令といい皇太子が兼ね、その下の左右の丞相が宰相として実質的な政を行っていたのである。

使者は取り次いでくれた副官コルゲンの、岩盤さえも貫くのではないか、と思えるほど鋭い眼光に内心怯えつつ、それでも自分の任務を全うするため勇気を出して噂の行省長官の前に進み出た。

 

 ――侍郎じろう、 一つ頼まれてくれるか?

 

 先刻の光景が頭をよぎった。

 上司のひらひらと優雅にあおがれる香扇子が不意にパタっと閉じられた。


 「……わ、私が河南行省長官かなんこうしょうちょうかんに挨拶に行くんですか!?」

 

 まだ若い範疇に入る、明るい髪色の次官にははやくも〈地獄の門〉の前に立つ牛頭馬頭ごずめずの姿が見えていた。

 『ここを訪れる者は、一切の望みをすてよ』

 その場所は、漢人官吏達からそう呼ばれて恐れられていた。

 件の行省長官が治める河南行省開封府かなんこうしょうかいほうふは〈憂ひの都〉と呼ばれているらしい。

 よりによって自分が、そんな閻魔大王みたいな長官のもとに挨拶に行かされるなんて……

 

「兄は漢人嫌いでね、君しか頼める者がいないのだ。言っておくが、私的な用事ではない。つまり、これも政治の一つだと思って欲しい」

 

 麗しい上司は口許に古拙こせつの微笑を表していた。

 しかし目は笑っていなかった。

 それを見て思う。

 あの美しい若者とそっくりだ、と。

 

 「承知しました……」

 

ようするに自分は色目人だから大丈夫ってことなのだろう。

 

 「兵部から使いで参りました、エロゲ・ファロス・セクストゥス侍郎じろうと申します。兵部尚書へいぶしょうしょから季節の果物と文を預かり、お届けに上がった次第です」

 

 ソファーに腰掛けて黙って文に目を通すバヤンはかなりの偉丈夫だった。

 黒い結髪、衣服を透して見えるほどの素晴らしい筋肉美、組まれた長い脚にため息がもれた。

 

 「ほお。軍の忠犬も兼ねる、しがない行省長にはもったいない情報が書いてある…… 桃も旨そうだ。兵部の長官様に礼状を出さんとな」

 

 尊大な人と話に聞いていたから覚悟はしていたものの、実際会って話してみればどうだ、目の前の御仁は意外にも好ましい人物ではないか。

 侍郎には、バヤンの人柄が好印象に映った。

 ところがどっこい。

 

 「えーと何んだ?エロ・セクシー・フ○○(※ピー音入りました)侍郎だっけ?これからもよろしくたのむぞ!」

 

 侍郎の片方の衿だけがズリ下がった。

 やっぱり今思ったことは撤回しよう、そう侍郎は思った。

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